見出し画像

3月18日 戦争を憎んで文化を憎まず

 この日、私はドキュメンタリー映画『ウィンター・オン・ファイヤー:ウクライナ自由への闘い』の紹介文を書いているのだが……。
 今日はそれにちなんだお話を。

 ウクライナ、ロシア間ので戦争が始まって以来、人々の間に「ロシア嫌い」が広まっていった。ロシアに関するものは何もかもが嫌い。憎い。日本国内でも海外でも「ロシア人差別」というのは広まっていて、「ウクライナ人が経営するロシア料理店」の店員が迫害される……という事件も起きているという話は聞いた。
(「ロシア料理」を出しているから店員もロシア人かと思ったら、ウクライナ人だった……という話)
(「ロシア料理」だと思っていたら、実は「ウクライナ料理」だった……という事例もある。迫害するくらいなら、まず相手の文化のことをよく知らなければならない)
 声優の上坂すみれは以前から「ロシア好き」を公言し、ロシア語会話もできるくらいにロシア文化に馴染んでいる人だ。この上坂すみれに対するバッシングも始まっている。「お前はロシアの仲間なんだろ」……というような。2月24日以降の上坂すみれTwitterを確認すると、本当にそういった書き込みがちらほらと見られる。

 戦争が憎い――という感情は理解できる。特に今回のウクライナーロシア間の戦争は意味がなさ過ぎる。意味のないところで殺戮が起きてしまっている……という問題に対して考えることには意義がある。しかし、そこからそれにちなんだ文化や人間までも嫌いになっていく……という心理はなかなか難しい。なぜそこまで考えるのか理解しがたい。「それは関係ないんじゃないか」……「感情」に捕らわれている人に、そう諭してもなかなか聞いてもらえるものではない。
 では「どうしてそのように考えがちなのか」ということから考えていこう。

戦争に対する私見【次段落まで読み飛ばし推奨】

 という前に、私の戦争に対する見解を。
 私は旧世代的な武力衝突による戦争は、もはや起きないだろう……と考えていた。というのもリスクが高い。
 戦争をするのだって金がかかる。戦争になると、物資と食料を猛烈に消費する。どうしてそこまでして戦争をするのか、というと相応の利益が得られるからだ。最終的に得られる利益と、戦争で消費する物/金を天秤に掛けて、どう考えても戦争をやったほうがいい……という時に戦争は起きる。戦争を起こした方が、結果的により多くの人を救える……という判断になった時、国家は戦争を決意する。
 どんな政治家だって「戦争がしたい」なんて、そうそう思わないはずだ。しかし交渉がもつれで解決不能になった時、武力による衝突は「やむなし」で起きる。
 日本が中国に戦争を仕掛けていったのも、日本国内の食糧・物資の枯渇問題が背景にあったし、米国に対する宣戦布告も石油を止められたからだ。
(アメリカは日本を戦争に誘い込むために禁輸した。当時はアメリカも深刻な経済問題を抱えていて、日本との戦争で経済を復興させようと試みていて、これは成功した。アメリカ側も得たい利益があったから、日本に攻撃するように差し向けてきた。米国にとって「やむなし」の事情があって、誘い込まれた戦争だった)
 戦後教育によって、あたかも「日本は特に理由もなく一方的に海外に対して攻撃を開始した」……というふうに考える人が増えたが、実際には戦争をしなければならない理由を抱えていた。

 意味もなく戦争が起きる……なんてことはどんな歴史にもない。戦争が起きると物が大量に消費するし、人も死ぬ。物資の問題ではなく、「感情」の問題を抱える。それを考えると、軽々に起こすべきものではない……とどんな為政者だって考えることだ。
 現代は旧世代的な武力衝突の戦争は起きえない。なぜなら戦争を起こすための費用がめちゃくちゃに高くなってしまったからだ。そんなことをするくらいなら、真っ当に交渉して協定を結んで利益の一部を得た方が良い。
 リスク問題でいえば、実際に戦争を起こした場合の国際的な反応も苛烈だ。今回ロシアは世界中のあらゆる国から経済制裁を受けていたが、これは予想されていた事態だ。
 現代において戦争はもっと様々な手法に変質している。企業スパイやネット上のハッキング……そういう新しい形に移っている。実際、中国人は様々な企業にスパイを送り込んで、他国の特許を大量に盗み取っている(企業が非公開にしている技術も盗まれている。中国が飛躍的な発明をたくさんしているように見える背景には、「未公開技術の盗用」もあるからだ)。現代は戦争の焦点が旧世代的な「土地」や「物資」や「食料」ではなく、「特許」や「技術」といったものに変わっている。そういったものをかすめ取るだけで相手国の経済に相応のダメージを与えられるし、相手国が得るべき利益を自国のものにできる。
 もちろん今でも「土地」を焦点にした戦争は展開されている。日本周辺でいうと、沖縄普天間基地周辺で活動している左翼と中国人。尖閣諸島。竹島。北方領土。
 どうして周辺国がああいった島を確保しているかというと、もしも時代がかつてのようになった時、いつでも戦闘を始められるように確保しておきたいからだ。地政学的にいっても、沖縄や尖閣諸島、竹島、北方領土といった島は、戦略上重要な拠点になりうる。戦闘機だって無限に空を飛んでいるわけにはいかないから、攻撃したい相手国の近くに「拠点」を持ちたいはずだ。沖縄や尖閣諸島はそういった拠点になり得るから、確保しておきたい……と各国は考えているわけである。

 ところが、こんな時代にあって、武力衝突による戦争を仕掛ける奴がいた――それがプーチンだ。しかもそれがかつての属国のNATO加盟を阻止するため……という。
 ……そんなことのために……。
 戦争が始まったというニュースを聞いて、私も愕然とした。「そんなバカな」というか「バカなのか」と思った。こんなに意味のない戦争行為はかつてない。上に書いたどんな理由にも該当しない。「何の意味があるのかわからない」戦争だ。
 おそらくプーチンはかつてのような「帝政ロシア」を夢見て、その幻想を追いかけて……といったところだろう。ロシアにとってウクライナはソ連時代では「子分」という扱いだった。「子分が勝手なことをするな」というメッセージもあるのだろう。
(2014年のマイダン革命の時では、「ロシアの子分」というべきヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領が国民を攻撃していた。そのヤヌコーヴィチはロシアに亡命……。ウクライナのEU加盟、NATO加盟を止める者がいない。だからそこでロシアが直々に……といったところだろう)
 しかもその開戦の切っ掛けがデマゴギー。かつてヒトラーは「オーストリアで我が同胞が迫害されている」という嘘ニュースを作って国民を扇動し、開戦の正当性を得ようとした。あれとほぼ同じやり方だ。
 今の時代、デマゴギーなんぞすぐに見破られるだろうに……。この一件を見ても「バカなのか」としか思えなかった。
 第2時世界大戦のドイツは深刻な経済問題を抱えていたし、国家のプライドも失っていた。あの当時のドイツには、戦争を起こさなければならない理由は間違いなくあった。だが、それもフランスに勝利した時点で止めておけば良かった。フランスに勝利した時点でかつての協定を撤回させ、ドイツのプライドは取り戻せたはずだった。フランス勝利で、ドイツの目的は達成していたはずだった。
 だがヒトラーの夢は「帝政ドイツ」による世界征服だった。「ドイツの面目回復」ではなかった。「狂気の夢」だった。だからナチスドイツは止まらなかった。
 プーチンの行動には、ヒトラーの影が残像のように見えてくる。プーチンが誰に似ているか、といえば間違いなくヒトラー。歴史は逆行しようとしているのか……。

『政治問題』が『感情問題』にすり替わっていく

 長くなってしまったが、今回の本題に入ろう。

 私が話題にしたいのは、戦争の話ではなく、つい先月も話題にしたアメリカの「アポロ計画」について。
 先月も『ファースト・マン』の映画感想文の中にも書いたけれども、「アポロ計画」の前景には1957年の「スプートニク・ショック」が始まりとしてあった。
 1957年10月4日、ソ連は初の人工衛星「スプートニク」を打ち上げる。これによって、アメリカはパニックに陥った。「ソ連に宇宙から攻撃されるのではないか……?」この恐怖でパニックになったのが「スプートニク・ショック」である。
 結局のところ、スプートニクには攻撃能力なんてなかったのだが、一時的であれ政治も国民も恐慌状態に陥り、「アメリカもソ連に負けないレベルのミサイル開発能力を」が合い言葉となった。
 1961年4月1日、ソ連のガガーリンが初の有人人工衛星の打ち上げを成功させる。アメリカはもう負けるわけにはいかない……と同じ年の5月25日、当時の大統領ジョン・F・ケネディは「60年代の終わりまでに人類を突きに送り出す!」と宣言する。
 アメリカがミサイル開発に邁進していったのは、もともとは「アメリカにもこれだけすげーミサイル開発能力があるんだぜ」というソ連に対して「軍事マウント」を取ることにあった。月面到達が達成できれば、「どうだスゲーだろ!」と言えるだろう、ということで設定された目標だった。
 ところが「月面到着」という目標を設定した瞬間、「軍事」のテーマはどこかへ行ってしまい、月旅行そのものが「ロマン」の産物になっていった。そうすると、国民の中にも「国内の問題を差し置いて、月旅行とかいう訳のわからないものに対して予算を割く意味はあるのか」という異議も出てきてしまう。
 軍事の常識であるが、相手に攻撃の意思をなくさせる手っ取り早い方法は、自分が相応の軍事力を持っていることを誇示することだ。そのためのデモストレーションを「月旅行」に据えた途端、何かがおかしくなっていった。月旅行はロマンの産物であって、軍事という感じがしない。でも背景には軍事という意識は確かにあって……当事者ですら、月旅行は軍事のためかロマンのためか、わからなくなっていく。
 末端の開発者までいくと、政治のテーマはほとんど漂白されていき、あるとしたら「プライド」の問題。つまりは「心情」の問題としか捉えられなくなっていく。


 国家の意思や意識は、大衆のレベルになると薄く引き延ばされ、意思や精神の話へと転換されやすい。
 国家が戦争を始めるには、相応の理由が必要となる。その領地を取られたら、その権限を取られたら、大多数の人々が生活ができなくなる。あるいは、国家としての根拠を失う。「国家としての根拠」とは土地(聖地)であったり文化、食などいろいろあるだろう。そうしたものが喪失する危機に直面した時、武力をもちだして抗議に乗り出さなくてはならない。もしもこうした危難を前に、政治も国民も何もしなければ、それこそ「腰抜け国家」と呼ぶべきところだ。「降伏すればいい」なんて甘い話は世界中のどこでも通用するわけがない。
 ウクライナは2013年、大統領がEUから離れ、ロシアにすり寄ろうとした時、まさに「国家の危機」と国民が判断し、100万人にもなる国民が結集して異議申し立てをした。これが戦争を始める理由や合理性がきちんとある場合の戦争である。
(ここでウクライナ国民が「降伏」なんぞしていたら、とっくにロシアの属国になっていたところだ。「降伏主義」に良いことなんざ何もない)
 国家が戦争を始める時は、「生活ができなくなる」「国・民族としての精神性を喪う」そういう危機を前にして、武器を持って立ち上がる。その瞬間、当然ながら為政者や政治家の心理にも「情動」の動きはある。だが情動以上に、その背景にある数千人、数億人の生活や命を天秤に掛けて、行動を決する。政治家はそういう意思決定を行うことが仕事である。

 ところがこれが政治のレベルから大衆のレベルへと降りていくと、「政治」以上に「情動」が優先されていく。もともと「権利」や「民族」がテーマだったものから、単に「相手が憎い」という感情論的なお話になっていく。
 お話が当事者に近くなっていくほどに政治のテーマや、「戦わないとどうなるか」という切迫感は認識されやすい。だがそうした政治の中心から遠ざかるほどに、「気分」や「精神論」の話になっていく。

 日本が描きがちな戦争ドラマの多くは、政治のお話をほとんど語らないから、ドラマを観ていてもそもそもなんで戦争なんかやっているのかわからない。よくわからないけれど「お国のために!」と精神論を剥き出しにしていく。それが狂信的に見えるし、ドラマの作り手も狂信的に見えるように描いてしまっている(そうでなければ、ドラマの作り手が当時の政治をよく理解していない)。
 おそらくは実際の大多数の大衆のレベルになっていくと、「なぜ?」という問いはどこか忘れられていて、「お国のために」その状態を維持することそのものが目的化されていく。目的を見失って、状態維持そのものを目的化していくから、原理主義に陥りやすい。
 原理主義的に考えることを放棄して現状と向き合ってしまうと、表面に浮き上がってくるのは感情だけになっていく。「敵だから憎い!」と。なぜその相手が憎いのか、という理由すらも問われなくなっていく。
 敵だから憎い。敵の文化だから憎い。敵の文字も憎いし、敵の音楽も憎いし、そういう憎いものはとにかくも排除しなければならぬのだ! 敵の文化や言葉を使うやつは非国民だ! ……という発想に陥りやすいし、実際70年前の戦時下の日本はこの状態に陥ってしまっていた。外来語をまとめて「敵性語」とか言い始めてしまった。外来語まで排除しちゃうと、コミュニケーションも取りづらかっただろうに。

政治的なお題目は忘れられやすい~『感情』の問題にされやすい政治

 もう一度最初からテーマを遡って考えていくと、戦争を始める理由の根本は、それを奪われると生活ができなくなる、民族としての根拠を喪う……といったところで、その危機に直面したから“仕方なく”武力で異議申し立てをする。これが戦争だ。政治のレベルであればこのテーマは認識されやすい。
 これが政治から遠ざかっていくと、「メインテーマ」は少しずつ漂白されていき、どこかで単純化され、「相手が憎いから戦争をする」というお話になっていき、さらに末端へ行くと原理主義化して「相手の文化を排除する」こと自体が目的化していく。

 現在、ロシアがウクライナを侵攻したのは馬鹿げた事実だが、これを切っ掛けに、ロシア文化をとりあえず排除しよう……という動きは多くなっている。ロシアが憎い、ロシア人が憎い、ロシア文化が憎い、ロシア語やロシア文字も憎いし、ロシア文学も憎いし、ロシア音楽も憎い、ロシアの国旗を見たら燃やしたくなる……。ヨーロッパではヨーロッパ在住のロシア人に対する迫害も事実として起きている。
 どうしてこういう発想にまで陥ってしまっているのか、というとそれが末端の人々の意識だから。もともとあったはずの政治のお話が単純化されていき、感情だけの問題にされていき、さらには排除すること自体が原理主義化していく。
 現代は情報化の時代で、政治レベルでどういったお話が交わされているのか、そういう話はいくらでも情報として得ることができる。情報が得られなくてわからない……という時代ではない。しかし一般レベルになると、どうしてもお話は単純化されていき、「感情」の問題に陥っていく。つまりは、大多数の人々の意識や理解力はそんなもんだ……そういう話でもあろう。

 これだけ濃い情報が得られる時代であるのに、精密な考えが持てない理由は?
 もしかするとスマートフォンの性質が関係しているのかもしれない。スマートフォンの危ないところは、目の前に差し出された情報に対して、どれだけ素早く反応するか……ということを知らない間に競わされてしまうことにある。中には注目を浴びたいが為に、最前線の情報に反応することだけを目的としている人すらいる。
 するとどんどん思考を喪って、情動で反応していくようになっていく。こうした情動のみで反応することに訓練されていった人達が、ある瞬間、情動以上の思考が必要になった時、物事を深く考えることはできるのか?
 Twitterやニュースサイトのコメントを見ると、反応のほとんどが「共感できるか」「好感が持てるか」という感情のお話だけになっていっている。自分たちがあらゆる事件に対して、ジャッジを下せる立場にある……という錯覚を抱かせている。これもある種の「動物化」の現象だ。
 最近は“少々の問題”で大騒ぎする事件があまりにも多い。実際には冷静になって情報を確かめてみると、そこまで大騒ぎする必要のないようなものばかりだ。だが、多くの人が「問題だー!」と大騒ぎして、発言やイベントや新しい商品が撤回されたり中断されたりしている。どうしてこんな現状が起きがちになっているのかというと、多くの人が「情動」のみで行動する癖がついてしまっているからだ。情動のみで行動し、正義のジャッジを下す。このことに快楽を憶えてしまっている。その快楽を得たいという衝動を抑えられない。情動で行動する習慣が、自身をコントロールできなくなっている……そういう動物化していっている人々が増えている、ということに恐ろしさを感じる。

 それ以外にも、私たちは学校教育でもメディアでも「感情」がいかに素晴らしいか……という話をさんざんに聞かされている。
 「感情はすばらしい」「どう感じるかが大切だ」「ハートを大切にしろ」……こういう考えを、あらゆるところで散々に刷り込まれている。こういった意見に刷り込まれてきた人達が、感情で反応する……という以上の思考を持たなければならない、という自体を前にした時、果たして真っ当な思考を持てるだろうか。災害や戦争という自体を前に、情動以上の判断ができるか。感情だけで反応し、やがて原理主義化していくのではないか。


欧米で起きているアジア人差別

 欧米ではいまアジア人差別がかなり過酷なことになっている。なぜなら欧米の人々からすれば、アジア人は「コロナウイルスを広めた憎い民族」だからだ。日本人も通りでいきなり暴力にあった……という話はたくさん出てきている。
 いや、待て待て。コロナウイルスの発症は中国だ。中国の武漢だ。日本は被害者だ。関係ないだろ……。
 しかし欧米の人達からすれば、日本人も中国人も同じに見える。区別がつかない。「日本も中国も一緒だろ」みたいは判断をされてしまっている。欧米では日本と中国はそれくらい「遠い国」なのだ。「日本と中国が違う国」ということも、知られていないかもしれない。
(日本人だってロシア文化とウクライナ文化を勘違いして迫害する……ということをやっているので、この件で欧米人を強く非難することはできないはずだ)
 そもそも日本と中国がまったく別の国の別の民族……という話すら、わからなくなっていく。大雑把にアジア人全員が、特定の欧米人にとって「危険な民族」あるいは「危険を世界中に振りまいた民族」と認識されている。そうした人々の中ではやはり「情動」のみで反応しているから、「アジア人憎し」でまとまってしまっている。
 「アジア人は排除すべし」……と最終的には原理主義的に判定されてしまっていく。これが情動だけで判断する人々の末路である。

 情動のみを根拠に「正義」を下してはならない。それがあらゆる誤りの元になる。

戦争を憎んで文化を憎まず

 私の意見は「戦争を憎んで、文化を憎まず」だ。戦争は大嫌いだが、だからといってロシア文化を嫌いになる必要はない。
 戦争が憎い、だからロシア文化も憎い……そこまでいくと、ただのバカの反応だ。それはそれ。これはこれ。別問題だ。憎むべきは戦争だけで充分だ。
 戦争が憎いからロシアも憎い……情動だけで突き進んだその先には、平和を願う意思とはまったく別の結末がでてきてしまうはずだ。わざわざ大衆レベルで「次の戦争」の火種を作る、なんてことはする必要がない。
 戦争を憎んで、文化を憎まず。この考えでいいじゃないか。


とらつぐみのnoteはすべて無料で公開しています。 しかし活動を続けていくためには皆様の支援が必要です。どうか支援をお願いします。