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太宰治と鴨長明と蓮田善明

 手元に一冊の古書がある。
 昭和18年9月に刊行された太宰治の『右大臣実朝』。大阪にある錦城出版社の新日本文藝叢書の一冊として発行されたものである。

太宰治『右大臣実朝』初版(カバーなし)

 太宰は『実朝』執筆と並行して「鉄面皮」という文章を書いていて、その中で『実朝』のあらすじを、本文からかなり引用する形で事前に公開してしまっている。そしてその中で、実朝について書くことはかねてからの念願だったとまで言っている。実朝を主題にした作品は、太宰にとってはそれほど熱の入った仕事であり、気分高揚のあまり筆が走ったというところがあるかもしれない。

くるしい時には、かならず実朝を思い出す様子であった。いのちあらば、あの実朝を書いてみたいと思っていた。私は生きのびて、ことし三十五になった。そろそろいい時分だ、なんて書くと甚だ気障な空漠たる美辞麗句みたいになってつまらないが、実朝を書きたいというのは、たしかに私の少年の頃からの念願であったようで、その日頃の願いが、いまどうやら叶いそうになって来たのだから、私もなかなか仕合せな男だ。

太宰治「鉄面皮」

 『右大臣実朝』の装丁は藤田嗣治で、前著の『正義と微笑』も同じ柄の装丁があしらわれている。『実朝』は初版15,000部が刷られたが、戦時中の資源欠乏状況を考えると、かなりの部数である。太宰は前著(10,000部)から引き続いて発行部数が大きいことに、有頂天になっただろう。太宰はこの本において、語り手に「入道様」である鴨長明の貧相ぶりを酷評して描いている。例えば以下のごとく、相貌や態度をこき下ろす。

あのやうに高名なお方でございますから、さだめし眼光も鋭く、人品いやしからず、御態度も堂々として居られるに違ひないと私などは他愛ない想像をめぐらしてゐたのでございましたが、まことに案外な、ぽつちやりと太つて小さい、見どころもない下品の田舎ぢいさんで、お顔色はお猿のやうに赤くて、鼻は低く、お頭は禿げて居られるし、お歯も抜け落ちてしまつてゐる御様子で、さうして御態度はどこやら軽々しく落ちつきがございませんし、このやうなお方がどうしてあの尊い仙洞御所の御寵愛など得られたのかと私にはそれが不思議でなりませんでした。

太宰治『右大臣実朝』

 下記のブログ記事でも、「鉄面皮」と、『右大臣実朝』における長明評価について紹介されている。


 ところで国文学者・評論家の蓮田善明は、若き三島由紀夫を見出したことで注目される人物だが、実は太宰治についても時おり言及している。昭和16年4月から自らの主宰する『文藝文化』誌において連載を開始した「鴨長明」では、詩人としての長明を評価するなかで、長明が太宰治のような人だったのではないかと述べている。『鴨長明』は後に連載分をまとめて加筆修正した単行本として出版された、蓮田の代表作のひとつとなる著作である。

大体子も妻もありながら之を捨てたやうな、世間一般の目からは非難され嗤はれるやうなことを仕つづけた放蕩の果てとでもいふやうなことはないか。しかも彼は決してそれを知つて分別はありながら妻子を狡く欺いたりしてゐるといふのではなく「世のならひ」と自分とのけぢめの分別を知らないデカダン(変な言ひ方だが)ではなかつたか。例へば太宰治のやうな若者ではなかつたか。それでいざ家を離れねばならなく迫られると子をかなしんで「おく山のまさきの葛くりかへしゆふとも絶へじ」と歎いたりしてゐるがこれも傍から見てゐたらもはや痴呆めいたくどいたはごとであつたかもしれない。
(太字は引用者。以下同じ。)

小高根二郎『蓮田善明とその死』より再引用

 引用元の小高根二郎『蓮田善明とその死』には出典が明示されているわけではないが、おそらく『文藝文化』の昭和18年5月号の記事だと推測される。
 そして何より重要なことは、この部分は、昭和18年に単行本として出版された八雲書林版『鴨長明』では修正されている。具体的には以下のような記述になっている。

大体子も妻もありながら、世間的の目からは非難され嗤はれるやうなことを為つづけた放蕩の果てとでもいふやうなことはなかつたか。しかも彼はそれを知つて分別はありながら妻子を狡く欺いたりしてゐるといふのではなく、「世のならひ」と自分とのけぢめの分別を知らない放蕩放埓(変な言ひ方だが)ではなかつたか。それでいざ家を離れねばならなく迫まられると、子をかなしんで、「おく山のまさきの葛くりかへしゆふとも絶へじ」と歎いたりしてゐるが、これも傍から見てゐたら、もはや痴呆めいた、くどいたはごとであつたかもしれない。

蓮田善明『鴨長明』(昭和18年 八雲書林)
国立国会図書館近代デジタルコレクションより

 注目すべきは、言うまでもなく太宰に触れた個所が削除されていることである。さらに、「デカダン」という言葉が「放蕩放埓」という言葉に置き換えられていることで、さらに太宰を意識させないように注意が払われているようだ。これは大変些細なことにも見えるが、こうした修正をすることによって、その後に付け加わっている「(変な言ひ方だが)」の意味合いが薄れてしまう。「デカダン」という、長明の時代には影も形もない表現をあえて用いることによって、「変な言ひ方」という言い回しが生きる。また著者の蓮田自身も、デカダンという言葉に生理的反発を持つことを、「変な言ひ方」という言葉で示してはいまいか。
 こうした表現の改変が出版社側の意向か蓮田自信の意志かはわからないが、太宰という同時代人に配慮した結果なのかもしれない。

 小高根二郎の『蓮田善明とその死』は、蓮田本人とも交流があった筆者が、蓮田の自決の謎(蓮田は昭和20年8月18日に配属先のマレーで上官を殺害した後に自決)を内面から探り出そうとした浩瀚な評伝である。その中で、名作「鴨長明」の連載は『文藝文化』5月号から筆が定まったと評し、連載第一回目の『文藝文化』4月号の筆ぶりを、「浮ついた世相を撃つ善明の激越の情ばかり先走っていて、立論に論理性を欠いていた」としている。
 しかし、その論理性を欠くほどの嘘偽りのない感情が叩きつけられている筆鋒の中に、以下のように書かれていることは注目に値する。

人生観も文学も斯ういふ評言の中に、一隅を占めてゐることに於て変りはない。少くとも銀座の雑沓の中で土下座して歎き喚いたりはしない。(私は此頃始めて太宰治の小説を読んで此の人の魂を感じた。

『文藝文化』昭和16年4月号所収 蓮田善明「鴨長明」

 時系列に見ると以下のようになる。

昭和16年 蓮田『文藝文化』で「鴨長明」連載(4月から12月)
昭和18年9月10日 蓮田『鴨長明』単行本刊行(八雲書林)
昭和18年9月25日 太宰『右大臣実朝』刊行

 蓮田の『鴨長明』は太宰の『実朝』刊行に先んじている。
 太宰は蓮田の連載を読んでいた可能性がないとはいえないが、読んでいたとしても、『鴨長明』の単行本で太宰への言及が削除された理由が、太宰が蓮田に抗議を申し入れたためとは考えにくい。しかしながら、鴨長明に対する侮蔑の表現は、ある面で、長明と太宰が似ているという蓮田の評価に対するプロテストあるいは自覚的に消化したうえでの自虐的表現・自己否定の論理ともとらえられる。
 他方で蓮田が太宰の『右大臣実朝』を読んだ可能性は充分あり得る。先に引いたように蓮田は太宰を高く評価し、その文芸に向かう魂に惹かれるものを感じていた。また、太宰は雑誌『日本浪曼派』の同人であり、蓮田は同誌の同人ではないものの伊東静雄と深い交流があり、先に引用した蓮田の雑誌『文藝文化』は古典回帰の一翼を担う存在として日本浪曼派と相通じていたわけで、充分に読む機会はあったと思われる。

 また、インターネットで探してみると、以下のような証言が見つかった。蓮田と太宰もまた似たところがあるというのである。

「当時は林長二郎(引用者注:俳優の長谷川一夫)に似ていると思ったが、作家の太宰治にも似ているところがあった。林プラス太宰、それが蓮田先生だった」と、教え子のひとり片山武夫さんは語っている。

https://www.gpc-gifu.or.jp/chousa/infomag/gifu/96/bungak11_2.html

 蓮田と太宰のどこが似ていたのか、容貌なのか性質なのか、この記述だけではわからないが、なにか通じるものがあったと、学生の若い感性で読み取れるものがあったようだ。なんにせよここに、長明―太宰―蓮田のトライアングルが出来上がることは興味深い。

 さて、昭和の同時代の作家たちを、歯に衣着せず的確に評した文学評論家の十返肇は、太宰治の印象を次のように述べている。

織田作之助の通夜のとき、私ははじめて彼(引用者注:太宰治)に逢い、徹宵して談じたが、私の予想では、気のむつかしそうな高慢な男かと思っていたら、案外人なつこいので驚いた。そのときも「朝が来ると死にたくなる」とさかんにいっていたが、その言葉にも意外に気取りがなく素直な実感がこもっていた。伊藤整は、太宰を、人生の演技者と見なし、自ら生活を破局に追いつめて自殺したと論じているが、私には、太宰がそれほど演技のために生活を犠牲にしたとは思われない。やはり、彼は人生のわずらわしさに心から耐えられなかったのであろうと考えられる。

十返肇『文学界人物史』

 「人生の煩わしさ」と自らが遁世した経緯について、鴨長明は『方丈記』で以下のように述懐している。

すべてあらぬ世を念じ過ぐしつゝ、心をなやませることは、三十餘年なり。その間をりをりのたがひめに、おのづから短き運をさとりぬ。すなはち五十の春をむかへて、家をいで世をそむけり。(原文)
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心配事や苦しい事ばかりが世の中には多くて少しも落ち付いて暮らす事も出来ず、まことに住み難い世の中だ、嫌な世の中だと、何だと不平を云いながらも私は既にもう三十年と云う長い間この苦しい、つらい世の中に堪え忍びながらも住んで来たのである。そしてその間にあった色々な出来事や、嬉しい事よりも悲しい事の多かった事、思い掛けない災難に遭ったこと、失敗した事等によってしみじみと自分の運命の情けない事を悟る事が出来た。それでもまだまだ全く世を捨てる事は出来なかったのであるが、遂に五十歳の春には全く家を捨て、苦しい世を捨て、全くの遁世を決心してそれを実行したのである。(佐藤春夫による現代語訳)

鴨長明『方丈記』

 ここでは事実関係を指摘したに過ぎないが、太宰治と鴨長明と蓮田善明の「似方」についてはより根本的な掘り下げが必要だろう。
 太宰も長明もともに生き方に煩わされ、やがてそこから遁走することを決意した。太宰にせよ長明にせよ、その共通点を指摘して長明と太宰を高く評価した蓮田にせよ、いずれもひたむきな詩人の魂を今日に証明していると思わされる。




 最近は太宰をそれほど熱心に読んでいるわけではないのに、なぜか言及したくなるのが桜桃忌。去年はこんなものを書いていました。一年が早い。




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