見出し画像

大西巨人編『日本掌編小説秀作選』

 名前を知っている作家の、未だ知らぬ作品に出会うことは喜ばしい。文学に漠然とした関心があるけれども、あまり手広く読むわけでもなく、作家の名前だけ憶えて彼等の作風を知ったような気になって満足している「不真面目」な読者にとって、アンソロジー的な編纂物は、読まず嫌いの作家に対する色眼鏡をそっと外してくれるきっかけになり得る。
 本書は、そうした不真面目な読者の一人である私の、そうした期待に応えるものであった。編者の目論見どおりかどうかは知らないが、収録された作品の多くが未知の掌編であり、名前だけ知っている作家の意外な作風に驚いた。全ての作品が楽しんで読めるかというと必ずしもそうではなかったが、それもまた良し。大西巨人という読書人の解説によって、その知の片鱗をお裾分けしてもらうという助平心やミーハー心もこれあり、知的好奇心をそそられる経験にもなった。

 本書は1981年の刊行。完結までに二十年以上をかけた畢生の大作『神聖喜劇』を無事に脱稿したことから、大西巨人は「『カッパ・ノベルス』編集陣の心置きなき賛同・声援の下」に、「このような選集の編纂は、筆者一己にとって、十数年来の懸案であった」という本選集の編纂にとりかかった。原稿用紙五千枚に及ぶ浩瀚な長篇を著した編者が、まずその端書きで短篇への想いを力強く述べていることが面白い。
 これに加えてさらに編者大西は、冒頭に「短篇小説の復権」なるエッセイを掲げる。そこで編者は、菊池寛が1919年に『短篇の極北』において、志賀直哉、芥川龍之介、広津和郎、里見弴(いずれの作家の作品も本書に収録)を挙げつつ、日本文壇における短編小説の隆盛を述べたことを紹介する。それに対して、本書編集時点の1980年前後においては、「二十枚でも立派な小説として通用した時代はっくに過ぎて、短くても五十枚ないし八十枚以上が要求せられている」のではないか、と、長篇にあらずんば小説ならずといった状況を指摘する。さらには「十枚十五枚、中には五、六枚の短篇がずいぶんたくさん発表せらせるにもかかわらず、そもそも頭からそれらは、非「立派な小説」として貶下へんげ、差別せられているのではなかろうか」と疑問を呈し、菊池寛がいうところの「退屈な二百枚もの三百枚もの長篇」ならぬ「退屈な二千枚もの三千枚もの長篇」に比較して、珠玉の短篇がいくらもあることを指摘する。

 さて、そのようにすぐれた短篇が集められ、本書二冊にまとめられた。全体を四篇(雪、月、花、暦)に分かつという洒落た趣向が凝らされている。雪は作中時間において冬の季節に該当するもの、月は晩夏から秋、花は春と孟夏、そして暦は季節のないもの、と分類されている。明治期から1965年までに発表された、六千字以下の掌編・短編小説から選出されている。1965年をもって画す根拠は、その年を「ショートショート」の草分けたる星新一の活動定着だと編者が見做すことによっているという。

 この、明治から昭和四十年代に至る五十八人もの作者が一堂に会する掌編小説集のラインナップは以下の通りである。(現在青空文庫で読める作品についてはリンクを張りました。)

雪の篇
「林檎」 林房雄
おせい」 葛西善蔵
「夏の靴」 川端康成
「電車の窓」 森鴎外
「嶽へ吹雪く」 深田久弥
「信念」 武田泰淳
「名人巾着切」 長谷川伸
「玉突屋」 正宗白鳥
「鯉」 井伏鱒二
「親子そば三人客」 泉鏡花
「或冬の日に」佐々木茂索
セメント樽の中の手紙」 葉山嘉樹
」 岡本かの子

月の篇
火を点ず」 小川未明
「秋夜鬼」 木々高太郎
「笛の音」 島尾敏雄
「幻惑」 室生犀星
尾生の信」 芥川龍之介
大雨の前日」 伊藤左千夫
「野の宮」 長田幹彦
「崖」 広津和郎
満願」 太宰治
「月二回」 小島政二郎
「アイスピッケル」 長谷川四郎
「サアカスの馬」 安岡章太郎
「おぼえ帳」より四題 斎藤緑雨
好色夢」 牧野信一
琴の音」 樋口一葉
」 堀辰雄
「動物」 大岡昇平

花の篇
「死について」 秋山清
「善太と三平」 坪田譲治
「おたまじゃくし」 北杜夫
或る別れ」 北尾亀男
「椿」 里見弴
忠僕」 池谷信三郎
「壁」 島崎藤村
「棒」 安部公房
「帽子」 国木田独歩
「西向の監房」 平林たい子
「二つの花」 野間宏
夢十夜」(第三夜) 夏目漱石
蒼穹」 梶井基次郎
「出来事」 志賀直哉
魚の餌」 梅崎春生
風呂桶」 徳田秋声
潮霧ガス」 有島武郎

としの篇
「幸福の散布」 横光利一
「脱走少年の手紙」 村山知義
 詩集『魔女』より二題 佐藤春夫
「その手」 黒島伝治
世評」 菊池寛
「黒髪」 鈴木三重吉
「おどる男」 中野重治
「子供」 藤沢桓夫
 みちのく二題(「勤め」「埋没」) 斎藤彰吾
「信念」 星新一
「片脚の問題」 野上弥生子

 雪・月・花・暦それぞれの篇の末尾には編者の解説が付されている。編者の意図を汲むに、これらは有機的なつながりを想定して読むべきで、特定の作品だけを取り上げて論じることは適切でないと思われるが、それは編者自身の解説によってある程度示されているし、通読しなければ意味をなさないものである。よって、ここでは読者の勝手な権利を行使して、印象に残ったいくつかの作品についてのみ短評をつけたい。とりわけ印象に残ったのは以下の作品たちだった。

(以下、各作品の要約を含みます。)

「雪の篇」より
森鴎外「電車の窓」:冬の夕方、停留所で電車を待っている主人公の男。美しいが寂しげな女が先に待っている。女は何も言わないが、男は様々にこの女の素性や発言を妄想する。男は電車で女の正面に位置取り「鏡花の女だ」と称する。この男と女が直接かかわるのは、電車の窓を男が閉めてやって、女が「はばかりさま」という部分のみである。男と女の一瞬の邂逅の間に、好意なのか憐憫なのかわからない、複雑な情報が交換されるさまを見事に描いている。
井伏鱒二「鯉」:主人公は、友人から譲り受けた鯉を下宿の池に放つが、扱いを持て余した挙句、結局その友人の愛人宅にある池で預かってもらうことにする。しかし友人は死去し、主人公は愛人の池から鯉を釣り上げ、今度は大学のプールに放つ。主人公はプールで王者のごとく泳ぐ鯉を見て涙を流して感動する。冬が来て、氷の張ったプールを訪れ、氷に鯉の絵を描いて愉快な気持ちになる。鯉の流転と人生のめぐり合わせを重ねて想像することができる作品。
葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」:セメントあけの仕事をしている主人公は、ある日セメント樽の中に手紙の入った小箱を見つける。その手紙には、破砕機に石を入れる作業中に事故で吸い込まれてしまったという恋人のことが書かれていた。そして、セメントになった恋人がどう使われたか、返事が欲しいとあった。主人公は「へべれけに酔っ払い、何もかも打ち壊したい」という気分になる。日々を鬱屈して過ごしている人間に、さらに不条理で残酷な身の上を押し付けられた心理が描かれている。

「月の篇」より
小川未明「火を点ず」:貧しい村に勤勉な石油売りがいた。ある日、さらに貧しい村から少年が石油を買いにやってくる。少年は石油の香が好きである。石油を買った後、置いていった金が足りないことに気づいた石油売りは、柄になく怒り狂って少年を捕まえて泥棒扱いし、激しく面罵する。後日、石油売りは何者かに火をつけられ、その事件は少年の不思議な犯罪として語り継がれる。貧困と人間の尊厳、人の予想外の一面といったことを思わされる。石油の青と赤や黄色の秋色のコントラストも美しく描かれている。
安岡章太郎「サアカスの馬」:落ちこぼれのヤスオカ少年は、靖国神社のお祭りにやってくるサーカス団テントの陰に、背骨が凹んだ老馬がつながれているのを見る。少年は、よく学校で廊下に立たされる自分と重ね合わせて馬の不憫な身の上に同情する。しかしある日、たまたまサーカスに入った少年は、ショーの舞台にとぼとぼとでてきたその馬は見違えるように活躍する。少年は馬がスターの花形なのだと知り、馬の勇ましさに嬉しくなって、我を忘れて拍手をする自分に気づく。冴えない少年の心に火がともり、温かい気持ちになれる一編。
大岡昇平「動物」:ある夫婦の飼い犬のベルは、子を産んだ後に犬の花柳病というような病気に罹り、出血が止まらず、神経が昂って通行人にしきりに吠えるようになる。獣医は安楽死を奨め、夫の信高はあっさり同意するが、妻の光子はベルの全身からの信頼と愛情を含んだ眼を思い起こして抵抗を示す。しかし最後には光子も安楽死を決心する。ベルは死ぬ間際になっても、疑わない眼で光子を見る。光子はこのような眼で自分を見る人間はいるだろうかと感じる。犬の最期の様子が切なく描かれ、人間への信頼とは何かを考えさせられる作品。

「花の篇」
北杜夫「おたまじゃくし」:戦争前のまだ平和な時期の、ある中年男と少年との戦争ごっこが描かれる。中年男は無職・独身で、家族の中でもっとも重視されていない。男は食用ガエル養殖のためおたまじゃくしを集めており、少年は遊び相手としてそれを手伝っていた。おたまじゃくし獲りに長けた活発な少年のほうが戦争ごっこを主導し、中年男はその引け目があるため、戦争ごっこの作戦についても言われるがままである。戦争が開始されると、少年は学徒動員によって男より先に徴兵されて南方で戦死、中年男は戦争末期に乙種兵として応召され、中国奥地で栄養失調で死んだ。「むかしの戦争ごっこと似たようなものだった」との末文が余韻を残す。
野間宏「二つの花」:夜明け前における夕顔と朝顔の会話が描かれる。夜の世界をきわめつくした夕顔は、死の予兆を感じながら、朝顔に対して「太陽とはどんなものなんだ」と聞く。最初は威勢よく夕顔に対応していた朝顔は、その問いに対して「俺は太陽を求めている」と繰り返すばかり。やがて夕顔は、朝の色の広がりとともに、血を失って倒れる。夜明けあるいは朝のイメージをあえて物事の始まりではなく終わりと捉え、死にゆく者の視点から描いている点が秀逸な一編。
梅崎春夫「魚の餌」:主人公が戦時中に防波堤に魚釣りに通っていた時、釣り場には十歳前後の玄人はだしに釣れる兄弟も来ていた。ある日、その兄弟は餌を使い果たしたのかぶらぶらしていたが、ふと主人公が自分の餌箱を見ると、餌として使っていたゴカイがほとんど無くなっている。主人公は釣りを再開した兄弟が餌を盗んだことを疑うが、声をかけず立ち去る。後日再び兄弟が退屈そうにしていたので、餌をやろうという気持ちになる。しかし子供達は強い口調で「いらん」と拒絶する。主人公は不愉快になり、ゴカイを海にぶちまける。その帰り道、兄弟の境遇について想像をめぐらせて心が重くなる。いくたのゴカイが海に紅く伸縮する姿が言いようもなく美しかったことだけが救いだと回想する。子供の意地と大人の意地がすれ違い、簡単な意思疎通がいかに困難かを思わされる作品。

「暦の篇」
中野重治「おどる男」:人が押し寄せるプラットフォームで、主人公はなかなか来ない電車を待つ。ようやくやって来た電車のドアから、人が押し流されるように出てくる。主人公の前には背の低いおやじがいて、その後ろの主人公の右わきに中年の女がいる。電車から出て来る人波に押されて、おやじは堪えようとして身を退くが、こらえきれずにやがて小さく飛び跳ねるようになる。横の中年女はそういうおやじをみて「変な人」「おどったりして」などと毒づく。主人公はおやじに同情し、擁護するための一言を考えるうちに、降車客が終わってどっと電車に押し込まれ、おやじも女も見えなくなる。日常の誰もが陥りそうな身体の不条理と不満を、滑稽でも不思議でもない奇妙な感覚に昇華した作品。
野上弥生子「片脚の問題」:主人公はある婦人から、作家志望の隻腕の姪のために、作家になるためのアドバイスが欲しく、できれば会って話したいとの葉書を受け取る。主人公は、ものを書いて生きることの難しさを返信する。後日その婦人の訪問を受けて、対話の中で、作家として生きる難しさを改めて語る。しかし会話の終わりに、婦人が主人公を片脚の女流作家と人違いしての訪問であったことが明らかになる。婦人が気落ちした後ろ姿で帰るのを見て、主人公は自分が片脚であったら、どんな励ましの言葉よりも期待に添えたのかもしれないと複雑な気持ちになる。身体の境遇が言葉よりも強いメッセージを産むことを思い知らされる一編。

 以上、自分が選んだ作品を眺めてみると、「雪の篇」から選んだ三篇はいずれも人生の偶然性の機微に触れているもの、「花の篇」及び「月の篇」から選んだ各三篇はいずれも少年と動植物に関わるもの、「暦の篇」からの二篇は人間の身体の不条理に関わるものとなっていた。はからずも自分の関心の傾向性やテーマが見えてくるようでもある。選集をさらに絞るという作業は不遜にも思えたが、自分の選集として咀嚼するという感覚があって、やってみると意外に面白く新鮮に感じた。
 
 この二冊揃は古書コーナーで安価に入手したけれども、インターネット等での取り扱いもそれほど見かけず、案外手に入りにくい書籍かもしれない。大西巨人の仕事に関心のある人々はもちろん、近代の短篇小説に浸ってみたい読者に向けて、目次だけでも参考になるかと思って紹介した次第である。
 本書を通読してみて、魅力ある短篇たるための条件のひとつは「余韻」であると感じた。上に選んだ10あまりの短篇はいずれも、いい味であれ悪い味であれ、妙な余韻を感じさせるものばかりだし、他の作品もいずれ劣らず余韻が深い。読書の秋の夜長、骨のある長篇小説に挑み、物語に没頭するのも良いが、こうした掌編をちびちびとつまみ、しんみりと後味を楽しみながら過ごすのもまた悪くないだろう。



この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?