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ショートストーリー『逢いびきゲーム』


        ①


ドアを押すとカウベルの音と共に店内のBGMが耳に心地良く飛び込んでくる。

「あ、いらっしゃい」

と、カウンターの中の和風な顔立ちの美しい女が誰にでもそうするように笑顔で迎えてくれる。

「コーヒーね?」
「うん」

それは誰が聞いても来る度にコーヒーを注文する常連客と、その店のママとの間で交わされるやり取りでしかない。誰も気に留める事のない、こんな場所にはよくある光景だ。だが、俺と彼女の心の中にだけは、この瞬間に、秘めやかなざわめきが生まれる。ここから俺と彼女の“逢いびきゲーム”が始まるのだ。

俺がコーヒーを一杯注文し、飲み終えるとカウンターの脇にある電話でいつものホテルに予約を入れる。彼女はカウンターの中でそれを聞いている。そして俺は、「じゃあ、また」とでも言って出て行けばいい。すると、彼女が後からそのホテルの俺の部屋を訪ねて来る。

…逢いびき…。

それは、例えれば、ブランデーをしみ込ませた角砂糖に火をつけて、それを指でつまむような甘美な危険さ、そして、エスプレッソコーヒーのような苦みを含んだ、俺たちの恋のゲーム。


       ②

ルームテレホンのベルが呼んでいる。俺は、ホテルの部屋の窓際のソファに座ったまま、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。何度目かのコールで受話器を取った。

「もしもし、あたし」
「ああ、お店、終わった?」
「ごめんね、遅うなって」
「もう十一時か、おつかれさま。今、下?」
「そう」
「上のバーへ行く?」
「ううん、今日は…。そっち行っていい?」
「ああ、じゃ、待ってる」

そしてまもなく、彼女は部屋へやって来た。俺は、彼女を招き入れると、外国映画の二枚目を気取って、彼女の白い麻のジャケットを脱がせてやった。薄紫色のワンピースの背中が少し広めに開いている。俺は、その華奢な肩、白い襟足を見ると、愛しさと切なさの入り混じった思いがよぎり、思わずそこにキスをした。彼女の体が、ビクンと震えた。そのまま後ろから肩を抱きしめた。

「逢いたかった…」

耳元に囁く。

「あたしも…」

言いざま彼女は振り向き、俺たちは強く抱き合った。昼間店を訪ねた時と違って、彼女は少し濃いめに化粧をしているようだが、目の下の隈は隠し切れていなかった。だが、それが妙に彼女の色気を増している。もともと年相応には見えない女だが、リーフ型のイヤリングが、年齢をさらに若く見せるのを手伝っていた。それは七年前の別れの時、俺が彼女に贈ったものだった。しかし、すぐに彼女は、さもうっとおし気にそれらを耳から外し、サイドテーブルの上に置いた。



        ③

「少し、飲みたいわ」

備え付けの冷蔵庫から、小さなボトルと氷を出して水割りを作ってやり、俺はビールを出した。三三九度の盃よりははるかに多い量だが、彼女は三口でグラスを空けた。

「もう一杯作ろうか?」
「ううん、もういいの。……抱いて!」

そう言うと彼女は、突然俺に体当たりする勢いで抱きついて来た。ビールの缶が倒れ、中身が彼女のワンピースの裾に飛び散った。しかし彼女は、そんなことは一向気にせず、無心に俺の唇を貪った。俺もそれに応えた。すでに彼女の心は燃えていた。今までくすぶっていたものに一気に火がついたように…。俺は、彼女の乱れる寸前の熱く上気した体と、まだひんやりとしたベッドのシーツとの狭間で、彼女の激しさを受け止めてやる術が、いつの間にか身に付いたのを感じていた。しかしそれはあくまでも刹那的なもの。それぞれの立場を思えば、所詮長く続くものとは考えられなかった。


        ④

「もっと…、もっともっと昔に逢えたらよかったのに…」

天井を見つめたまま、彼女がつぶやいた。

「…もっと、昔?」
「うん、…あたしがまだ、自由でいられた頃」
「一人だった頃?」
「そう…。二十歳過ぎ、くらい。その頃に逢えてたらよかったのに」
「その頃は…、俺…中学生くらい…か」
「あ、(笑)ムリか。逢えるわけないわ。それに、そんな時に会うたとしてもなあ…。……七つかぁ…」
「ん?」
「…年の差」

確かに二十歳過ぎの女と中学生の坊主では、恋愛を考えるにはため息のでる年齢差だ。

「……結婚か。…どんななのかな」
「…人それぞれと違う?」

俺のつぶやきに答えた彼女の言葉には、やはりため息が混じっていた。

「…キミは…しあわせ?」
「………」

しばらく静寂が続いた。このホテルは、夜中でも車量の多い交差点の一角にある。しかし、その九階ともなると、救急車のサイレンの微かな音以外、さすがにここまでは届いて来ない。

俺の問いに、彼女は答えなかった。眠ってしまったのかと思ったが、そうではなかった。瞬きもせずに、じっと天井を見つめている。俺は、バカな事を聞いてしまったと思った。俺たちはここで何をしている? 俺と彼女が今ここにいるという事を考えれば、彼女の二度目の結婚が幸せなものだったのか、そうでなかったのか、答えは明白だ。心の中で苦笑した。

沈黙を拭い去る気の効いた言葉も思いつかず、サイドテーブルのタバコに手を伸ばす。その細身の先に火をつけた時、不意に彼女の指が、俺の口元からそれを奪い取った。彼女が大きく息を吐くと、薄青色の煙は、勢いよく天井に向かって広がり、すぐに分散した。

「やめろって」

俺はタバコを奪い返した。

「まだその長いの吸ってるのねぇ。あれからずっと?」
「ああ、ずっと」
「ふーん。……あたしね、時々思うんよ」
「ん?」
「うん。……子供も、家庭も、お店も何もかもなかったらなーって」「………」
「そしたら、東京へでもどこへでも行けるのにって…」

俺は、彼女に未練を残していた。そして、彼女も…。

七年前、この京都で俺たちが初めて出会った時、彼女は最初の夫と離婚して、幼い男の子を女手一つで育てていた。役者の卵だった俺は、その頃の仲間内の溜まり場だった喫茶店に勤めていた彼女を好きになり、そしてどうやら、彼女の方もまんざらではない様子だった。

やがて俺は東京で仕事をする事が決まり、上京の直前に、彼女に思いの丈を打ち明けた。君の事を愛している。出来る事なら一緒になりたい…と。だが結果は、それを告白してもしなくても、返事を聞いても聞かなくても、はじめからわかっていた。彼女には子供があり、そして、この京都でささやかな喫茶店を開くという夢があった。俺にもまた俺の夢があり、そのために京都を離れなければならない。言わば、それは別れを前提にした愛の告白だったのだ。そして俺たちは離ればなれになった。

その三年後、俺が彼女を訪ね再会した時、彼女はすでに再婚していた。そして、新しい夫の援助もあり、彼女は「店を出したい」という夢を実現させていた。俺自身も、成功とまでは言わないが、何とか生活できるほどの仕事が入るようになっていた。ある意味では二人とも夢をつかんだのかも知れない。しかし、その次の年、またその次の年…と、そして今年も二人はこうして同じホテルで逢っている。これは、その互いの夢のために犠牲にしたものへの未練…。そう呼べないだろうか。

「今自分が、全てから解放されて自由の身であれば、どこへでも行けるのに…東京へでも…」

と彼女が言うのは、まさにその証ではないだろうか。しかし、その言葉に対し、俺は何も言い返せなかった。彼女自身、現実から逃避することなどできないとわかっている事を、俺は知っているからだ。

「…ふふっ。ウ・ソ。嘘よ、今の。あたしには子供が一番大事。今のままでええわ」

彼女は、ひとつの本音をもうひとつの本音で打ち消した。

「でも、俺たち…いつまでこんな…」
「そんなん、わからんわ! …もしあなたに好きな人が出来て結婚するような事になったら…。…けど、そんなん…、そんな先の事なんかどうなるかわからへんわ」

一生懸命笑みを浮かべつつそう言いながら、また強くしがみついて来る彼女。狂おしいほどの愛しさが、俺の胸に激しく込み上げてくる。その時、俺は多分、彼女よりももっと強い力で、彼女を抱きしめていた。


       ⑤

男と女の関係。世の中には、様々な関わり方がある。そのどれもが幸福を含み、厄介を含み、不思議を含む。追えば逃げる。逃げれば追って来る…とはよく言う。また、互いに求め合う二人がいたとしても、どうしようもない何かがその間に立ちはだかり邪魔をする事もある。そして、男も女もわがままで欲張り。それぞれに生活の場を持ち、その上にほとんど継続など不可能に近いもうひとつの世界を求め、さらにその永遠すら求めてしまう。

もしそれが、本当に自分に相応しい幸福に値するものなら、それのみを得る努力をするのもいい。でなければ、そんなものは早く諦め、もう望まない方がいい。悲しみが増えるだけだから。だが、前もってそれがわからないから、男と女は彷徨い続けるのだろう。

三時間ほど眠り、まだ夜が明け切らないうちに彼女は出て行った。彼女は、音を立てないよう、揺らさないようにベッドを抜け出した。俺の知らぬ間に消えたかったのだろう。だが、俺は知っていた。彼女が部屋のドアを開け、閉めるその瞬間、俺は「さよなら…」とつぶやいた。ドアの音が、すぐにそれをかき消した。一瞬俺は、俺の声ともうひとつの声が重なったような気がした。

彼女も「さよなら」と…?!

次に俺は、微かに微笑んでいる自分に気がついた。「これでいいのだ」…と。もしかしたら、もうこの次はないかも知れないのだ。俺はもう、この街に来ないかも知れない。また来るかも知れない。そして彼女は、また俺を待っているかも知れない。もう待っていないかも知れない。

所詮、永遠に続くゲームなどないのだから…。


                   …End



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