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『花をもらう日』第三章 きょうだいたちとの仕事④

 母が買ってきた『マディソン郡の橋』を読んだ。ものすごく売れているのだそうだ。ちょっと泣いた。
 山田詠美の帯に惹かれて買った、テリー・マクミランというアメリカ人女性作家の『ため息つかせて』もとてもよかった。4人のアフリカン・アメリカンの女性たちのタフな恋と友情。夢中でページをめくった。通勤電車の中で本を読むのは楽しい。今読んでいるのは、松浦理英子の『親指Pの修業時代』の上巻だ。サイケな表紙カバーが格好良い。新刊の単行本を上下巻まとめて買えるって、なんて気持ちのいいことなのだろう。
 「Pってなんなんですか?」
 受付の井出さんに聞かれる。最近、夕方の30分休憩を井出さんと一緒に取ることが多い。
 「あ、えーとね……」
 Pはペニス。足の親指がペニスになってしまった女性の物語なのだが、さすがに職場でその単語を口にするのははばかられた。でも、相手は井出さんだ。支社長も出かけているし、いいだろう。
 「……へえー! 面白そう!」
 井出さんの両親は、ものすごく仲がいい、らしい。それは、手をつないで歩くとか、よく一緒に旅行に行くとかいった類のものではなく(行くのかもしれないが)、セクシーなビデオや大人のおもちゃが家の中に普通に置いてあり、子どもたちも小さい頃から夫婦の営みについての知識があったという、本格的な(?)ものだ。
 「私、どこのうちの親も一緒にお風呂に入るんだって思ってて、そうじゃないって知ったときは衝撃でしたよ。中学の頃でしたけど」
 「それ、同級生たちのほうがむしろ衝撃だったんじゃない?」
 「たしかに、みんな驚いてましたね」
 もちろん今も一緒に入ってますよ、と笑顔で言う井出さんを見ていると、すこやかという言葉が浮かんでくる。大人のおもちゃにどんなものがあるかについても、映画のあらすじを説明するような感じで教えてくれるので、みんなで「ふうん」と言いながら聞いたりする。
 「そういうのって、どこで買えるんすか」
 青木くんが尋ねる。「必要なの?」と石川くんが予想通り突っ込む。わたしは2人の会話を聞くのが大好きだ。
 「備えあればナントカってやつですよ」
 「家庭教師センターの社員がナントカじゃだめだろ」
 「備えあれば……うれしいな?」
 「お、めずらしく惜しいな」
 「惜しくないでしょ」
 内藤さんが締める。この頃、内藤さんはときどき眼鏡をかけるようになった。細いオレンジのフレームが、髪の色にとてもよく合っている。
 わたしのほうはやっと眼鏡生活から解放され、コンタクトレンズを長時間装着できるようになっていた。きちんと化粧をしようという気持ちになり、流行りの赤いリップを塗り、艶消しの黒いボトルがたまらなく大人っぽい沙棗のオードパルファムをたまに着けた。
 身なりに構うことができるようになると、気分が上がるだけでなく幸福感も増す。比喩でなく、視野が広くあかるくなる。その日、わたしはザ・ギンザのコートを着て出勤していた。濃いエメラルドグリーンの、襟の大きいコートだ。帰りにまたそれを着られると思うと心が浮き立った。
 好きなものをある程度買え、楽しく話ができる人たちがまわりにいる。豊かってこういうことだと実感する。わたしは、自分の芯がゆっくり、温かくほどけていくような感触を日々、この職場でもらっていた。大丈夫、と自分に対して思えるようになっていた。

 20時。内藤さんは今日は残業するという。先に帰ることにして、ハンガーからコートを取り、羽織った。受付のテーブルに置いてある何かがちいさく揺れた。
 何か。わたしは毎日、井出さんの前にあるそれを視界に入れていたはずだ。
 でも、見たのはその日が初めてだった。

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