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Dos Disparos/Martín Rejtman、自分に向けた銃声、その後は?

今回は「Dos Disparos / Martín Rejtman(2014)」について。英題は「Two Shots Fired」。

映画が始まると突然映し出される、ダンスフロアで一心不乱に踊る少年。アップテンポの音楽と目の眩むようなライトに照らし出される彼の顔は、どこか晴れない。フロアを後にし、半開きになったドアの向こうに夜の明かりがのぞく。
かと思えば、次のカットで少年は昼間のバスに乗っている。いよいよ少年の顔は憂鬱がちで、こちらが普段の姿なのだろう。少年は家に帰り、なかなか快適そうな家のプールで泳ぐ、芝刈りをする。そして物置で銃を見つけ、何を思ったか2階へ上がり、銃口を頭に当て…

ところで、頭を撃ったあと、腹を撃ち抜くということは実際に可能なのだろうか? それを成し遂げたかのようなカメラワーク。
この辺りから、どこかずれたような感覚が現れる。蓋をあけてみると、1発目が逸れてすり傷を負い、腹部には2発目が入りこんで病院でもとれない。それにしても、退院後に少年が両親兄弟につきそわれて家に戻るシーンは、不可解なほどあっさりしている。日帰りで帰ってきたと考えても構わないような平坦さだ。

帰宅したあと、さすがに深刻そうな家族会議がはじまる…のかと思いきや、明るくはないが淡々とした家族の食事のあと、いつのまにか即席のカルテットが組まれている。少年のリコーダー演奏を何拍子か聴いたあたりで、あれ何の話だったっけ?と脳裏に疑問符が浮かぶ。そういう療法なのか?と想像を巡らし、多分当たっているんじゃないかと思うも、今ひとつ手応えがない。出来事の繋がりは分かることには分かるが、何だか唐突な感じがぬぐえない。

紹介ページを見てみると、実はこの作品のジャンルはコメディだ。真顔・もしくは憂鬱な顔で淡々と進んでいくのが面白い…といった映画は多いが、「Dos Disparos」はコメディを観ているのかドラマを観ているのか、途中でよく分からなくなってくる感じがある。登場人物が何を考えて行動しているのか理解しにくいせいだろうか。彼らは本物の憂鬱に向かうことはないが、かと言って真顔の笑いに向かっているようにも思えない。不条理ではあるが、分かりやすく不条理として動いているという感じでもない。

初めは言語が分からないせいで理解のラグがあるのかと思ったが、そうではなく、監督は意図して作っている。
監督はMartín Rejtman。ブエノスアイレス生まれ、アルゼンチンで活動する。2020年サン・セバスチャン国際映画祭でEurimages共同制作開発賞を受賞。Wikipediaによると、ニューアルゼンチン映画の主要人物である。

インタビューで「私は型破りな原因・効果によってお互いに影響しあっていく『ナレーション・マシーン』のような映画に興味があります」と語る。監督の映画において、登場人物の内面はあえて語られない。一方で物事は確実に別の物事へ波及していく、たとえば彼の未遂のあと、彼の母親は使い終わった刃物をふと思い立ったように隠す(ちなみに、この時画面にヨルゴス・ランディモス監督作品みたいな、謎の不穏なズームがかかっていく)。または、少年は腹に残った2発目の弾丸のために探知機に引っかかってしまい、もうクラブに入ることが叶わない。

監督は、

but where humor works anchors spectators.
Martin Rejtman on ‘Two Shots Fired’ - Variety

とも語る。直訳すると「ユーモアは観客を固定させる」、予測不可能な繋がりの中で、安定した反応を得られる箇所ができるといったニュアンスだろうか。監督は、自分のキャリアの初期には、作ろうと思えばとことん瞑想的な作品も作れたのだが、エッジとして機能する何か別のものが必要だと感じたと話す。それがユーモアだと分かってからは、プロットに積極的に導入するようになる。

また、キャラクターの考え方にも特徴がある。物語と一緒にキャラクターを考え、ある状況に対してどう動くかでキャラクターの輪郭が決定されていく。キャラクター自身を軸に設定を考えることはなく、常に人物と状況がセットなのだ。役者を選ぶときは、すでにその人の中にそのキャラクターがいるかを見るそうだ。その時、キャラクターの全てではなく、一部がいれば構わない。そのキャラクターは、撮影の中でより完成されていくか、または別のものに変質していく。

ドラマとドキュメンタリーのあいだを行くような鑑賞体験は、この演出方法によっているのだろうか。登場人物の感情の見えにくさは、むしろ現実に沿うものだ。リアルに何かが起こっているとき、こういう人が、この場面で、こういう感情になっていて…と一概にはなかなか言えない。キャラクターと演者がある種地続きになっていき、内面はより複雑に、反応はより平板で滑らかになっていく。映画の流れが、現実のテンポに近くなっていくのだ。

映し出される人々は、自身の一部だけを切り取ってこちらに見せてくれる。たとえ映画の中のキャラクターであっても、彼らの全てを知ることはできない。その距離感は、現実の人々に対する感覚と変わらない。たとえば、少年の家族の飼っていた犬は中盤、冒頭の騒動のためにどこかへ移されていく。母親が一緒に旅行へ行くのはなぜか家族ではなく、そういえばどこかで出てきていた教師と突如登場した別の人物で、知らない関係性がいきなり観客に提示される。終盤になっていつのまにか兄の語りが始まり、夜の映画館で展開する恋の後日談を聞いているとき、ふと序盤の展開を思い出し、あの日からここまで来た…みたいな不思議な感慨に浸る。「Dos Disparos」のストーリーを追うとき、現実のとりとめない日々の流れをトレースしているかのような感覚が宿る。

ちなみに監督はインタビューの中で、少年が自分を撃った理由を明かしてくれている。理由はなんと暑かったからである。天気がとても暑いと、普段はやらないことをするだろうと考えたそうだ。一理あるかも?


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