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近未来アニマルペディア(中)

※前回はこちら。


 さて、動物たちの百科辞典における「歴史」という項目の検討が開始された。原案は以下の通りである。

「歴史」
過去からこれまでに至る動物あるいは動物界の営みの総体、またはその把握様式。ある事象を伝えようとする者がいて痕跡を残さなければ成り立たず、またそれを読み取る者もいないと成り立たない。過去と現在の継承の精神が合致するところに形作られる。専ら記憶および記録に基づき再構成されるため、把握のされ方は常に部分的であり、新たに知られた情報の積み重ねにより追加され、改められることを繰り返す。そのため、情報追加の妥当性について、しばしば認識論争を生む。
種族を主体として把握する場合、紛争の結果として歴史認識にまつわる問題を生じる事例が見られ、多くの場合政治・経済的な利害関係と結びつく。例えば一方に自虐史観、他方に修正主義といった揶揄めいたレッテルが横行して無益な論争を繰り返す。

動物による「百科辞典」(草稿)

「痕跡を残して、それを読み取るというが…」
と、最初に口を開いたのはネズミだった。
「痕跡とは、具体的にはどういうものなのでしょう。私は最初から、それがわかりませんな。」

「こういうものではないでしょうか。」
 クマが語る。
「我々の種は、冬眠のためのねぐらを探していると、誰かが掘ったような、ちょうどいい大きさの穴を見つけることがあります。そういう穴はたいてい仲間が前年に使ったもので、ものぐさな連中はその穴に手を加えることなく、ねぐらとして拝借するのです。そうしたとき、先にいた同胞の毛や、爪や、寝返りのあと、時には出産した雌が赤ん坊に授乳した匂いまで残っている場合があります。」

「いや、しかし、そうなると」
 ネズミがひげをぴくつかせながら反論する。
「『伝えようとする者がいて』というのは妙ですな。あなたの同胞は自分の毛や爪や寝返りの様子を、わざわざ後にくる何者かに、これ見よがしに伝えようとするのですか。そんなことをして何の利益があるのでしょう。自分自身のことがかなりお気に入りと見えますな。」
 とは理解しがたい概念で、なんとなく人間の悪臭を感じる言葉でもある。このネズミの発言は嫌味がこもっていたが、クマはさほど気にせず、それはそうだという雰囲気で、考え込んでしまった。

 ネズミはさらに続ける。
「縄張り表示のために糞尿でマークするということはあるかもしれません。ほら、尻尾の太いそこのお方のようにね。」
と、尻尾のふさふさしたイヌの方に目線を送って言う。
「でも、それは自分自身の生きる必要から行っているのであって、いちいち何年も後の時代に伝えるものでしょうかね。まあ、誰かさんの場合はこれが俺の小便の臭いだなんて、したり顔で子孫に言いたいのかもしれませんがね。」
 この発言に、イヌはムッとした感じで眉を吊り上げ、おまえなんかすぐに食ってやるとばかりに牙を剥く気配を見せるが、ネズミは平然としている。
「おまけに」
 ネズミは額のあたりを顰めるようにしてさらに続けた。
「巣穴を永続的に使う我々のような者から見ると、日々巣穴の様子は移り変わっておりますから、生きた痕跡としての歴史というのは成り立たないということになります。そんなものは私だったら糞尿の臭いと一緒で、すぐさま始末してしまいたいですからな。」
 再び横目でイヌを見ながら言う。ネズミは嫌味な性質をもってはいるが、嘘やごまかしは言わないように思える。そのネズミが、やけにイヌを意識しているように見える。クマも、時おり自分たちを見下しているような雰囲気を醸し出すこのイヌに対しては、引っかかりを感じているのであった。

 カラスがくちばしをはさむ。
「最初の部分で『営みの総体』と言ってるんでしょう。だから巣穴だとか糞尿だとか、残された限定的な材料だけで理解されると定義するのはなんか違うと思うんですけど。この文言では、動物がただそこに生きているだけでは歴史にはならないって読み取れますが、これをどう考えたらいいんでしょうね。」
 口調から察するに、カラスは最も若く瑞々しい、悪く言えば幼い頭脳をもっているように思われた。しかし態度の未熟さにも関わらず理知が光る物言いで、議論を軌道修正しようと試みる。

「『その痕跡を読み取る者もいないと成り立たない』とあるということは、例えば…私がその仲間がそこに居たのを知って、仲間がそこに生きたことを…嗅ぎ取る場合に、私とその仲間との関係性において、歴史というものが生まれる…?」
 クマがじっくりと言葉を選びながら述べる。

 カラスが言う。
「昔の同胞と現在の我々との関係性のうえに成り立つのが歴史だと言えるんでしょうかね。しかし、生きていた証しを嗅ぎ取るというのはどういう意味でしょう。単に生きた痕跡を知るだけなら、先ほどから僕らが話している巣穴や糞尿のことと大して変わりませんよね。『生きる意志』というようなものがそこに関係しているような気もしますが、生きたいと望むのは生命である以上みんな同じでしょ。どうにもわかんないな。」

 「生きる意志」。ふとクマは、人間と親密なあまりに人間との間に不義を犯したといわれる例の動物(現代の人間社会ではネコと呼ばれている四足歩行動物)を思い出した。エリート動物にとって人間と情を通わせることは、それ自体が最上の禁忌であるが、さらにこのネコが誘惑したとされるのは人間の配偶者をもつ人間であった。当然この場合も、人間同士の不義密通の場合とは異なり、厳格に刑事罰の対象となる。ネコはとりわけ優秀な頭脳をもっており、この辞典編纂にも参加する予定であった。しかしたった一度の人間との密通――と疑われる行動であり、もちろんネコ自身はそれを否定したのであるが、人間による裁判の結果は有罪であった――によって罪を背負い、監獄にいる。このネコが知能を除去されてエリート権を剥奪されることは確実である。このような「事件」は、人間並みに知能を得た動物がヒトに及ぼした影響として、あるいはネコが生きた意志として、記憶されるべき事象なのだろうか。

 さらにクマは想像する。動物と人間との交情が禁忌であるとして、禁じられてない同類同士の繁殖行動は「歴史」として後世に残されるものだろうか。歴史というものが積み重ねであるならば、その繁殖の営みによって、種族が長きにわたって続いてきたことが、それ自体、歴史になるのではないか。つまり歴史というものは今この自分に刻まれている遺伝子そのものであって、あえて語り継ぐ必要などないのではないか。「伝統」という別の言葉もまた存在するが――

 カラスがクマの思考を遮るようにガーガーと発言し、現実に引き戻す。
「人間版の原文から解釈できるのは、昔の仲間の痕跡があって、それを知るだけじゃなく、そこに今を生きる僕らが、生命の維持以上の何らかの意味を見いだせない限り、歴史とは言わないように僕には思えるんですけど。」
 カラスは続ける。
「『精神の継承』うんぬんと書かれているのは、そういうことじゃないですか。」

 それを引き取るように、ネズミが言う。
「こんなことを聞いたことがあります。人間の世界には英雄という存在があるのです。ひとつの飛びぬけた存在、その英雄たる個体が歴史のうねりを作るのです。そこに精神が引き継がれるのですな。」
 英雄!
 クマは、同類の中で英雄的に言い伝えられている「ユプケ強いカムイ」というヒグマを想起した。狩猟者に立ち向かうのはもちろんのこと、集落を脅かす人間に対してのみならず、人間側の集落に攻め入って躊躇なく命を奪う勇猛にして残虐な熊であったという。人間からは畏れ恨まれたが、迫害されながらも辛抱強く耐えて、非常な長寿であったことも、その英雄性を高めた。しかし、それが歴史だというのなら…人類をあまりに多く扼殺やくさつしたこの存在をもし歴史というなら、人間はこの「歴史」を不名誉と考え、消したいと思うのではないだろうか。ある種の名誉は他の種の不名誉になる。クマは再び考え込んでしまった。

「少し戻りますが、『ある事象を伝える』というのも、よくわかりませんな。」
 ネズミが言う。
「事象という言葉の意味は理解しているつもりなんですけど、痕跡と事象というのはなんとなく違う概念みたいに思えます。」
 カラスが続ける。
「痕跡というのはそこで何かが生きていたしるしで、事象というのは出来事でしょう。『子を産んだ』は事象かもしれません…」
 と、クマが引き取って考える。

「伝えるということについて、どうも引っかかってなりません。何度もこだわって恐縮なのですが…」
と、それまで釈然としない雰囲気で黙っていたイルカが、突然水中から指摘した。
「人類の世界における歴史というものは、ほとんどは文字によって伝えられているようです。第一校でも申し上げたとおり…」
「文字なるものは人間のエゴでしょう。我々は文字などより繊細で確実な、発声によって意思を伝えるのですから。音声には抑揚があり、強弱があり、大小があり、その震えの愛撫、すなわち官能によってお互いに意思を伝えあうのです。人間が発明したらしい文字なんてものは眼で感じとるだけのものであって、生物の意思を平板に引き延ばしてしまうのです。」
「直覚を通じない意思疎通など何の意味がありますか。したがって文字ではなく音声で伝えられるのが、最も正しい情報です。必要ならばそれを意志や意思の痕跡と言ってもよろしい。人間の世界でも口伝という言葉があると聞いています。その言葉を借用するなら語り継がれた口伝のみが歴史なのです。」
「そもそもこのような辞典にしたって、将来に残すことを考えて文字になるのかもしれませんが、文字で何かを伝えるということ自体が本来は無意味なのです。現在の技術であればいくらでも音声で保存する技術があるでしょう。」

 表情こそわからないが、イルカはだいぶん色をなしているようで、一気にまくしたてる。イルカはどういうわけかこれまで文字に対して異様に過敏な反応を示してきており、またかという雰囲気で他の四動物に白けた空気が漂う。
 イルカの音声変換器は水中に据えられている。
「文字と、そこから発する文字の文化というものが、我々には不都合に思えます。文字は人間が政治権力を振りかざすために造ったものです。文字は権威になり、いずれ暴力になります。この愚行を動物の世界に繰り返してはならない。」
 ここで、ブザーが鳴って警告が示された。イルカは一瞬怯んだが、
「…とにかく、文字で書くということを前提にするなら、歴史などという項目は削除も検討すべきだと改めて主張します。」
と言い切った。

 クマは内心首をかしげる。イルカの言わんとすることはある程度わかる。イルカが筆記するための手足を持たないことは事実だ。しかし、動物の肉体的改造は禁じられているのだから、文字を書けない点でいえば他の動物もそれほど違いはない。そもそも音声から文字化するデバイスならいくらでもあるわけで、技術的な問題はないだろう。イルカの文字への疑いには、言葉そのものへの疑いも含まれているように思われる。意思疎通の手段としての言葉は用いているのに、それを可視化した文字だけが不都合ということは理にかなわない気がする。そもそも語りの時点で嘘を言えば、本当の「歴史」とやらも語り継がれない。理屈がこんがらがってはいないか。
 イルカの文字不要の主張を受け入れて、押し詰めていけば辞典編纂という事業そのものが無意味になってしまうのではないか。そもそもなぜこれほど文字を嫌悪するのに、どうしてこの編纂メンバーとしてイルカが選ばれたのだろうか。しかも、この動物は元来人間に近い知能を持っており、一部の狂信的な人間たちからは同類のように扱われてきたはずだ。それなのに人間の最も得意な発明である文字を否定するというのはどういった反骨心からだろうか。

 いや待てよ、とクマは思った。
 ――そもそも、「歴史」というものが当たり前に嘘を含んでいるのではないのか。だからそれを認識するにあたってしつこく「痕跡を残す」とか「読み取る」とかいった現在との関係性が言われるのだ。「継承の精神が合致」うんぬんというのは、要するに過去の連中がついた嘘を、それが現在に都合のいい場合に、嘘と知っていながらそのまま嘘として受け取ることではないのか!

「近未来アニマルペディア」(下)に続く






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