移ろいゆくということ
海を眺めながらぼーっとするのがすき。
水面や波、木々、空、風が移ろう姿は美しい。
私は外界の変化に弱い。ただ、自然が移ろう姿は美しく癒やされ、安心する。
自然の変化を受け入れられる自分に安心する。
人も日々変化するのに、どうしても受け入れられないときがある。
心では受け入れられていないのに、どうにか頭で受け入れてその状況に対処することを優先させ、どんどん心が置いてけぼりになってしまう。
心から遠ざかっていることはわかってはいるのに、立ち止まったり振り返ってしまうと、崩壊して進めなくなってしまうことを恐れてしまい、できない。
崩壊しそうだ、というなんとなくの予感をずっと引き連れてひたすら進んでしまう。
わかっているからこそ、止まれないのだと思う。
今、私は強制的に止まった状態にいる。
強制的、というよりは、ずっとポロポロと崩壊していたのが、一気に崩れたというのが正しい。
前だけを見据えて、後ろを振り向かず、立ち止まらずにがんばってきた報いとして、心身の体調を崩し、適応障害という自分自身と向き合う期間を授かった。
自分自身を大切に扱うのはすごく難しい。
誰かの為なら動けるのに、自分のためだけの行動が本当に面倒で、行わないことが甘えとして成立し、いつからかそのことでしか甘えられなくなってしまった。
風呂やシャワーは大事な用事か限界までしない。
自分のためだけの料理はせず、買い出しもせず、おおよそ調理とは言えない、家にある適当な菓子や食べ物を腹に入れる。
がんばらない。ひたすらに何もしたくない。これ以上動かない。それが自分の欲求だと思っていた。
いつから、自分のやりたいようにやること、甘えることが、自分を蔑ろにすることになってしまったのだろう。
立ち止まったいま、自分を蔑ろにせずに、自分の心を満たすことの重要性に気がつく。
海が見たい。
窓を開けた部屋かテラスから海を眺め、鳥の声や波、木々の音を聞きながら、穏やかに移ろう景色が見たい。何もせずとも、そこにあるだけでただ美しく尊いものに囲まれたい。自分もその一部になりたい。それを自分自身に許し、認めたい。
人間社会から離れて自然の一部に帰属する時間が私には必要なのだと思う。
旅でなくとも、大きい公園や川の堤防沿いでもいい。
何かをしに行くのではなく、何もせずただいるだけでいい。
それを自分自身がナチュラルにできるようになれば、すごい変化だと思う。
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