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漢字について考えたこと(「悲恋の文字がたり」あとがき)

 以下は、上掲の記事を書くにあたってこんなことを考えましたという楽屋裏をつらつら語るような内容です。
 作家が自分の書いたものをくどくどと解説するのは、自分が作品内で表現する力がないことを告白しているに等しく、場合によってはかなりみっともない行為になりえます。画家が自分の絵の見どころを語ったり、音楽家がここを聴いて欲しいと主張したり、芸人が自分のネタの笑いどころを解説しはじめるようになっては興ざめです。しかし、自分はプロの創作者ではないので、そういう恥知らずなことでも堂々とできてしまいます。

 さて、上の記事は、普段適当にものを書く自分にしては、未熟ながらも仕掛けあるいは小道具を意識しながら書いた気がします(「プロット」などという気の利いたものではありません)。そして、「小説」として成り立っているかどうかはともかく、発想はまあまあ面白かったと思うので、この作品を書くためにどんな道筋があったのかを見えるようにしておいて、今後書くものの参考にするための自分用メモを兼ねておこうという魂胆です。

 読書が三度の飯よりお好きなあなたでも、読む気がしない時間が、たまにはあると思うのです。自分の場合は読書したい時としたくない時の落差があって、結果として積読が常態化しています。積読癖自体は昔からなので普段は何とも思いません。しかし時々思い出したように、あれもこれも読まなければと焦ることがあります。焦れば焦るほど、かえって読書が進まないという悪循環が生まれます。そんな悪循環にまみれながら、無理に書物とにらめっこしているうちに、文字がニョロニョロはみ出してくるようなイメージが湧いてきました。そのことをまずTwitterに投稿したのが最初の種です。

 文字がニョロニョロ、はありがちですが面白いイメージができたなと思いました。これをお話にしたらもしかしたらちょっとは楽しいかもしれないと、肝腎の読書はそっちのけで考え始めました。積読タワーはまたしても崩壊を逃れたわけです。
 最初に、文字がページからはみ出してぞわぞわと逃げ出していくような映像を頭に浮かべました。最初のタイトル案は「文字、逃散ちょうさんす」でした。逃散という言葉は、歴史学では中世の小作農民が田畑を放棄して領地を移動し、領主に抵抗の意志を示すことで、結構自分好みの捨てがたいタイトルなのですが、最終的には話のイメージにそぐわずボツにしました。

 他方、漢字が崩れていくイメージもずっと頭の中に描いていました。文字が単なる線の集まりとしてバラバラになっていく「ゲシュタルト崩壊」の様相といえば、自分のなかではまずもって中島敦『文字禍』が頭に浮かびます。しかしどちらかと言えば、同じ中島敦関係でも、直接的なヒントとなったのは筑摩書房刊『中島敦全集』別巻付属の月報4に掲載されていた多和田葉子さんの『山月記』をめぐる解説文でした。それは「文字の身体性について」という短文で、以下のように書かれています。

漢字が意味を超えて、言語の身体としての存在感を持って迫ってきたのである。虎のイメージと「虎」という感じがいっしょになって迫って来たのである。
(中略)
小説の初めの部分、主人公李徴の若い頃を紹介する部分には、虎の字やケモノヘンのつく漢字が多く出てくる。たとえば、「虎榜こぼう」という単語。李徴は若くして科挙に合格したので、当然、合格者の名前を記した札「虎榜」に名前が載る。そうして一度は役人になったが勤めが続かなかったのは性格が「狷介けんかい」、つまり片意地で他人と協調しないせいだという。「狼狽ろうばい」「狡猾こうかつ」「猖獗しょうけつ」を始めとして「猜」「猥」など、けものへんの憑く性格を帯びてしまったものは、人間社会からいつかは追われてしまう危険を背負う。その頂点をなすのが、「狂」の字だろう。「狂」こそ、けものへんの王者である。

多和田葉子「文字の身体性について」

 自分は現代文学をほとんど読んできておらず、それまで多和田さんのものに触れる機会がなかったのですが、一読しただけで、なんと言語感覚に優れた書き手かと感銘を受けました。そして、初めてこの文章を読んだときからずっと、漢字を部首に解体して考える発想法が、頭の中で通奏低音のように響いていました。自分の記事において「心」や「亦」を類別する記号として使う発想は明確に『山月記』の虎の部首やケモノヘンの並びから得たものです。

 漢字といえば、ここ数年白川静氏の漢字の著作に気をつけて見ており、多大な恩恵を蒙っています。平凡社ライブラリーの『文字遊心』が座右にあるので、時おりぱらぱらとページを繰ります。また、Twitterの白川静botからはいつも示唆に富んだ内容がやって来て、イメージ作りに活用しています。例えば上の多和田さんの一文でも触れられていた「狂」という文字について、以下のようなツイートが流れてきました。

 あるいは最近面白いと思った言葉、「くま(隈/曲)」から派生した「くまくまし」。


 他にも、気づいてみれば岩波ジュニア新書の一海知義『漢詩入門』からはじまって、狩野直喜『漢文研究法』、鈴木修次『漢語と日本人』などが手元にあります。これらはここ数年で意識的・無意識的に入手したものです。(もちろんこれらも積読タワーの立派な構成要員であり、ちゃんと読んだかどうかは別問題です。)過去記事でも、良く知らないながらも漢語や漢字についての興味を語りました。

 また、このnoteにおいても、星野廉さんの記事は、文字のもととなる「言葉」を考えるのに最適です。(現在投稿は断続的にお休みされていますが)いつも学ばせていただき感謝しています。


 ストーリーについては、ごらんのとおりシェークスピアの『ロミオとジュリエット』を土台にしています。ひと組の熟語が逃げ出すという話を想像したとき、空想を紐づけていくうちに思い浮かんだのが、単純に男女の悲劇として有名なこの話だったというだけのことです。

 『ロミオとジュリエット』原作では、ロミオとジュリエットを導いて、対立する両家の仲介に奮闘するロレンス神父という善意の人物がいます。大変重要な人物ですが、このロレンス神父にあたる文字が、なかなか設定できずに困りました。
 とりあえず「変」という文字を設定してみました。最初この「変」という人物は、文字通りおかしな人間で、両者を引き裂くつもりでいろいろと邪魔をしますが、かえって仲を深めさせる道化の役回りにするつもりでした。しかし、何となくしっくりきませんでした。
 『ロミオとジュリエット』では、悲劇の引き金となる役回りとしてパリスという恋敵がいます。パリスとの結婚を強要されたジュリエットが、ロレンスと共謀して仮死の服毒をするという筋書きになっています。その筋書きでいくなら「変」には、相反するロレンスとパリスの役割を両方当てることになります。それではあまりにも複雑だということで、やむを得ず原作通りに、パリスにあたる「奕」という亦を含んだ文字を設定し、蛮族に所属させました。
 「変」はロレンス神父の役回りですが、やや癖のある文字なので、根っからの善人にはしたくありませんでした。わけがわからないがいい奴、というようなツンデレ枠というか、魅力的な性質に仕上げられそうだったのですが、時間の制約からそのあたりの性格描写は不十分になってしまいました。この作品の数ある心残りのうち、最も大きなもののひとつです。
 
 「悲」が蛮族に降る場面は、あまり自覚はしていませんでしたが、今読み返すと中島敦『李陵』のエピソードに示唆を得ているように思います(何度も中島敦ばかり出てきて馬鹿の一つ覚えですが…)。『李陵』において、匈奴に捕らわれた勇将李陵が武帝の怒りを買い、妻子供を処刑される話はあまりに悲劇的です。李陵はそれでも祖国に忠誠を誓うため、匈奴の王に取り入ってその首を獲る機会を窺うために、王に従う態度を示します。しかし王殺害の機会は容易に来ず、王の息子から慕われるうちに友情を感じることさえあり心が揺れます。こうした李陵の硬質な武人の魂に引き換え、「文字がたり」におけるわれらが「悲」は、軟派な恋にかまけてしまって、やや情けない感じは否めません。
 なお、「悲」のお目付け役である「思」という文字は、構想がロミオとジュリエットに到達する前に考えていた文字で、特に何かに示唆を受けたものではありません。

 全体として、文字の醸すイメージと、それが動いているイメージには気を配ったつもりです。
 「蛮族」という名付け方はうまくいった気がします。亦はへんやつくりといった漢字の部首ではないので、いかにも正当な民族ではない野蛮なる者の集まりという感じが出ました。
 人間において死にあたる様子を、文字に当てはめて「意味喪失」と表現しました。死に至る状況は文字が意味を失う状況に他ならないので、一画(一本の線)を失うことは傷を負うことを意味し、見えなくなったり消されたりすることは致命傷になります。重要な部分が見えなくなると意味が失われるので、人間における死亡と同じです。または、余計な部分が足されても意味を失うので、文字は死に至ります。最後の恋の自刃部分では、突き立てた刃により一画増えてしまったことで、恋という文字の意味を失ったということになります。
 婚姻の証として一画を交換する様子を書いてみましたが、これは、互いに傷を負って両者が自己犠牲のもと補填しあい、絆を確実なものにするという文字の世界における最高の契約形態を表しています。

 書いている最中、文字がうねうね、ニョロニョロ動いているという初めのイメージは変わりませんでした。うねうねからシリアスで格好いいストーリーにするのは気恥かしいように思えたので、最後はオチをつけました。蛇足かもしれませんが、どうしてもコミカルにしたくて、付け加えずにはいられませんでした。
 普段現実世界で出版物の作成に関わることがあるので、誤字脱字といった誤植の類は本当に恐ろしく、本づくりにおける誤植が、著作の存在の根底を揺るがす悲劇であることは間違いありません。




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