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5月3日 平安時代の「枕営業」は男同士で

 今も昔もアイドル業界によくある話といえば「枕営業」だ。でも平安時代まで遡ると、枕営業は「男同士」でやるものだったらしい……。

藤原頼長 1120~1156

 今回のお話しの主人公は藤原頼長。1120年生まれで平安時代末期の公卿(くぎょう)だ。執政関白太政大臣・藤原忠実の三男として生まれた。
 藤原頼長は侍従……つまり召使いの立場からスタートして順当に出世し、1134年には大納言に出世。その前年には徳大寺実能の娘・幸子をめとっている。……って13歳で結婚したのか。
 その後もなんやかんやあって1149年には左大臣にまで出世し、執政を担うことになる。
 ところが藤原頼長は喧嘩っ早い質だったらしく、意見の対立があるとすぐに喧嘩。「悪左府(あくさふ)」なんていうあだ名まで付けられてしまう。
 1155年、近衛天皇が崩御するのだが、その原因は藤原頼長が「呪詛」したため……なんて噂を流されてしまい、これが切っ掛けとなって失脚してしまう。この失脚には忠通や信西の謀略ではないか……と最近の歴史研究の間では言われている。
 1156年、保元元年の7月2日、鳥羽法皇が崩御する。この時、藤原頼長は「軍団を集めて国家反逆の計画を立てている」という噂を立てられてしまい、叛乱の容疑で財産を没収されてしまう。
 謀反の容疑で潰される……慌てた藤原頼長は崇徳天皇を担ぎ、味方になってくれる人たちに声をかけて兵団を集めたが、しかしなかなか思うように強い兵士は集まらず。
 そうこうしているうちに潜伏先である白河北殿が平清盛・源義朝率いる数百人におよぶ軍勢に攻め込まれ、7月14日自害してこの世を去る。享年37歳であった。この戦いが教科書にも載っている「保元の乱」である。

 激動の人生を生きてきた藤原頼長であるが、彼が書いてきた日記『台記』には当時のことが様々に描かれているのだが、今回取り上げるのは、その日記の中でも「男色」のところ。判明している範囲でも、公家の中でも藤原忠雅、藤原為通、藤原公能、藤原隆季、藤原家明、藤原成親、源成雅の名前が確定しているが、他にも武士や稚児……とにかく結構な男性と性的関係を持っていた。それも、ただ男色を嗜んでいた……というだけではなく、「出世」にも大いに役立てていたらしい話もある。

 『古事談』には源長李(ながすえ)について「長李は宇治殿の若気(にやけ)なり」と書かれている。
 若気というのは「ニヤニヤ笑っている」というような意味で、この当時、男は人前で笑うものじゃない……という価値観だったので、やたらと微笑む男は「女っぽい」と言われ、女っぽい男は男の相手をする――つまり「男色」をする人のことを「若気」といっていた。
 源長李の男色の相手は藤原頼長。藤原頼長は源長李を元服する年を過ぎても少年の格好をさせていたので、源長李は「大童(おおわらわ)」なんて呼ばれるようになってしまう。「大童」の意味は文字通り「大きくなった童」のこと。
(「大わらわ」の語源となっている)
 藤原頼朝は源長李にいつまでも少年の格好をさせて、性的関係を持っていた。この話についていろいろ言われているけど(時代的な要因とかなんとか)、単純に「ショタ愛」だったんじゃないか……と私は考える。

 藤原頼長は源長李という愛人がいたが、同じく公卿である藤原忠雅と性的関係を結ぶ。これが1142年頃の話……とあるので藤原頼長が22歳、藤原忠雅が19歳の時だ。
 さらに藤原頼長は「次の相手」と目を付けたのが藤原隆李。なんと藤原忠雅のいとこである。藤原頼長はただ気ままに男色の相手を近場で求めていたのではなく、こうやって性的関係を結ぶことで自分の味方を増やし、さらに出世の足がかりにもしていたらしい。男と関係を持ち、出世したら次の男を……という感じで藤原頼長は「枕営業」でどんどん出世していった。
(もしも『島耕作』の「平安時代編」とかがあったら、島耕作は次々に男と関係を持つ……という話になるだろう)

 他にも藤原頼長はいろんな男性と関係を持っていて、妻の兄である藤原公能とも性的関係を持っている。ここまでくると「手当たり次第」である。
 しかも出てくる人物がことごとく「藤原」なので、いったい誰なのか、いつ頃の話なのか、今回の話をまとめるにあたりWikipediaを見ながら確認しているのだが、誰が誰なのかわからなくなってくる。しかも人物が多い! 藤原頼長はいったいどれだけの藤原さんと関係を持ったのか……。出てくる人物1人1人確認を取っているのだが、みんな「藤原」なので親族なのかそうでないのかわからなくなってくる。

 今の時代だと「硬派な男」といえば女遊びなんかしない。「軟派な男」といえばその反対……みたいに考えられているが、昔は言葉の意味が違っていた。「硬派」とは「年下の男」を恋愛対象にする男のことで、「軟派」といえば女を恋愛対象にする男のことだった。恋愛といえば「男女関係」でするもの……と現代人の我々は思い込んでいるが、明治以前までは「男同士で」というのが普通に選択肢としてあった。
 そういう価値観が明治頃まであって、顔のいい男はよく男に言い寄られていた……みたいな話がある。
 今回のお話し、たくさんの藤原さんが出てくるのだが、基本的に全員妻子持ち。それでも男同士関係を持っていた。平安時代まで遡ると男色は珍しいものではなく、今みたいに差別的に言われることもなく、普通のことだったが、妻子ある男が別の男と性的関係を持つ……このことに「背徳感」のようなものがあったのかどうかはよくわからない。(妻子持ちの男がみんな男と性的関係を持っているので、そこにタブーはなかったのは確実にいえる)
 ただ平安時代は男同士の性的関係はかなり複雑かつただれていて、藤原隆李の父親・藤原家成は鳥羽上皇の愛人、さらにその父親・藤原家保は後白河法皇の愛人だった。藤原隆李の一族は数代にわたり天皇家の愛人……というトンデモない一族だった。そんな一族と関係を持つことで、藤原頼長は地位を得ようとしたわけである。
(キリスト教国の人たちが知ったら発狂しそうだ)

 では女はどうしていたのかというと、だいたい家で待機して、男を迎えていた。誰でも女の待つ家に訪ねていって、家に上げてもらえば「セックスOK」ということになるのだけど、実際はそこまで行くのになかなか大変だった……というのがある。まず女の側が「気に入らん」といったら門前払いできる。
 なんだったら「私とセックスしたいんだったら100晩通って誠意を見せろ」……なんてこともできたし、実際に小野小町はやった。
 家に上げてもらって一発やった後でも、すぐに結婚……というわけにはいかず、女の家に「文」つまりラブレターを送らなければならない。これが「仮名文字」で送らなければいけないのだけど、当時の仮名文字は「女文字」。「男なのに女文字なんてやってらねーよ」という感覚があって、一方の女の方は「仮名文字もわからないような男は相手にしない」という感覚があって、それで仮名文字を書ける誰かに代筆を頼んだりしていたという。
 家に上げてもらって一発やったけれども、それ以降通わず……という男も当時けっこういた、というのはこの面倒くささからだった。
 そんな感じで苦労して結婚しても、貴族の女となると夫婦の関係になっても普段は簾の向こう……結婚したけど妻の顔がよくわからない、というのが当時あった話。夜になると簾に向こう側に入ることが許されてセックスするのだけど、その時はロウソクの明かり1本だから顔がよくわからない。オッパイってどんな感じ? ってのもよくわからない。

 そこで男同士のほうが相手の顔がわかるし、関係も密に取れるから、親密になりやすいし、そこから一歩進んで性的関係を持つ……というのもこの時代は変な話ではなかったそうだ。さらに出世の足がかりにするために熱心に男同士性的関係を持つ……ということもあったといえばあったらしい。

 歴史をよく理解していないフェミニストが「昔は女の権利はなく、男にされるがままだった」みたいによく言うが、実情はまったく違ったというのがわかる。女だって権力を持っていて男を拒否する権利を持っていたから、「女は男に言い寄られたら断れない」なんて話はなかった。それどころか、女そっちのけで男同士関係をもちまくっていた。

 藤原頼長の日記・台記にはいろいろな話が載っていて、例えば1143(康治2)年2月5日には次のように書かれている。

良久言談、有濫吹、人不知

 ……まあなにが書かれているのかわからんよね。この時代は男の文字と言えば漢字。漢字が正統派の文字だから「真名」。ひらがなが「仮名」と呼ばれていたのはそういう理由。藤原頼長はこの時代の男性だったから、日記も当たり前のように漢語で書かれていた。
 ではなんて書いてあるのだろうか? 上から順番に見てみよう。
 「良久」は「やや久しく」と読むが「人(男)がやって来た」という意味。「言談」は「人と話す」。だから最初の4文字は「やってきた人としばらく話をした」となる。
 次の「濫吹」は「濫」が「やたら」という意味で、「吹」はそのまま「吹く」という意味。直訳すると「やたらと笛を吹きまくった」となる。
 その次が「人不知」は「人知れず」つまり「人に知られぬように」となる。
 シチュエーションは夜で、「やってきた人(男)と話していて、その後、人に知られぬように、やたらと笛を吹きまくった」……現代語に翻訳するとこうなるが、なにかおかしい。「人に知られぬように」「やたらと笛を吹きまくった」は意味が矛盾する。古文学者も「なんじゃこれ?」と思う文章だ。
 「笛を吹く」というのがおかしい。「笛を吹く」とはなんのことであろうか。そういえば、男の股間には、形状が「笛」っぽくなるものがあるぞ。そういえば口でいたすことを「尺八」という言い回しが昔からある。
 まだわからない……という人もいるだろうから、ズバリ書くと「フェラチオ」のことである。だからここは「男としばらく話して、その後、人に知られないよう男のティンコでフェラチオをした」……という意味になる。

 これがこの時代の日本語表現。なんでこう回りくどくなっているのかというと、直接的に「セックス」やその内実を表現することができなかった。だからこの時代の文字表現で「セックス」そのものは描写されず、「目と目が逢ったら」「男と女が部屋に入ったら」それだけでセックスを意味する……ということになった。

 平安時代の性事情の話を調べてるとこんな話が出てきたので、今回取り上げてみた。もしかしたら藤原頼長は単に傾向として女より男が好き……という感覚があって、それで次から次へと男に手を出していた……という話だったかも知れない。出世のために次々に男と関係を持っていた……という人が他にいたかどうかもよくわからない。とにかくもこの時代、枕営業は男同士でするものだった。
もう一つ。最近はLGBT運動が盛んで、西洋では昔から同性愛者は迫害されてきたというが……。これは正しい。確かに西洋では同性愛者は忌み嫌われ、同性愛者というだけで撲殺されたし、同性愛は治療可能なものと考えられていたから精神病院に送られることもあった。
 しかし日本ではそんなことはない。活動家たちは「日本でも昔から同性愛者は迫害されてきた」というが、それは歴史の勉強をしていない。日本で同性愛者が迫害されていた時代などない。あるとしたら明治以降、西洋思想を取り入れたことによって同性愛忌避の意識も輸入されたが、それでも歴史的に見ると「最近」の話だし、同性愛者というだけで撲殺された……というような西洋で聞くような話もない。
 そもそもどうしてLGBT運動なるものが生まれたのか、というと西洋においてノーマル以外の性が弾圧の対象だったから(それこそ「撲殺される」とか本当にあった)。その歴史に対する大きな反発・カウンターがあって、LGBT運動なるものが生まれた。そのあたりの歴史的経緯を考えず、日本はインテリ層ほど、「西洋でやっているから日本でも」と慌てて取り入れようとする。日本でもそういう差別があるとしたら西洋を取り入れた結果でしかないので、だったら日本的な解決法はごくシンプルだ。「明治以前の日本に戻ろう」――これだけで良い。
 西洋と同じ思想や法律がなければ「遅れている」ということにはならない。西洋は自分たち基準で、「日本は遅れている」とか言ってくる。しかしそもそも文化観が違うんだから、そこに倣う必要はない。日本には日本の文化があって、日本独自の解決法がある。日本人は西洋ではなく、日本そのものに目を向けるべきだ。それに、LGBTに関する話はどう見ても日本が世界に先んじている。ここまで同性愛に寛容だった国は、西洋にないわけだから。

 平安時代の同性愛の話は、現代からすればビックリするような話。……でも私の見立てでは、男って誰もが同性愛傾向って潜在的にあるって気がするんだ。ただその感覚を自分でも気がつかないように押し殺していた……。それが最近になって、やたらと「男の娘」ってのがもてはやされるようになったけど、男による潜在的な男色欲望が解放された瞬間なんじゃないかな……という気がしている。
 そういうところでも、日本人は自分たちの「本質」に少しずつ立ち返っているのかな


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