見出し画像

忘れられた詩人

 明治中期に奇行の詩人がいた。ある時その詩人が友人と一緒に酒を飲んでいたとき、自分の盃が欠けていることを指摘されると、いきなりその盃をガリガリと嚙み砕いて食べてしまったという。伊藤整『日本文壇史』に出て来るエピソードである。

 その詩人、中西梅花(幹男:1866~1898)は「忘れられた詩人」として知られている、ちょっと変わった存在だ。忘れられているのに知られているというのは矛盾のようだが、忘れられているのを惜しむ声が、時々思い出したように挙がってくる、そんな雰囲気を感じる詩人である。現在もウェブを少し検索するだけで、下記のようによく吟味された紹介記事を見つけることができるし、評伝もあるようだし、その詩の作風から新体詩の嚆矢と言われることもあって、評論的な分析対象にもなっている。

 とはいえ、やはり脚光を浴びるほどブームになっているわけではなく、一般的には知る人ぞ知る存在なのだろう。書店の文芸コーナーに中西梅花本が平積みになっているというのは見たことがない。なにせ残した詩集が一冊だけで、あとはものにならなかった新聞連載小説をぽつぽつ書いているだけであって、評価する材料が少ない。自ら詩人を任じて「梅花道人」を名乗り、詩人の夭折説に背かず、30歳あまりで世を去っている。

 梅花は若い頃から幸田露伴と友人関係にあり、内田魯庵とも親しかったという。露伴は物事に頓着しない性格で、豪傑気質があって超然としていたようだから、普通の人が遠ざけがちな梅花が傍にいることを拒まなかったようであり、また魯庵は、心配りのできるひねくれ者だから、文壇のはぐれ者だった変わり者の梅花の面倒をよく見たらしい。冒頭に引用したお猪口を食べてしまうエピソードで登場した友人とは魯庵のことである。

 『日本文壇史』が、梅花の人となりについてある程度の紙幅を割いているので、以下エピソードを拾いつつ、簡単な紹介あるいは自分用のまとめを試みたい。(煩雑につき引用箇所は地の文と分けず、いちいちのページ数も記しませんが、ご関心のある方は同書2~4巻の人名索引などを参照くださればだいたい出てきます。なお筆者が参照したのはハードカバー版です。)

 明治二十二年当時、饗庭篁村のいた読売新聞社に、記者としていたのが中西幹男すなわち梅花である。露伴とともに淡島寒月に師事し、小説を書く志をもって、井原西鶴についての教えを受けていた。目鼻だちのはっきりした、背の高い好男子であったものの、やることなすことが調子はずれだったらしい。やがて自ら詩人と号し、梅花道人と名乗るようになった。その時二十四歳だった。

 露伴は、梅花の家系には狂人の血統があると聞いていたものの、悟ったようなところがあり、梅花の奇行もそれほど気にせず連れ立って歩いた。しかし、梅花はやはりその奇行のせいで、読売社内では冷遇されていたという。文士たちは梅花を持て余しながらも、彼が読売新聞文芸付録の編集主任であるという立場を考えて、当たらず触らず扱ったとある。梅花は読売新聞に短編小説を連載したものの、成功せず、次第に詩に傾倒していくことになる。

 『日本文壇史』では、梅花が「好男子で風采も立派」であることが何度も繰り返して述べられる。梅花の写真はおそらく残っていない。しかし彼が吃音である上に、その狂気じみた行動のために女性にはもてなかったという。今風に言えば残念なイケメンといったところだろうか。しかし人並みに恋愛感情はあったようで、紅葉館の女中の一人に執着して失恋したという評判が立っていた。

 また、奇抜な行動が目立つ梅花であったが、時おり、人を見る目に正鵠を射るような鋭いところがあった。例えば次のように、原抱一について厳しい批評をする場面。明治二十三年のある日、魯庵のところに梅花が訪ねて来る。この頃魯庵と知り合って親しくなりつつあった原抱一について梅花は、声色は上手だが女郎買いばかりしている狸だと忠告した。魯庵はその評言を否定しつつも、梅花が常軌を逸した風でいて正直者であることをよく知っていただけに、驚いた。実際、ある時魯庵は原に女郎屋へと連れ出され、しつこく付き合わされそうになったところを、振り切って帰ってきたことがあった。

 二十三年五月に梅花は主筆の高田早苗と衝突して読売新聞を退社する。売文によって生活する必要があったが、魯庵の紹介で、徳富蘇峰の「国民新聞」に入社する。なお、梅花は尾崎紅葉に対してよからぬ感情を抱いていたといい、読売退社も紅葉への感情的なしこりに端を発していた。二十三年六月に硯友社が発刊した「江戸むらさき」という小雑誌について、梅花は国民新聞で「花多くして実少なく、何となく歯ごたへ軟かく思はれ」ると酷評したりしている。

 ある時期、幸田露伴は赤城山中の宿に籠っていた。露伴が中西梅花と女性のことで対立して苦悩しているという噂が、その頃文壇に伝えられていた。事実は、露伴は激しい頭痛のために仕事ができなくなったのであった。そのうえ、それまでの彼の作品の傾向であった独善的な現実離脱癖に疑いを持ち始め、現実社会に即した仕事をしなければならないと模索していた、そういう苦しみであって、恋愛とは無関係であったという。
 露伴と梅花の遺恨の噂については田山花袋が『東京の三十年』にも書いている。幸田露伴が『ひげ男』という小説を読売新聞に連載し始めて、5~6回書いてやめてしまったが、露伴の煩悶の原因には中西梅花道人に連関した恋愛談があったと書いている。これは文壇の噂をそのまま鵜呑みにした評である。『日本文壇史』の典拠も明確なわけではないのでどちらが正しいのか断定はできないが、露伴と梅花が恋敵になるというのは、なんとなく想像しにくいように思われる。

 明治二十三年九月、梅花は「遮莫天」(シャボテン)という歴史小説を書き始めるが、すぐに行き詰ってしまう。魯庵から原稿を激しく督促されると、「梅花道人は死んだので、連載を断念する」という広告を出して欲しいと言った。自ら死亡説を流布させようとしたのである。そして、「梅花死去せしものとすれば…御断念下さるより致方無之。左りながら余は仏なり、涙無きに能はず。熱無き能はず。…前梅花死去すれば後梅花直ちに生る」云々といった、けむに巻くような書簡を魯庵に送った。これには世話好きの魯庵も呆れたことだろう。

 こうして自分を拾ってくれた「国民新聞」の民友社に対しても不義理を働き、梅花は東京に居場所がなくなった。いよいよ一介の野良文士として生きるしかなくなるが、梅花は自分に小説の才能がないことを自覚し、新しい詩を書いて発表したいと思うようになる。その後、岐阜県の禅寺で修業しつつ詩を書いていた。そうして長編の詩「九十九の嫗」(つくものうば)を書き上げ、十一月に魯庵に送った。これは名前を出さなくてもよいという梅花の申し出により、無名氏作として「国民新聞」に掲載された。特に梅花の名前を高からしめたのは、「出放題」なる長編の詩で、彼の性格を余さず伝えるような奔放な詩である。これらの詩は彼の唯一の詩集である『新体梅花詩集』にも当然収められている。

 『日本文壇史』では、梅花の詩が以下のように紹介されている。改行とインデントを駆使したタイポグラフィー的な要素を特徴とし、『新体梅花詩集』で彼は、そのころの詩に特有のものとされていた「もののあはれ」やセンチメンタリズムを踏み破って、人間性をじかに読むものにぶつけるような、強烈なリアリズムを実現させた。このような詩は日本にも西洋にも類がない、ということを人々は感じた。詩として傑作かどうか分からないが、いかにも中西の人格が現れていると言って面白がられた。これまで梅花を文才のある人間と思わず、その風変りな生き方に驚いたり、困らされたりしていた者も、梅花を見直した。この梅花の詩集は大変好評であり、後になるほど重く見られるようになった。しかし梅花は、明治二十四年に『新体梅花詩集』を出した頃から、禅に凝って常軌を逸した行為を繰り返し、いよいよ頭が変ではないか、と言われるようになったという。

 梅花は芝の紅葉館の女中に惚れて失恋し、それが文人仲間の評判になり、しばしばそのことでからかわれ、また小説家として立とうとするも志を得ず、そのことがさらに狂い方に拍車をかけていったようである。明治二十四年の六月、病気が治って退院した。そのあと中西が入院する前に最も親切にしていた内田魯庵のところに突然現われて、『沈静録』という本を借りて行った。しかし、その後彼に逢ったという人もおらず、彼の作品も世に現れず、文壇人は彼のことを忘れてしまった。梅花の話が出ると、文壇の人々は、彼は明治二十四年に「梅花詩集」を出して間もなく狂死した、と噂するのが常だった。上記にリンクを張った壱はじめ氏の「並び机の詩窓」によれば、明治39年の時点ですでに「薄幸文士」の一人として梅花が忘れられている嘆きを、横山源之助が『文章世界』に投稿していた。(魯庵もまた、梅花のことを忘れてしまった文壇に対して厳しく批判したというエピソードもあったように記憶する。)

 明治文学研究家の柳田泉は、明治の文学者はもっぱら邪悪と戦い、不正と戦い、不義と戦ったと述べて、その文学にかけるひたむきさを称賛している。彼等はロマンチシズム、理想主義、リアリズム、社会主義といったあらゆる武器を駆使して戦ったという。そして、文学をするだけでも一種の戦いをしなければならなかったために、幾十人は狂死したと述べ、狂死した代表的人物として北村透谷、原抱一と並んで中西梅花の名を挙げている(『柳田泉の文学遺産』第一巻)。ここに、梅花が人間性を喝破した原抱一が出て来るのも因果である。実に文学は、明治の他の文人たちと同様、梅花にとっても人生をかけた戦いであった。

 中西梅花とは、正直な焦慮を持て余した、不遇・失意の詩人であったのではなかっただろうか。詩人とはおおむね不遇であり、失意の人であると言うなかれ。正直であるばかりに、正気と狂気の境に苦しんだ彼の姿は悲痛であるが、爽快でもある。彼の詩は「強烈なリアリズム」と評されたように、技巧に溺れず表現がまっすぐであったことに特徴がある。その突きぬけすぎた正直さによって、梅花はかえって、狂った役目を引き受ける羽目になったように思える。仏教にあてを求めてさまよったというのも、行き場を失った奇矯な狂おしさを克服し、理想の境地を求めたためではなかっただろうか。『新体梅花詩集』に収録されたひとつひとつの詩の評価はここでは省略するが、今この詩集を読むに、「四大原是幻」「五陰本来空」「心仏衆生」「弥陀」といった仏教的な言い回しがあったり、他にも「幻」「虚空」「浮世」といった用語が多用され、文字通りの空虚さと幻への渇望がありありと見て取れる。正直な戦いを続けた結果の狂死は、彼にとって果たして敗北であっただろうか。


【おまけ】以下は梅花の森田思軒宛書簡。なかなかの達筆。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?