見出し画像

フェイクの価値を今こそ熟考してみたい

Taylor SwiftのDeepfake問題に興味を持ったのは、最新ニュースのヘッドラインからではなく、YOASOBIの曲を彼女のAIがカバーした音源をYouTubeで見つけた時だった。

本人は歌えないであろう日本語歌詞を本人の歌い方のくせや特徴を見事に表現して歌うAI。DeepFakeのAIの仕組みを知らないので、どのように作られたのか分からない。(例えば、AIのフィルターをかける前に、ゴーストシンガーがいったん声を吹き込む必要があるかどうかとか?)

しかし、単純に楽しませられていた自分にヒヤッとしてしまった。

今エンターテイメント業界では、このTaylor Swiftだけでなく、ハリウッドの俳優たちのデモや、さまざまなアーティストから賛否両論の声明が出ていて、Deepfakeをどう扱うべきかに論点が置かれてディスカッションされている。

私もだいぶ前に、フェイクニュースに対するデザイナーの責任について書いたことがある。しかし、ここまで来たら、フェイクに対するリテラシーやモラルの向上ではなくて、必要なのはフェイクの価値の再考、つまり「なぜ私たちはフェイクが必要なのか」について考えていくべきではないかなと思い始めてきた。

UnHerdのこの記事では、Deepfakeを使った2つのドキュメンタリー作品、『Roadrunner: A Film About Anthony Bourdain』と『The Andy Warhol Diaries』を比較し、技術使用の開示によるオーディエンスの受け取り方の違いについて語っている。

2時間のうちたった数文分のオーディオにDeepfakeが使われていたと「後から」発覚したボーディンの映画はかなりの批判の的になったのに対し、初めから全編をDeepfakeで制作したと公表したウォーホルの方は、使用はポジティブに受け入れられたという。

記事ではこれを「偽の納屋地区」という思考実験に連想させている。この架空の地区をある人が通り過ぎ、納屋を「見かけた」と思う。そのとき、この人がこの地区には本物の納屋はほとんどなく、本物に見えるように精巧に作られたファサードでできていると、「知っている」か否かで、自分が見たものへの信頼関係が変わるという実験である。

中国がDeepfakeの利用には、本人の了承を得ることと、使用を明記するウォーターマークを義務付けたという。オリジナルとフェイクが全く同じ体験を提供できたとしても、私たちがオリジナルの方が優れていると思うのは、それが「はじまり」でありその価値を作ったと「知っている」からであるが、「フェイク」の開示によってその力関係から降りて、視聴者との信頼関係を再構築し、「体験エンハンサー」として新たに評価を得る、というのは確かに一つの手段かもしれない。

そう考えるとレプリカやパロディも、人々に楽しみを与えてきた「体験エンハンサー」である。Open Universityの「Faking Nature」という無料講座では、コピーの価値を考えるヒントとして、トリビュートバンドのコンサートのオーディエンスにインタビューする場面が出てくる。彼らは、トリビュートバンドに対して「無いよりは良い」と評価する。オリジナルよりもアクセスが簡単で、同レベルとまでは行かずとも、満足できる高揚が得られる。

私たちがフェイクを必要とする理由は、この高揚をもう一度体験したいと願う「ノスタルジア」ではないだろうか。オリジナルの価値の一つには、思い通りに行かないこと、コントロールできないことがあるはずである。手に入らないと分かればわかるほど、それを欲しいと思う気持ちが高まる。極右派がTaylor Swiftに裏切られたと思ってDeepfakeポルノを作った理由も、そこにあると思う。

そういった願いを持った人の目の前に、この高揚に簡単アクセスできるツールが現れたとしたら。というよりか、ツールの登場がそのノスタルジアがあったことすら知らなかった人にも、欲望を与えた、という方が正しいのかな、とも思う。

例えば、今私はミュンヘンで暮らしているが、ふと日系レストランの前を通りかかり、日本を恋しく思って、足を踏み入れたりする時は、まさにこの「フェイク」の高揚を求めていると思う。すぐにはオリジナルが手に入らないからこそ、フェイクが日常の温度を上げてくれる。

この「Faking Nature」の講座の最後には、もう一つ大事なインサイトが出てくる。歴史的建造物の保護を目的とする団体、ナショナル・トラストの活動を指揮してきた建築史家Jeremy Mussonは、歴史的建造物を修復するときは、元あったように完璧に再現することよりも、次世代に何を伝えたいかをベースに修復するという。例えば、戦争などの人的災害が建造物を破壊した時、焼けた壁紙をそのままにするなど、その事実があったことがわかるような形跡を残して、修復したりするそうだ。

フェイクが価値だけでなく、それ自体が意味を持つのは、このような瞬間ではないだろうか。オリジナルが作ってきた、歩んできた歴史を尊重し、それをどのように伝えたいかを自分なりに解釈して提示する。それは、フェイクにしかできないことであり、オリジナルの意味やそれを取り巻く文化を豊かにするアクションでもある気がする。(音楽のサンプリングは近い場所にあるかもしれない。)

フェイクについては、もう少し熟考していきたいが、少なくとも私たちは、フェイクの利用に「願い」が隠れていることを忘れてはならないと思う。社会学者のTressie McMillan CottomがNY TimesのEzra Kleinのインタビューで「ノスタルジアの危険性」について語っているが、何かを恋しいと思う気持ちがコントロールできないことへの恨みの裏返しかもしれないことをいつも気にかける必要がある。

そのコンセンサスの上で、フェイクの癒し効果や、オリジナルへの新しい解釈を歓迎していくことが、健康的な向き合い方ではないだろうか。

Cover photo by Mahir Velani on Unsplash

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?