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映画感想 MINAMATA-水俣-

 水俣病はまだ過去のものではない。

 『MINAMATA-水俣-』は1970年代熊本県水俣市を舞台に描かれた映画である。監督はアンドリュー・レヴィタス。監督は俳優、アーティストであり、プロデューサーや映画監督としても活動していて、本作は映画監督2作目となる。実在の写真家、ユージン・スミスを演じるのはジョニー・デップ。ジョニー・デップは作品の構想に惚れ込み、作中人物のように使命感に燃え、自らプロデューサーを務めて作品制作に貢献した。
 2019年、本作は完成し、2020年ベルリン国際映画祭でワールドプレミアが行われた。当初はMGM配給で公開されることになっていたが、当時のジョニー・デップは元妻のアンバー・ハードへのDV疑惑の渦中であり、MGMはそれを理由に本作の宣伝は一切しない、それどころか公開せずお蔵入りにしようといていた(結局DV疑惑はそれを証明されるものが出てこず、アンバー・ハードの虚言ということで決着した)。本作のプロモーションをまったく見かけなかったのはそういう理由に基づく。
 そういった経緯の元、ILBEとサミュエル・ゴールドウィン・フィルムズの配給により、2021年ようやく劇場公開。
 映画批評集積サイトRotten Tomatoesによれば高評価は78%、平均点は6.3。Yahoo!映画でも高評価が多い。実在事件を今に伝える骨太なドラマ作である。

 では本作のあらすじを見ていこう。


 1971年、アメリカの高名な写真家で知られるウィリアム・ユージン・スミスは一線を退いてアルコール中毒に陥っていた。仕事への情熱を喪っていて、回顧展で得た収入でどうにか暮らしているような状況だった。
 そんな時、富士フイルムのCM撮影でやってきた日本人翻訳家アイリーンに会い、一目惚れする。そんなアイリーンから日本で起きている公害病「水俣病」の話を聞かされる。
 「日本に来て欲しい」
 そう誘われたが、ユージンは乗り気ではなかった。しかし夜になって、水俣病を捉えた写真を見てハッとする。これは行かねばならない。喪っていた情熱に火が点いた瞬間だった。


 ここまでで前半20分ほど。情熱や気力を失ってアルコール中毒に陥っていたユージンだったが、水俣病の実情を知り、「行かねば!」と使命感に目覚めるまでが描かれている。

 ここで水俣病について簡単に触れておこう。

 1931年、熊本県水俣町の日本窒素肥料株式会社(後の「チッソ」)はカーバイドからアセチレンを作り、これを水銀触媒を使ってアセトアルデヒドに変える合成方法を発明し、特許を獲得した。翌年、この技術による工場を操業し、一大事業に育てていく。
 ただ大きな問題は、その合成過程に出てくる廃棄物、「メチル水銀化合物」を処理せず海に流したことであった。
 その水銀を海の魚が食べ、それを収獲し、食べた漁村の人々に健康被害を出すようになる。漁村の人々は強烈な中毒症状に苦しみ、さらに奇形児が生まれるようになっていった。
 当初は原因がわからず「奇病」として恐れられていたが、間もなくチッソが垂れ流しているメチル水銀化合物が主因であると判明し、地元住民と企業側で激しく争われることとなる。
 病気の症状が起きた中心的地域の名前から取って「水俣病」と呼ばれ、戦後4大公害病の一つとされた。
 この事件を地元に3年間住んで取材し、世界に伝えたのがユージン・スミスだった。学校の教科書にも載っている、水俣病の娘(上村智子さん)をお風呂に入れている母親の写真を撮ったのも、ユージン・スミスである。

 ユージン・スミス撮影。有毒なメチル水銀化合物を適切な処理をせず海に流していた。

 映画の話に戻ろう。映画は実話を元にしているが、全てが実際の事件通りにお話しが進行しているわけではなく、時系列の変更や誇張といったものがある。それを確かめながら見ていこう。

 1971年、ユージン・スミスは仕事への情熱を喪い、アルコール中毒に陥っていた。この頃は本当にスランプだったらしく、荒れた生活を送っていたようだ。
 冒頭、現像室にいるユージン・スミスが写真を感光させる時に、掌で“覆い”を作っている。これは写真が印画紙に感光させる時に、「くっきり映る」ところと「ぼやけたところ」を作るためだ。光が強く乗るところ、暗く潰すところもこうやって調整する。今ならフォトショップでお手軽にできる処理だが、この頃は写真家が現像室で職人的に調整していた。写真家の仕事は現場でシャッターを切ればそれで終わりではなく、現像室の後処理によってより絵画的に仕上げていた。

 ユージン・スミスの写真。手前側の茂みが極端に暗くなっている。これも現像室での処理で作り上げた効果(「焼き込み」という技法)。作品名は「The Walk to Pradise Garden」(楽園への道) 。ユージンの代表作の一つである。

 そんな飲んだくれのユージン・スミスのもとに富士フイルムのCM撮影がやってくる。この時に通訳としてやってきたのがアイリーン・美緒子・スミス。
 映画のやり取りでは、富士フイルムのカメラマンは「あなたのファンです!」と熱烈にアピールしているのだが、ユージンはアイリーンに「君は僕のことを知ってる?」「昨日知ったわ」とある。これも実際にあったやり取りだったそうだ。当時アイリーンは通訳として入っただけで、ユージンのことはまったく知らなかった。
 その後、アイリーンから水俣病の話を聞かされるが、実際には回顧展で学芸員の元村和彦から話を聞いた……というのが切っ掛けのようだ。ただ、このエピソードは映画では省略されて、展開を早めるためにアイリーンから聞いた、というように変更されている。。
 映画では飲んだくれで仕事への情熱を喪っていたユージンが、水俣の写真を見てハッと顔色を変える場面が描かれている。この時、写真のほうを見せず、ユージンの顔つきが変わる瞬間を描いている。ここから映画がユージンの心理的経緯の物語だということがわかる。

 実はアイリーンとの出会いのエピソードもちょっと時系列が違っていて、実際には1970年8月の時。その翌年、ユージンは日本で写真展があったために来日し、その時に結婚している。1971年8月29日にユージンとアイリーンは結婚し、水俣を訪れたのは同年9月3日以降だ。
 映画ではユージンとアイリーンのロマンスはゆっくりと描かれるが、実際には会ってすぐに恋に落ち、水俣にやってくるまでにはすでに結婚していた。

 実際のユージン・スミスとアイリーン。

 映画が始まって20分ほどで日本へ行くのだが、1970年代の日本の風景なんて、今の日本のどこにもない。そこで「似た地域」として撮影地として選ばれたのはセルビアとモンテネグロ。モンテネグロの海辺の街・ティバトが主なロケ地として選ばれ、そこに200人の日本人俳優とエキストラが招集されて撮影された。
 なぜモンテネグロ……と不思議な気がするが、実際の映画を観ると確かに雰囲気が似ている。村の風景まるごとオープンセットだったわけだが、パッと見、本当に日本かと思うような風景に仕上がっている。日照が弱く、漁村全体に暗い雰囲気が漂っているのだが、それがかえって村の陰鬱な雰囲気にも繋がっている。
 波際の風景も、日本のどこかにあったかも知れない雰囲気が出ていて、実は外国……というのがどこか信じられない。

 日本へ行くユージンだったが、実は日本には少なからず「因縁」があった。
 というのも1945年、ユージンは太平洋戦争末期の沖縄へ従軍カメラマンとして参加していた。そこで爆風に巻き込まれて重傷。口蓋が砕けて障害となって残り、以来固形物の摂取がほとんどできなくなっていた。以降は牛乳と卵を混ぜたオレンジジュースが主な栄養源となっていた。
 日本へ行く、となるとまずその時のトラウマと向き合わなくてはならない。それだけでもユージンにとって苦痛だった。
 その後も日本に訪れる機会があり、1960年、日立製作所が創業50年を記念した国際宣伝プロジェクトを計画し、その写真撮影の依頼がユージンに来た。しかしこの時の仕事について、日本のことをよく理解しておらず、半端な仕事をしてしまったとして悔いを残している。
 それから10年後のこと、水俣病の話を聞いて、再び来日する。日本をもう一度撮り直したい……という自分への課題、それから「日本の漁村を撮りたい」という欲求がちょうど重なったところに「水俣病問題」の話があって、ユージンは撮影に情熱を燃やす。

 日本へやってくるユージン。水俣病はすでに漁村では大きな問題になっていて、それを世界に伝えてくれる……という役目を持ったユージンは村人に歓迎される。しかしユージン以前にも何人もの写真家がやってきている状態で、村人達は今以上にプライベートに立ち入られることに忌避感を持っていた。
 間もなくユージンは、チッソの前で演説をしている「自主交渉派」の一団と合流し、彼らから取材を始めるのだった。

 映画ではまだ裁判が始まる前……という段階で描かれるのだが、実際にはすでに裁判はかなり進んでいて、チッソの工場排水で病気が広まっていることも証明されていたし、裁判所はチッソに賠償責任ありと認定していた。
 ただ問題だったのは、お役人仕事にありがちな話として、水俣病患者認定の条件付けがむやみに厳しく、明らかに水俣病患者としての症状が出ているのに認定をもらえない人が多数出てしまったことだ。この問題が尾を引いていて、ユージンがやって来た頃も「自主交渉派」の一団がチッソ前に集結し、抗議したり座り込みをやっていたりしていた。
(この問題はこの時代に完全に解決することなく、2022年の今でも遺恨を残すことになる)
 映画ではチッソとの裁判が最終的なクライマックスとなっていたが、この辺りの時系列が異なる。実際にはこの局面はすでに終わっていた。映画的に裁判が終結し「勝訴」を掲げるシーンをクライマックスに置きたかった……という事情は理解できる。そのほうが映画的に映えるというのは間違いない。
 このように、映画的な展開や盛り上がりを重視した作品であるため、事実と微妙に異なる点や、盛った場面もいくらかある。それを見てみよう。

① チッソ社長がユージンを買収しようとした事実はない。
 映画ではユージンがチッソ社内に招かれて、大金を渡されて、その代わりに「フィルムを寄こせ」と迫られる場面がある。これは実際にはない。
 ただ、チッソが村人に「見舞金」を送ったというエピソードは事実。見舞金を送るとき、「乙は将来、水俣病が甲の工場排水に起因することがわかっても、新たな補償請求は一切行わないものとする」という一文が添えられていたそうだ。要するに「金を受け取る代わりに、もう二度とこの件で騒ぐなよ」という意味だ。現実はフィクションよりも度し難い。

② ユージンがチッソ附属病院に潜入したという事実はない。
 この辺りは映画的に盛ったところ。
 ただチッソ附属病院院長の細川一が猫を実験にメチル水銀化合物が有毒かどうか実験していた……という話は本当。映画中に出てくる実験映像は、おそらく本物。チッソ側はメチル水銀化合物の有毒性やそれが近隣住人達に影響を与えていたことを実験により知っていて、知りながらその後も有害物質を海に流していた。あのフィルムを映画中に登場させるために、潜入シーンを作った……というふうに考えればいいだろう。

③ ユージンの現像所を焼き討ちした事実はない。
 この辺りも映画的に盛ったところ。
 どうしてこのように演出されたか……というところから考えよう。
 映画の冒頭、ユージンは創作へのモチベーションを喪っている状態で、水俣の話を聞かされても心は動かなかった。ジョセフ・キャンベルふうに言うと「冒険の召命」だ。セオリー通りにユージンは水俣行きを断る。
 なぜ最初の段階で「冒険の誘い」を断るのか。それはユージン自身に動機を作るためである。「誘われたから冒険へ行く」のではなく、「自身から行かねばならない動機」を作らなければならない。だから一度断るのである。
 ジョセフ・キャンベルによれば、冒険の舞台に立った後も、英雄は一度挫折する。そこからいかに奮起するか。決定的な苦難を前にして、立ち向かおうという意欲を持たねば、英雄は英雄になり得ない。
 この映画の場合、ユージンの現像所が燃やされてしまう。これによって、それまで撮影し続けた全資料を喪ってしまう。そんな状態でも、ユージンは挫けずに立ち上がれるか。それをユージンに突きつける一幕になっている。映画的なクライマックスへ向かうために、物語的なプロセスとして必要だった場面だ。
 こう見るとわかるけれども、映画はユージンの心的経緯を中心に描き、そんなユージンの目線から水俣病事件を捉える……という構造を持っている。この構造を作るために、実際事件が改変されている……と考えればシックリくるはずだ。

 もちろん事実に基づいた場面も描かれている。それが「五井事件」。
 政府はチッソの問題を認めたものの、水俣病患者の認定条件がやたらと厳しかったために、水俣病の症状が出ているのにもかかわらず患者として認定されない人を多く出すことになってしまった。このことに憤った患者とその家族が「自主交渉派」を結成し、チッソ前に集結し、抗議や座り込みなどの活動を始めた。
 1972年1月7日。自主交渉派は千葉県市原市五井のチッソ五井工場へ集結した。そこで抗議の集会を行ったのだが、チッソ側は従業員200名を動員し、集まってきた人たちを蹴る殴るの暴行を加えて排除させようとした。
 映画中ではこの暴動も熊本県のできごととして描かれていたが、実際には千葉県で起きた事件だった。改変はあったが、チッソが従業員を動員させて、自主交渉派に暴力を振るったという事実は本当。現実は映画よりも度し難いのだ。
 この現場に立ち会っていたユージンも暴力の被害に遭い、失明してしまう。映画でも全身包帯、この事件以降眼帯を付けるようになったが、これは大袈裟な表現ではなく実際にそれくらいの怪我だった。この暴行の瞬間は写真にも残されていたが、直接暴行した容疑者は不起訴処分となった。
 しかもユージンはこの時の怪我が後の方まで尾を引き、体調不良が深刻化。もともとあった口蓋の後遺症がひどくなり、栄養摂取はますます難しくなった。これが原因で1978年この世を去ってしまう。

 水俣病はこの時代だけで終わった事件ではなく、その当時の患者や遺族はまだ生きている。水俣病患者の認定がやたらと厳しかったために、補償金を受け取れなかった人たちが多くいる。そんな人たちと政府の戦いはまだ終わっていない。
 2013年、時の総理が「水俣病はもう過去のもの」と発言した話が映画の最後に出てきているが、その「時の総理」とは安倍晋三総理のこと。この総理発言が呼び水になり、その後も活動し続けている人たちに向けて、「いつまでも騒ぐな」というような中傷電話が相次いだそうだ。
 事件は終わっていない。今は無関心こそが水俣病問題の最大の敵だ。だからこそ、この時代のできごとを伝える映画が今の時代に作られたのだ。

 映画はアンドリュー・レヴィタス監督作2作目。アンドリュー・レヴィタスは俳優であり、アーティストというだけあって、カメラにはかなりのこだわりを見せている。
 室内のシーンは陰影の細かな濃淡を丁寧に捉えて撮影している。日本映画は全体にぱっきりとした光を当てて撮影する傾向がある。こんなふうに光の濃淡を中心に捉えた映像で日本家屋を見るのは、なかなか新鮮だ。(天井の照明を点けず、間接照明だけ……というのはさすがに不自然だったが)
 屋外のシーンはハンディカムのようなカメラで役者の動きを捉える。少しピントが甘めに撮影されているおかげで、シルエットが柔らかく撮れている。これが風景の濃淡を重なり合うとなんともいえない美しさが表れてくる。どのシーンも画として決まっているので、見ていて飽きない。
 俳優陣もいい人を揃えている。自主交渉派リーダー役に真田広之。いつもはもっと穏やかな演技の彼だが、この作品では最初から感情剥き出しで切れまくっている。チッソの門前で自身を鎖で繋ぎ、「認めるまで俺は動かん!」と吠える姿はそれだけでゾクゾクする。
 チッソ社長には國村隼。「腹黒い権力者」の役をやらせると日本で一番うまい。静だけど圧倒するような貫禄を見せてくれる。役者達が情熱を剥き出しに演技をしてくれたから、見事なものになっている。
 楽しいエンタメ作品ではないが、まだ終わっていない水俣病を知るには最適な一本。ぜひお勧めしたい。

 事件の後のことも簡単に触れておこう。
 1977年12月、学校の教科書にも載っているあの写真、「入浴する智子と母」で知られる上村智子が21歳で死去する。「入浴する智子と母」の写真はユージンにとっての代表作で、水俣病のシンボル的な写真だったが、遺族との協議の末“封印”することになった。病気で苦しんできた上村智子を“休ませる”ためである。
 その1年後、ユージンが死去し、写真の著作権はアイリーンに移されることになる。アイリーンは遺族の遺志を守り、要望があってもその写真を公開しないようにしてきた。
 しかし、今回の映画ではあの事件から50年が過ぎて風化しはじめている事実があり、もう一度人々に知ってもらいたい、という意思のもと、映画の中で使用されることとなった。


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