「内面」だけでは「現実」は変わらない

先にお伝えしておきます。

今回は、非常に哲学的な要素が多分に含まれます。
人によっては混乱を招いてしまう恐れがありますがご了承ください。
では、どうぞ。

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どうも、今まで勘違いしていたところがある。

「自分の環境に不満を持っている」のは、それを「自分で選んだ」からというのは間違いない。

そういう価値観を今まで持っていて、それを積み重ねて選んだその先の未来の結果が「今」なのだから。

そして「今」の瞬間をさらに積み重ねると、「未来」にとっての「今」である。

で、何を勘違いしていたかというと…。

価値観を決めているのは、自分の内面からではないということである。

どういうことか。

今までは、自分が「このときはこう」とか、「自分はこういう人間なんだ」と、どこかに「定まっている自分」というものがあるということを考えていた。

それも多角的に様々なところからの見方があるから、見えているものも様々であると。

けど、じゃあそもそも「自分の価値観」というものがどういう風につくられてきたのか。

まず、何かしらの「経験」をするしかない。
例えば勉強、スポーツ、料理、絵画、ゲーム…何でもいい。

そうした「外側からの経験」を得ることによって、自分というものが作られているといっておこう。

そうした経験から、自分にとって都合のいい解釈をしていくことで「自分の価値観」というものが作られる。

どうも、考え方の前提が崩れることになる。

さらに加えて、ここから人によっては難しい話に聞こえるかもしれないが。

そもそも、「価値観」とは何かということにもなる。

というのも「価値観」という言葉を知らない限りは、「自分のこと」というのが定まらない。

いや、そもそも「自分」というものですらも怪しくなってくる。

つまり、物事としての「事実」、何かがあるということや動いた状態を指すことというのは、それを認識するには「言葉」が必要となる。

具体的にいうと、今これを読んでいる「文字」というのは、「文字」という意味づけをして理解を自分と他人で共有しない限りは「文字」として認識されないのである。

するとどうなるか。

目の前にある物事はあるけど、「言葉としての意味付け」が様々なものとして生じてくる。

意味付けは人によって変わってくるが、いずれにしても言葉の種類としては時には同じものにもなることがある。

けど、人によって同じ言葉をつかっても意味合いとして変わってくることもしばしばある。

だから、物事は変わらない。
けど、意味合いが違うから人によって「価値観」というものが変わってくる。

そう、「価値観」というものも「言葉のなかでの意味付け」でしかない。

で、今度は言葉というものはどういうものかになるが、これは「自分と他人とが共有できない限りは意味のないもの」になる。

するとどうなるか。
今度は「価値観」というものは言葉の世界のものであり、言葉というのは他人と共有しない限りは意味をなさない。

そう、自分だけの持っている価値観というのは「他人と共有できない限り」は無意味となる。

つまり、自分だけの世界というのは実はあまりにも意味をなさない、自分というものがどうやら「物体、生物としてはある」けど、「物体、生物としての意味付け」というのはありえないということである。

で、最初のほうに戻るが。

結論を伝えると。

「自分の中だけの価値観」というものがそもそもありえない。
もしあるとするなら、それは単なる「言葉の世界」に過ぎない。
言葉として物事を認識できない限りは、そこに世界はありえない。

ということである。

これを具体化してもっと分かりやすく伝えられたらと思うが、それをしきるのには少し時間がかかりそう。

分かりにくいと感じた人には、しばし待ってほしい。

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