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こども余滴(別離の言葉)

 平日の朝7時過ぎになると、戸外で「パパ、バイバイ」と幼い子供が父親を送り出す声が何度も聞こえる。向かいの家族だろう。世間一般の出勤時間としては普通かもしれないが、私は朝が遅いので、父親はずいぶん早い出勤で気の毒だと思って聞いている。しかし、それより気になるのは子供のバイバイという言葉のチョイスである。毎日の通勤に送り出すバイバイは、子供にとってどんな意味をもっているのだろうか。

 父親からすれば、子供に送り出されるルーチンそのものが毎日に活力を与えてくれるから、発せられる言葉は何でもよいだろう。子供の無邪気な言葉に目くじらを立てるようで大人げないようにも思えるが、部外者からすれば、バイバイというのは寂しいような冷たいような、突き放されたような気持ちになる言葉で違和感がある。バイバイとは辞書によれば別れの言葉である。言霊の存在といおうか、言葉を現実と結びつける思考癖があると、毎日バイバイを続けることで、遠からずこの親子が今生の別れを招くのではないかと気が気ではない。9時間なり10時間経過後に帰宅が当然に予定されている状況であれば、できれば帰宅について予断しない「いってらっしゃい」を教えてほしい。どうしても英語にしたいならSee youではないのかと思ってもどかしい。

 太宰治が自著『グッド・バイ』に寄せて述べた言葉のなかに「別離の傷心は深く、私たちは常に惜別の情の中に生きているといっても過言ではあるまい」とある。同作で太宰が描いているのは男女の別離である。親密であった男女が交際を解消するときにバイバイを使うかどうか。現代ではバイバイではなく「またね」を使う場合があるかもしれないが、「またね」には強がりや負け惜しみが見える。それはさておき、バイバイには表面的にいったん愛情を打ち切るような響きがある。

 子供がバイバイを用いる理由には、恋人同士のような強がりも負け惜しみも必要ない。しかし痛切な惜別の情があって毎日の傷心を断ち切る目的があるとしたら、どうか。すなわち幼子はもう二度と父親に会えないかもしれないと、毎朝毎朝覚悟している。無邪気に力強く、何度もバイバイと叫ぶ声には、その言葉の持つ言霊と、いつか必ずやってくる別離―それは単なる親離れかもしれないし、老父との死別かもしれない―までを見通した哀切が潜んでいるとしたら。第三者的に見れば朝の微笑ましいひとコマであるが、子供のほうに心を寄せると、やるせない様相もみえる。




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