【朝読書】バナナがバナナではなくなる時
なんて、無知だったのか…
知らないってことは本当に恐ろしい話だと思った。
単なる潰瘍性大腸炎になった人の体験談とその経験の話だけだと思っていた。
読んだ本は、"食べることと出すこと"という本。
山田太一さんの書かれた「車中のバナナ」というエッセイについての引用がされていて、この内容見て正直ゾッとしたし、「同じようなことをどこかで誰かにやったことがある気がする」そして、「同じようなことを誰かにされたことがある気がする」と思った。
引用の引用になるけど、ここにnoteします。
山田太一さんが鈍行で、4人がけの電車で座っている時に中年男性がカバンからバナナを取り出した時のエピソードです。
娘さんも老人も受け取ったが、私は断った。
「遠慮することないじゃないの」という。
「遠慮じゃない。欲しくないから」
「まあ、ここへおくから、お食べなさいって」と窓際へ一本バナナを置いた。
それからが大変である。
食べはじめた老人に「おいしいでしょう?」という。
「ええ」。
娘さんにもいう。「ええ」
「ほら、おいしいんだから、あんたも食べなさいって」と妙にしつこいのだ。
しばらく雑談をしている。
老人も娘さんも食べ終る。
「どうして食べないのかなあ」とまた私にいう。
老人が私を非難しはじめる。
「いただきなさいよ。旅は道連れというじゃないの。せっかくなごやかに話していたのに、あんたいけないよ」という。
山田太一さんがバナナを食べなかった理由はこうです。
もらって食べた人を非難する気はないが、たちまち「なごやかになれる」人々がなんだか怖いのである
そして、ハッキリとした理由をこう書かれていました。
つまり、たちまち「なごやかになれる人」は「なごやかになれない人」を非難し、排除しがちだから怖いといったのだ。
この話を聞いてゾッとしました。
もちろん、潰瘍性大腸炎の人は食べれるものと食べれないものがある。
その前提で本を読み進めていたからこそ、本当に怖いしゾッとした。
初めは、「単なるバナナ」だったのが、「受け取るor受け取らないという選択肢を勝手に与える踏み絵」になってしまうことに。
つまり、勝手に渡してきて、勝手に相手に2択を迫るということ。
これがどれだけ怖いことか。
中年男性がただ優しさで出しただけであっても、それ以上踏み込むとバナナがバナナではなくなってしまう。
もっと過激になると「なんでオレが注いだ酒が飲めないのか!」なんてことになる。
本当は「受け取るor受け取らない」という自由が誰しもあるのに、その自由を勝手に奪い去ってしまうこと。
単純にバナナを渡されても怖くて食べれませんけど、その時の空気や同調圧力をかけられるとどうにもできないことだってありますからね。
でも、これって本当に身近に起きていることで、誰でも起こす可能性があるってことでもあるんですよね。
この時は「バナナ」だったかもしれませんが、
それが「飲み会」「酒」「アメ玉」「ケーキ」「お土産」などなど考えれば考えるほど出てきます。
親切心でものをあげたり、何かを誘ったりしても断られてもそれはその相手の自由。
バナナを渡しても受け取らないことが
「渡してきた人が信用できない」
「そもそもお腹が空いてない」
「おじさんが出したバナナなんて気持ち悪いからイヤだ」
「バナナアレルギー」
「何かしらの病気で食べることができない」
いろんな理由がありますからね。
あとは、その場が立ち去るってことも3つ目の選択肢になるかもしれません。
誰もが自由。
このことは忘れないようにして、バナナを凶器にしないように注意したいですね。
以上、今日はここまでです。
読んでいただいた方はありがとうございます。
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