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保育と社会福祉を漫画で学ぶ 「進撃の巨人」と思春期課題 その2

神話めいた多義的な漫画作品「進撃の巨人」には、思春期の課題が描かれているのではないかと考えて書いてきた書評エッセイ。
前編では摂食障害や引きこもり、大人への忌避感が描かれているのでは、と検討してきました。
今回は後編をお届けします。

意思を奪われたように、無表情で人類を喰う巨人たち。
かれら「無垢の巨人」の他に、人類と会話できる巨人がいた。
全身が毛で覆われた「獣の巨人」は人類に話しかけ、他の巨人を操る能力を持つ。
特別な能力を持つ九人の「知性巨人」がいることが分かり、巨人化できる能力を持った少年エレンはその一人だと明らかになった。
「知性巨人」の能力を得るためには、エレンらエルディア人が「無垢の巨人」の脊椎液の注射を受けて巨人化し、「知性巨人」化できる者を喰えばよい。
エレンはそのことを知る父から注射を受け、巨人化して父を喰ったのだ。
父は「進撃の巨人」と「始祖の巨人」の能力を得ており、それをエレンに引き継がせた。
しかし父を喰ったことは、エレンの記憶から失われていた。
(第9巻~第21巻より)

赤ん坊は自分を世話してくれる母親を、自分の延長のように捉えます。
「親を喰い殺して巨人化の能力を得る」という設定には、精神分析などで語られる、乳児が母親を取り込んで成長しようとする願望が表れているようにも読めます。
しかし、この物語では喰われたのは父親でした。
喰ったり喰われたりすることで、巨人化の能力が受け継がれたり奪われたりする様子は、現実社会の権力闘争のようでもあります。

エレンらエルディア人はかつて巨人化の能力を持つことで世界を征服したが、政治的な駆け引きと戦争の結果、覇権を失った。
そしてエルディア人は、あの壁の中で生きる人々と、壁の外のマーレ国において、差別的な扱いを受けて生きる人々に分かれた。
壁の中のエルディア人は王による洗脳を受けて、巨人を恐怖の対象として生きることになった。
また壁の外のエルディア人はマーレ国の教育を受けて、差別的待遇に甘んじた。
マーレ国は七つの巨人を従えており、壁の外からきた「知性巨人」らの目的は、エレンがもつ「始祖の巨人」の力を奪うことだった。
(第21巻~第25巻より)

社会が共有する「大きな物語」は、多くの人が正しいと考えるから「正しい」と思えるものです。
歴史や宗教はそのような価値観の土台を私たちに与えてくれます。
ですが、それは対立する立場から見れば、全く逆転した見え方ができるものになります。

例えばユダヤ人を忌み嫌い、かれらの絶滅を企てたヒトラーが、実はユダヤ人だったとしたら、そのことに気づいたとき、彼はそれまでの自分の信念や言動をどのように感じるでしょうか。
アイデンティティが混乱し、これまでの言動に正反対の評価を下さずにはいられないのではないでしょうか。

「進撃の巨人」の後半では、歴史と記憶の不安定さ、そして民族や戦争といった問題が盛り込まれます。
様々な立場の登場人物が、それぞれの経緯と必然性を持って巨人や祖国を巡る戦いに加わります。
登場人物それぞれの事情を知ると、敵が味方のように見え、味方が敵のように見える場面が頻発します。
人間の数だけ正義があり、視点が変わるとその正義は正義で無くなります。

「進撃の巨人」では集団の歴史や個人の記憶については、前提が変わればどうとでも解釈できる、真実性が不確かなものとして描かれているようです。
その反面、民族や血統、そして身体的な衝動は確かなものとして描かれていないでしょうか。
巨人化する能力は親から子へ血統で引き継がれていますし、エレンの行動原理にあるものは身体的な衝動のようです。

身体的な衝動や親子の血のつながりは、はたして集団の歴史や個人の記憶よりも確かなものなのでしょうか。
実際にはそうではありません。血統は記録や記憶の改ざんがあり得ますし、身体的な衝動や反応をどのように意味づけるのかは、人により、場合によって変化します。

ですが、思春期のただ中にいる人にとっては、まさに身体的な衝動こそが確かなものだと感じられるでしょう。
大人たちに反抗するとき、大人が信じている社会規範や価値観に対する意味づけは変化します。
幼少期には大人の言うことを素直に信じていたはずなのに、今度は大人や社会の何もかもがおかしいと感じるようになります。
思春期の人は、「自分は大人から洗脳されていた」と考えるかもしれません。そこで頼りになるのは、身体に漲るマグマのような衝動だけなのです。

物語の終盤では、「獣の巨人」ジークが、エレンの異母兄弟であったことが明かされる。
ジークはエルディア人の「安楽死計画」を企てていた。
巨人化できるエルディア人がいる限り、その能力を求める戦いが起こる。
エレンの身に宿る「始祖の巨人」の力を使ってエルディア人が子孫を残せないようにすれば、やがて世界から「巨人」はいなくなる。
ジークは、「エレンは父から洗脳されてマーレ国を敵視している」と考え、エレンを説得して「安楽死計画」を進めようとする。
エレンとジークは接触し、二人は「始祖」の少女ユミルが閉じこもる異次元空間、「座標」に移動する。

「始祖」ユミルは、かつてエルディア人の奴隷だったが、偶然に巨人化の能力を手に入れた。
少女だったユミルは奴隷のまま王と結婚させられ、エルディア繁栄のために「座標」で2000年に渡って「巨人」を作り続けることとなった。
「始祖」ユミルに命令を下せるのは「始祖の巨人」の力をもつエレンだけ。

しかしエレンは、ジークの説得を聞かず、ユミルに「誰にも従わなくていい。お前が決めろ」と告げる。
ユミルはかつて人類を守る壁を形成していた「超大型巨人」たちを解き放ち、全世界を踏み潰す「地ならし」を起こさせる。
(第28巻~第31巻より)

「進撃の巨人」の冒頭では、人類が壁の中に閉じこもっているという設定でしたが、終盤では巨人を生み出した「始祖」の少女ユミルが「座標」に閉じこもっていたことが明らかになります。
(なお、始祖ユミルは、物語の前半で巨人化した皮肉屋のユミルとは別人です)

始祖ユミルはかつての王に命じられたまま、閉じられた世界で生きており、目に光がありません。
冒頭で壁の中に生きる人類と、終盤で「座標」に閉じこもるユミル、冒頭で外の世界から現れた巨人と、終盤で「座標」に到達したエレンの姿は重ならないでしょうか。
筆者には、思春期の不安や恐怖心から閉じこもり、幼少期に信じた大人の教えを守り続ける子ども(人類/ユミル)と、閉じこもる子どもに接触しようと試みる援助者(巨人/エレン)のように見えます。

さてジークの「安楽死計画」はエルディア人の絶滅計画、エレンと「始祖」ユミルが起こした「地ならし」は全人類の絶滅計画です。
ともに極端な危険思想であり、現実世界で実行すればテロリストにならざるを得ません。
物語の終盤では、人類絶滅を目指して姿を変えた「進撃の巨人」エレンが、「地ならし」を止めようとするエルディア軍・マーレ軍・義勇兵や「知性巨人」達と戦います。
攻撃的な衝動をフルオープンにしたエレンですが、表情はうつろです。

エレンは自らを「全人類の敵」と位置づけたようです。
実は「全人類を救いたい」という思考と「全人類の敵になりたい」という思考は、ともに誇大な自己像をコントロールできていない点が共通しています。
自己評価は高すぎても低すぎても危険です。
それは他者との関係のアンバランスさを示すものだからです。
私たちの大多数は、「全人類の敵」にも「救世主」にもなれません。
ですが、思春期のプロセスに苦しむ人は、「世界を破壊しつくしたい」といった幻想を持ってもおかしくありません。
現実には、実際に周囲の人や物を攻撃すれば、周りから危険人物扱いされて自分の居場所を失ってしまいます。
破壊や攻撃が満足につながるのは、衝動性が高まったひと時だけなのです。

幼児的な万能感の世界には、自分と対等な他者はいません。
自分の延長である家来か、邪魔をする敵しかいません。
その状態から離れて、対等な他者との関係をもつ地平に立つために必要なことを、ふたたび精神分析をヒントに考えると、それは他者から万能感の根源を「去勢」されることと言えるでしょう。

「去勢」とは「あなたは万能ではない」ということを突き付けられ、それを受け入れるということ。
それができなければ、他者との対等な関係をもつことはできません。
「去勢」に失敗したら、万能感を引きずって生きることになります。

万能感を持ったままで大人になることは、一見すると自分中心で楽しいように思えるかもしれませんが、実はそうでもありません。
家来はいつ裏切るかわからないので、本当は敵だらけなのです。
万能感と疑心暗鬼の不安感はコインの両面にあって、冷静な判断を危うくします。

「去勢」に失敗した場合に起こりうる、危険な結末のひとつは、現実世界での居場所を失ってしまうことです。
「進撃の巨人」の終盤では、こうした「去勢」をめぐるスリリングなやりとりが描かれているように思われます。

乳児は母親を取り込もうとする欲望をもつといいました。
一方で「去勢」は、父親がはじめての他者となって行う象徴的な行為です。
「進撃の巨人」では少年エレンが喰い殺したのが父親でした。
兄ジークもエレンの説得に失敗します。
彼を「去勢」できるのは誰なのでしょうか。

思春期の爆発的な衝動は、多くの人にとって10代後半には収まり、大人社会への適応が進んでいきます。
ところが、たまに収まらない人たちがいます。
かれらは創造性豊かにアーティスト活動をしたり、ビジネスの世界で起業をしたりします。

自己愛と攻撃性が強く、自分と周囲の人との境界線が充分につかめず、他者の人生に過剰な介入をしたり、あるいはそうした介入をさせるために他者を誘惑したり、理解を求めるような姿勢を示したかと思えば、突然手のひらを反すように関係を断絶したりします。
バランスが悪いのに、突出した才能を見せたりすると、注目とともに羨望や反感を集めて攻撃対象になってしまうことも少なくありません。

母親の取り込みと父親からの「去勢」は乳幼児期の課題ですが、その時期だけでは片付かない課題は、先送りされて思春期に清算を求められます。
衝動のままに非行に走るなどの逸脱行動をすると、警察官や教師などが父親にかわって「去勢」することになります。
変な言い方ですが、ここで「去勢」をしてくれる他者に出会うことで、人は社会化されて「丸くなっていく」のです。

一方でパーソナリティに課題がある、あるいはパーソナリティ障害をもつ人たちの多くは、思春期頃からその特徴を示し始めます。
かれらは周りが「去勢」に失敗したのか、あるいは本人がその機会をうまく切り抜けてしまったということではないでしょうか。
そうした人たちがアートやビジネスのような活躍の場が得られない場合には、犯罪者になったり、精神病を患ったりすることがあります。

いわゆる「先生業」の人たちの中には、周りが「去勢」に失敗したのに本人の能力が高いために、現実の居場所を得てしまった人たちが、一定程度います。
専門分野では高い成果を上げられるのに、実生活ではハラスメントや馬鹿げた反社会的な行動によって人生を台無しにしてしまうことがあります。

「進撃の巨人」の世界が、そのままパーソナリティ障害の世界だと言いたいわけではありません。
ましてや作者について断定的なことを書く意図は全くありません。
ただ筆者の視点から捉えた「進撃の巨人」の世界には、思春期の人たちの心持ちが鮮やかに描かれているように思われること、そしてその特徴の延長上には、パーソナリティの課題や障害を持つ人の特徴があると考えているにすぎません。
多義的な作品は様々な解釈が可能です。
あなたはエレンたちの物語をどう読まれるでしょうか?

紹介作品:
 諌山創(2010-2021)『進撃の巨人1~34巻』講談社
※本エッセイで紹介した作品中のセリフなどは、読みやすくするために、意図を損なわない程度に改変している場合があります。

本エッセイの初出は「対人援助学マガジン」54号(2023)です。https://www.humanservices.jp/magazine/number54


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