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映画感想 ゴジラ キング・オブ・モンスターズ

 2019年公開の『キング・オブ・モンスターズ』は、2014年に公開された『レジェンダリー:ゴジラ』と呼ばれる作品の続編に当たる。作中の時間でも、およそ5年経過していることになっており、現実の時間とリンクしている。
 この作品を持って、レジェンダリーは当初から計画していた『ゴジラ』や『キングコング』を一つのスクリーンの中に集結するクロスオーバーもの、モンスターバース映画を本格的にスタートさせた。モンスターバース計画はその以前からあったが、本格的にそのスタートを切るのはこの作品からだ。

 とりあえず、本編ストーリーを見ていくとしましょう。
 5年前のサンフランシスコを舞台としたゴジラVSムートー戦は、多くの被害を後に残すことになった。動物学者マークとモナーク科学者エマ夫妻はこの混乱の最中息子を喪い、以降夫婦の関係は怪しくなっていた。
 エマはその後、怪獣と交流・対話するための装置オルカを研究し、これを完成させる。この装置でモスラの幼虫との交信に成功する。だがその直後、環境テロリスト達が突撃してきて、エマとその娘マディソンは拉致され、オルカも一緒に持ち去れてしまう。
 エマとマディソン母娘が連れて行かれたのは、南極――ギドラが眠る場所だった。

 ここまでのエピソードで25分。

 エマの夫、マークは妻が誘拐されたことを知り、モナーク達とともに救出作戦に乗り出す。南極へ行き、助け出そうとするが、エマはその夫の前で、ギドラを復活させてしまう。
 ギドラ復活のその前に現れたのがゴジラ。ゴジラはギドラに戦いを挑むが、敗北し海の中へ沈んでしまう。

 ここまでのエピソードで45分。

 次の15分ほどで、実はエマが環境テロリスト側にすでに寝返っていた……ということが明らかになる。

 この前半1時間ほどの内容で、ゴジラ、モスラ、キングギドラの3体が登場し、バトルロワイヤルが始まる切っ掛けが作られている。これまでの怪獣映画は映画一本につき、怪獣1体~2体。その枠が一気に拡大した大スケールが展開されているワクワク感のある内容だ。
 が、本作『キング・オブ・モンスターズ』の話に入る前に、ちょっと脇に逸れたお話をしよう。

 アメリカのプロデューサーにヘンリー・G・サパスタインと呼ばれる男がいる。サパスタインは版権ビジネスの先駆的存在で、1950年代にはエルヴィス・プレスリーと契約し、Tシャツや靴、ブレスレットなど様々なエルヴィスグッズを制作し、大ヒットをもたらした。その他にも『ディック・トレイシー』、『ロイ・ロジャーズ』、『ワイアット・ロープ』、『ローン・レンジャー』、『名犬ラッシー』など、様々な権利を買い、グッズ販売を通して巨額の儲けを生み出したことで知られる。
 そんなサパスタインが『ゴジラ』の存在に気付いたのは1960年代だった。当時のロサンジェルスには日系人向けの東宝映画館があり、そこで『ゴジラ』を観たのだ。その頃はSFがお金になると言われ始めた時代で、テレビ局が放送できるSF映画を求めていた。そこで調べると、アメリカ以外で良質のSFを作っている会社は世界にも2つだけ。イギリスのハマー・プロと、もう一つが日本の東宝だった。それでサパスタインは東宝が製作する『ゴジラ』がどんな作品か、偵察に映画館へ観に行き――魅了された。
 サパスタインはすぐさま東宝と交渉し、ゴジラの版権を得ようとした。サパスタインは東宝に、「ゴジラは世界的な市場で勝負ができる」と助言した。ただし、映画のストーリーは変える。

 当時の海外市場でよくあることだが、日本で作られた作品がそのまま海外へ渡り、放送ないし上映されることはまずない。アニメも多くの改変やオリジナル要素が追加され、まったくの別ストーリーになっていた。だからアメリカ人の考える『マクロス』や『ヤマト』も日本人が考えているものと全くの別物である。
(これが映像化する時、一つ問題になるポイントだ。アメリカ人が思っている『マクロス』や『ヤマト』は日本のものと別作品だからだ。どっちのバージョンを尊重するか……という問題が生じる)
 特撮物では、制作が大変な特撮シーンを除いて多くのシーンが変更された。『ゴジラ』もその例外ではなく、アメリカ特有の改変が加えられることになる。大きな変更点が、原発に対するモチーフである。
(だからアメリカ人は『ゴジラ』といえば英語を喋る日本人と、売れない俳優がゲスト出演する映画……という認識だった。そしてやたらドクターペッパーを飲む! なぜなら、アメリカ『ゴジラ』のスポンサーはドクターペッパーだったからだ)
 日本におけるゴジラは原発であったり大災害のメタファー的な存在であったが、アメリカ版ゴジラは最初からその要素はなかった。アメリカ人はそんなメタファーだとかそういった難しい話は理解できない。だからゴジラを西部劇的なヒーローとして描く……という方針が最初からあった。悪い怪獣がやってきて、ゴジラがそれを退治して人々を救う。黒澤映画の浪人のような存在として描かれていた。

 サパスタインはローランド・エメリッヒ『GODZILLA』を最後に『ゴジラ』の権利を手放し、以降関わっていない。というか、『GODZILLA』が公開された年である1998年にこの世を去っている。
 それで、『ゴジラ』はサパスタインの呪縛から解放されたのか……というとそうではないと考えている。というのも2014年ギャレス・エドワーズ監督『ゴジラ』もはっきりとサパスタインのスタイルで描かれている。ムートーという悪い怪獣が登場し、ゴジラが目覚めてこれを退治すると、颯爽と海へと帰っていく……。まるで黒澤映画に登場してくる浪人のような描かれ方をしていた。
 確かに冒頭のシーンで原発を示唆する場面もあったものの、原発のモチーフはそれ以上に徹底されず、中心となったのはムートーとの戦いと、その戦いに勝利して去ってくゴジラの後ろ姿だった。でもこれがアメリカ流のゴジラなのだ。アメリカ人が「これこそゴジラ」と認識するゴジラがあれなのだ。

 という余談から本編に戻るとしよう。

 前半1時間の展開についてだが、観ているとどうしてもスケールの大きさを感じない。妙に小さいところで、情報のやり取りをしているな……という感じがしてしまう。
 Netflixで観ていたわけだが、スクロールバーをずーっと動かしてみても、最初の1時間くらいは出てくる絵面がほとんど一緒……。狭い空間の中での対話がただひたすら続き、シーンが展開している感じがぜんぜんない。これが漠然と観ていても「お話が進んでいる」と感じさせない原因となっている。展開が重く感じる原因となっている。
 『キング・オブ・モンスターズ』はモナークと環境テロリストとが対立する話で、二つの勢力が入れ替わりながらお話が進行するのだが、映像を見ても絵面の差がほとんどないので、観ていてもどっち側勢力の画なのかわかりづらい。どっちを観ても似たような閉鎖的な画ばかりでわかりづらいし、面白味のない画になってしまっている。

 結局はとある親子のお話――怪獣映画であるが、観ている側にとってももっとも親しみやすいフックを置いている。こういったアプローチは前作のギャレス版『ゴジラ』も同様だ。だが手際の良し悪しでいうと圧倒的にギャレス・エドワーズ監督に軍配が上がる。ギャレス版『ゴジラ』は一つの家族を通して、大災害の脅威を目の当たりにし、その体験を通して『ゴジラ』がどういったものかが心情的に描かれていた。こういった描き方をすると感情移入しやすく観ることができる。
 だが『キング・オブ・モンスターズ』のまずいところは、別にあの家族が中心にいなくても、ほとんど勝手に物語が進んでしまっていること。「オルカ」というキーアイテムがあるけれど、そのアイテムをあの親子が使う必要がない。なにしろ子供でも操作できるようなシロモノだし。映画が家族の視点を通じて描かれていないし、特に感情移入せずともお話に問題がないように描かれてしまっている。

 映画の前半戦1時間で、実はエマが環境テロリスト側だった……というツイストがあるのだが、その理由というのが、ありきたりな「人間こそ地球にとってのウイルスなのだ」という説明。こういう話、何度目だ。「人間こそが害悪」といって世界中を混乱に陥れながらも、自分たちだけは助かろうとシェルターにこもる腰抜けっぷりも手前勝手感しか見えてこない。
 こういう展開、こういうお話はそれこそ過去の映画で何度も描かれてきたものなので、意外性がまったくない。5年前、ゴジラによって息子を喪った母親が辿り着いた結論としての蓋然性もない。こういう場面を描くなら、過去の映画に提唱されていない、かつ納得できる思想を用意してこなければならない。ありきたりな理由を描くと、「その程度の作品」と見なされる。思想が見えてきたら、それだけ映画の価値は上がる。それが見えてこなかったというのがこの作品の惜しいところだ。

 後半1時間に入り、いよいよ怪獣同士のバトルロワイヤルが始まる。世界中各地で怪獣が目覚め、集結してくる。オリジナルモンスターも登場する。
 この戦いのシーン、近代兵器と怪獣の対比が魅力的に描かれている。近代兵器との戦いがあるから、怪獣がいかに恐ろしいか、圧倒されるような存在であるかが見えてくる。ラドンが戦闘機を追跡し、一機ずつ撃墜していくシーンは非常に良かった。ああいうふうに描くと、怪獣の脅威が見えてくる。

 でも他に良かったシーンを挙げろというと難しい。ゴジラ、ギドラ、ラドンの戦いになるけど、どうにも気分が乗らない。上滑りしている感じがある。その足下では、娘を救おうとする両親の奮闘が描かれている。この二つの視点がどうしても噛み合わない。親子のドラマがゴジラの戦いのドラマから乖離してしまっている。そこでどうしても、お互い勝手にやっている感じが出て、映像はしっかり作られているのに気持ちがこもらない、盛り上がらないバトルシーンになってしまっている。

 そしてやはり感じるのは、やっぱりアメリカのゴジラはサパスタインのゴジラだ……ということ。宿敵となる怪獣が登場し、追い詰められるけど、その最後に逆転して勝つ……という流れが描かれる。人類の脅威を取り除き、最後には「あばよ」と言いたげな背中を見せて去って行く。
 そもそもあのゴジラが人間の側……というのも何か違和感がある。そういうのは『ガメラ』の役割という気がする。でも浪人としての描き方がアメリカ流だから仕方ない。
 それにこれはプロレスだ。超重量級のプロレス。人類? そんなの知ったこっちゃない、で暴れ回る超重量級のプロレスだ。登場してくるのは全員人類にとってのヒール。でもその中でゴジラだけが比較的良い奴。ゴジラも迷惑なやつだけど、どちらかといえばゴジラ勝ってくれ……みたいな感じ。

 それで、私の感想文は全体的に映画に対して否定的な語り方をしているが、決して駄目な映画ではない。ゴジラの戦いによって廃墟になっていく都市の風景は非常によくできている。CGデザイナーは懸命に頑張っている。モンスター達のプロレス描写自体が悪いわけではない。ただその背景になる家族の物語が余計に見えるだけだ。
 だからもういっそ、人間のお話なんかどうでもいいから、モンスター同士のプロレスに徹してほしいな……という気がしている。人間の物語が、台詞を語らないモンスター達の内面をきちんと代弁してくれていたら、あったほうがいい、というのは間違いないけども。


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