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近未来アニマルぺディア(上)

 西暦20XX年、人類は人工知能と情報科学技術を他の動物に応用し、ついにあらゆる動物に人間的な知性を与えることに成功した。しかし同時に、人々はジョージ・オーウェル『動物農場』の教訓を思い起こした。のべつまくなしに知性を与えて、ヒトの意に反した良からぬ企てを立てられては都合が悪い。そこで人類は、ある数種類の動物から、比較的身体の、いくつかの個体だけを選別し、その決まった数の個体にだけ知性を埋め込むこととした。そして、人間世界の法規範や社会通念、地域ごとの伝統文化を叩き込むとともに、一定の区画を与えて住まわせることを許した。

 動物たちにも国籍が一応あり、棲息する領域管内の国家がそれぞれの動物たちを管理することが、国連憲章で定められている。しかし、知性付与済み個体に備わるべき権利は、憲法のごとき国家の最高法規で保障されるわけではない。すなわち「基本的動物権」というものは存在していない。その代わりに、知性を付与する種別、種ごとの割合といったことが、下位の法令をもって厳格に定められている。それらはあくまで人間に対して適用される法であり、動物たちを直接には規定しない。そして知性を与えられた動物は、他の知性を与えられない動物たちを指導する立場となることが義務付けられる。選ばれたエリート動物たちは、人間と動物の双方の立場を理解するものとして、両者の橋渡しをし、適切に意思疎通させる役割が求められている。

 そのように選ばれて、人間社会の常識知識を叩き込まれたエリート動物たちが、どのように彼らの同胞を指導するかといえば、まずは参照すべき文献を作るという、極めて人間的(あるいは会社的、官僚的)な発想に基づいて、百科辞典あるいは辞書のごときものを、頭をひねって作っている。この辞典は通俗的には「動物版百科全書」とも呼ばれており、知性あるエリート動物アニマルの中から選抜された、さらに一握りの優秀な個体がその編纂に参画する。一部の意地の悪い(これを機知の利いた動物側からは的と称する)人間は、辞典作りに従事する彼らの事を揶揄たっぷりに「啓蒙派」などと呼ぶ。エリート動物たちはそうした人間どもを差別主義者として歯牙にもかけないように装っているが、多くの者の内心は深く傷つき、コンプレックスを抱いている。そもそも「動物」という言葉が人間と区別されて使われているが、人間自身だって動物の一種に過ぎないではないかと、エリート動物たちは、心中穏やかではない。

 さて、近未来に似つかわしくないバロック調の大袈裟な建物の一室に、知性を与えられた動物達が集まって何やら相談している。毛むくじゃらの大型の生物(外見は現代の人間世界においてクマと呼ばれる動物:以下、クマと称する)、四本足で尻尾のある中型の生き物(以下、イヌ)と、羽根の生えた中型の鳥類(以下、カラス)と、素早く走る小型の生き物(以下、ネズミ)、大きな水槽に悠然と泳ぐ巨大な水棲の哺乳類(以下、イルカ)が、寄り集まっている。概念として比較的大きな項目を抽出しつつ、日本語のア行から順番に進められてきた辞典の編纂及び校訂作業も、現在はラ行の検討が行われている。ちょうど今、「歴史」という項目について、検討されているようだ。その草案を覗き見てみるに、以下のとおりである。

「歴史」
過去からこれまでに至る動物あるいは動物界の営みの総体、またはその把握様式。ある事象を伝えようとする者がいて痕跡を残さなければ成り立たず、またそれを読み取る者もいないと成り立たない。過去と現在の継承の精神が合致するところに形作られる。専ら記憶および記録に基づき再構成されるため、把握のされ方は常に部分的であり、新たに知られた情報の積み重ねにより追加され、改められることを繰り返す。そのため、情報追加の妥当性について、しばしば認識論争を生む。
種族を主体として把握する場合、紛争の結果として歴史認識にまつわる問題を生じる事例が見られ、多くの場合政治・経済的な利害関係と結びつく。例えば一方に自虐史観、他方に修正主義といった揶揄めいたレッテルが横行して無益な論争を繰り返す。

動物による「百科事典」(草稿)

 まずこの作業の第一段階は、人間の世界における言葉の定義を、動物を主語として置き換えることから始められた。すなわち、第一段落に「動物あるいは動物界の営み」とあるのは、もともとの人間版において「ヒトあるいは人間界の営み」であったし、第二段落の「種族」は「国家あるいは民族」と書かれていた。しかし、「歴史」なる語は、動物たちにとって特に不可解な言葉のひとつであって、こういった直訳的な表現ではまったく理解しがたい。あくまで人間の感覚として理解された言語とその意義を、動物にもわかるように解釈し、置き換えていくことが彼らの役割なのである。

 動物たちに与えられるのは知能のみであって、彼らの身体そのものあるいは身体機能を人工的に改造することは禁じられている。身体的に人間に近づくことは、叛乱を促すと考えられている。例えば手足が人間のごとく器用になってしまえば、そこから道具が生まれ、兵器が生まれ、高い知能と結びついた戦略が生まれると解されている。従ってエリート・アニマルたちは、人間の身体操作の最たるものとしての言語を発することはできず、音声は特殊なスピーカーを経由して人語に変換される。
 室内の様子は別室から人間が監視しており、人間社会にとって危険な発言や態度が表明されると、警告ブザーが鳴る仕組みになっている。とはいえ、午前と午後の交代制で勤務している別室の監視員は、顔付ばかり深刻ぶって椅子を温めるばかりで、しばしば舟を漕ぎながら鼻から提灯を下げているのであった。ブザーの鳴動はもっぱら人工知能が言葉を分析して判断していて、監視員はそのブザーによってはっと目覚めるという具合である。かくたるな監視体制が物語るとおり、この辞典編纂は、いわば動物たちの法典を整備するに等しい重大な職掌であるにもかかわらず、書物を整理する業務や図書を保管する職務がしばしば日本組織において軽視されている例にもれず、人間たちからは物好きのための閑職だと認識されているようであった。

「近未来アニマルペディア」(中)に続く





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