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(6)ママチャリに乗って氷室冴子のコバルト文庫を探しに。は当初の想定を逸れながら文藝別冊氷室冴子(河出書房新社)に至る①。東宝的キャスティングを含有した致死量に近い「鈴木敏夫まるだし」が嫌いなだけ、それだけなんだ。ってぶすぶすした気持ちは燻しつつ。

 まあジブリ画像の想像の範囲内で版権フリーは使い勝手が
あるにせよ、あたしゃ基本的に東宝的キャスティングを含有
した致死量に近い「鈴木敏夫まるだし」が嫌いなだけ、
それだけなんだ。

 それでもどうにか岩を動かして安全資産の運用に向かった
と観るのが一例ではあるのね。

日本テレビ、宮崎吾朗さん後継拒否のおかげでスタジオ
ジブリの買収に成功 : 市況かぶ全力2階建

特に鈴木敏夫編集長時代から「アニメージュ」を購入して
いた世代としては、まあセンシティブになりやすいので。

まあ今宵のテーマとは『海がきこえる』あたりでクロスも
するでしょうから、まあ余地は残しつつ、今宵のメインテーマ
はこちら。


ま、文藝別冊氷室冴子は手にしたので、これで何本か
テイストとベクトルを定めて書けない、ってワケもない
っちゃないか。

 ってこたつ机の上に放っていたところから、自分が
欲するような文章を起き抜けで引っ張ってみる。

「X年後の関係者たち」の出来がいいと、氷室冴子の話を呼び
寄せてしまうのだろうか。じゃあひとまずは『ざ・ちぇんじ!』の
入口ってことで。江戸的なトコで削除されたコメントを、長崎的に
救済しつつ。~ママチャリに乗って氷室冴子のコバルト文庫を
探しに(5)。|torov

 まあやっぱりヒモは全然縁がなかったけど、副社は
やはり映画の縁があったから、選考委員を引き受けたことも
あって氷室冴子と縁が出来たわけね。

氷室冴子さんの故郷岩見沢市とは映画「ぶどうのなみだ」
(二〇一四年公開/三島有紀子監督、大泉洋主演)の撮影
で大変お世話になり、それ以来お仕事やプライベートでも
訪れる機会が多く、このたびこの文学賞の映えある第一回目
の選考委員を甚だ僭越ながらお引き受けさせていただきました。

文藝別冊氷室冴子「レポート 氷室冴子青春文学賞」
選考委員の選評より(抜粋)伊藤亜由美p105

因みにこれは第一回目の選評なので、講評の詳細と受賞作
はこちらのページにある、だっけ。


あと「奇想天外」組からの合流で、だから夢枕獏や新井素子
とも交流は深かった氷室冴子だけど(『Cobalt』の前身は
『小説ジュニア』で正確に言うと氷室冴子はそこの出身。
「さようならアルルカン」は『小説ジュニア』一九七七年
の新人賞佳作)、まさか新井素子とはワープロのOASYS
仲間だった、ってのが面白い。

(1)「白い少女たち」と「さよならアルルカン」
~ママチャリに乗って氷室冴子のコバルト文庫を探しに|torov

新井 最低限の家具だけ置いても手狭だし、台所も狭くて
   冷蔵庫やら何やらも置けずにそれらは茶の間にあった
   し、当時私が使っていたMy OASYSというワー
   プロ本体も大きいし、キーボードもプリンタもディス   
   クドライブも置くとそれだけで二畳分ほと占めていた
   し、本もあるしで、とにかくうちには物が多かったん
   です。

文藝別冊氷室冴子「コバルトの時代」新井素子
インタビュー・構成=山本文子[桜雲社]p077

まあこの冗長文こそが新井素子文学の本体なんで、これは
これで懐かしいんですが。

 このムックにはちゃんとその頃から氷室冴子が
使ってた親指シフトキーボードの写真もありましたが。


(4)シリーズ再開。「ライジング!」②
~ママチャリに乗って氷室冴子のコバルト文庫を探しに|torov

藤田和子の「ライジング!」回顧録も少しある。

藤田 私は高校(札幌東高校)卒業後、OLをやりながら
   マンガを描いていましたし、氷室さんは岩見沢の実家
   に住んでいたので、土曜か日曜に会っていました。
   喫茶店で六時間話をした後に、帰って便箋七、八枚に
   わたる長い手紙をやり取りして、また会って、という
   生活を送っていたところ、氷室さんがお母さんと喧嘩
   をして岩見沢を出て札幌に住み始めたんです。

文藝別冊氷室冴子「コバルトの時代」新井素子
インタビュー・構成=嵯峨景子p020

むろん、インタビュー、短編、エッセイ、対談なども
収録されている。


 『あかね』でのインタビューでは剥落しかけてたコバルト
文庫の落ち目ぶり、から反転していくあたりの様子を引き出して
語らせてるのがなかなかいいなと。

氷室 あの頃、就職口がありませんでしたから、四大の子
   って。だから書くしかないかってことで中々大変で
   したね。あの当時は、今みたいにコバルトみたいな
   若い人向けの小説って、市場としてありませんでした   
   から。

   (中略)

   あの富島[健夫(たけお)]さんみたいなHっぽい
   小説とかね、あれも基本的に昭和四十年代のものです
   から。五十年代入ったらもう完全に廃れてて。

一九九二年氷室冴子インタビュー
『あかね』第三十八号,1993
インタビュー・構成=あかね委員
文藝別冊氷室冴子p010

時代区分としてはまんがや小説の読まれ方が大きく変化した
年代で間にオイル・ショックが入るからまんがはドラスティックに
うねりが来るけど、ジュニア小説は構って貰える余地がなかなかなく、
低価格帯で刊行できる既存のコバルト文庫などをリリースすることで、
コミュニティが形成できる程度のちょっとしたメディアが出来るまで
には1980年代にならないと、まだキツい。

(2)「蕨ヶ丘物語」と「少女小説家は死なない!」
~ママチャリに乗って氷室冴子のコバルト文庫を探しに|torov

 コミカライズが念頭に入るのはだから自然な流れで、あの当初は
少女コミックが少年も見るほどには成熟してきてた、ってのもある。
(そこが行き過ぎて短編ばかりにもなり、コミックエッセイと少年誌や
青年誌へ流入、メインストリームは「週刊少年ジャンプへの一極化」
(週刊マーガレットが月2回刊に変更されたのは1988年)、って形で
離散していくのがその後の大まかな流れでもある)

氷室 私『コバルト』の前の『小説ジュニア』とか知って
   ますから、落ち目の。今は大分、状況変わってます
   よね。本当に、あの頃小説で食べていけるって思わ
   なかったから、漫画家の友達(藤田和子)から原作
   の話を貰って。「そうだ、こうして仕事しながら
   小説書いていこう」って思ったんですよね。
’ーーそれで、『ライジング!』を?
氷室 そうそう。ところが、それが終わる頃にはちゃんと
   食べていけそうな状況になったんですね。世の中
   わからないなぁって思いましたね。

一九九二年氷室冴子インタビュー
『あかね』第三十八号,1993
インタビュー・構成=あかね委員
文藝別冊氷室冴子p010

ってことで多分に多角的な視座を含んだ文藝別冊氷室冴子
(河出書房新社)に至る①はこのあたりで。
多分続編もあるなと。


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