終戦記念日

終戦記念日か…それでは俺も恒例のひとくさり。

August 15th is war-end anniversary in Japan.

人は死んだら「無」だ。

あの世も霊も何もない。
肉体は物質として滅ぶだけ。

だから、
どんなに盛大な葬式をしようが、
遺物をそのまま残そうが、
線香を炊いて手を合わせようが、
立派な墓を建てようが、
頻繁に墓参りに来られようが、
高い戒名をつけられようが、
英霊になって祀られようが、
勲章を貰おうが、
銅像になろうが、
仏様になろうが、
神になろうが、
それは全て残された生きてる人のためだ。

死んだ人は喜ばないし、悲しまない。
生きてる人の満足と故人を偲ぶためのもの。
生きている人の中に故人の思いが残るだけ。
伝えるものはあるとは思うけど。

残された人の思いとして、決して観念を否定するものではないが、
俺はそう考える。

The end of the world war 2 anniversary

太平洋戦争、大東亜戦争、第二次世界大戦…は、俺にとっては単なる歴史的事実に過ぎない。歴史の教科書の数頁。だから、それについての思想的な考えは基本的にない。戦没者に哀悼の意思を捧げる気持ちも非現実的だ。

ここは、特攻隊の中継基地でもあった菊池(花房)飛行場跡地で、あちこちに戦争遺物が残ってて、70年以上も前に、同じ場所に同じように人が生きてて、亡くなったのを想像すると感慨深いものがあるというだけのことだ。

祖国や郷土を守るために、犠牲になった方々のおかげで今の繁栄と平和がある…とはよく言われることだが、俺はその考えには納得、理解できない。ほとんどが、やむを得ず雰囲気にのまれて、また強制によって参加したのであろうし、戦後の復興の始まりは米国の洗脳・占領・植民地政策のおかげであろうと思うからだ。そんな美化はいらない。

特攻隊も、日本的美学の究極の形という哲学的な思いがあって興味があるだけだ。意義ある死とは思わず、全くの無駄死にだと考える。特攻の生みの親、大西中将は「負けるであろうが、日本的なものを遺すため」と言って腹を切って介錯も断った。

徹底した自虐史観は先進国の証しだ。反省があって初めて歴史は進歩する。

今日もヤスクニでは、コスプレした不逞なバカや、恣意行動でしかないアタマの悪いウヨクどもが、一般参列者を押し退けて陣取るのだろうか?

戦争では、時期や規模の大小、意義や理由は様々違っても、概ね、虐殺、侵略、粛清、捏造が起こってる。こっちは正しくて、あっちは悪いとは単純に言えない。

近代文明の大きな定理として、争いでも犯罪でも刑罰でも、殺人は敬遠されるべきだと考える。

だいたい、“尊い犠牲”って何だよそりゃ、アホか。

いくら追悼の意を表しても、世界中で戦争は終わることなく続いてる。今も。

黙祷も良いけど、人間はなぜ争うのか、なぜ破滅願望があるのか、死とは何か等を探った方が、反戦の意味でも、何十倍も良くて効果があると思うけどさ。

犠牲者に追悼、黙祷、合掌、敬礼とやってもほとんど意味なんかないぜ。


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。