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モダニズム建築の表現について覚書 01

ここでいう建築表現については私の現在たてている仮説のメモのようなものであり、これを元にいろんな人と議論したりして認識を深めていきたいと考えている。近代建築について語るけども、ここではバウハウスに賛同し、バウハウスこそが近代建築の礎であるとする立場をとる。建築家の立場として建築はやはり美意識、哲学の空間的な表現であると言いたい。つまり、巷で言われるような機能性とデザイン性の対立といったようなものではなく、という意味で。そもそもデザインと機能は対立や相和などの相関関係にはなく、それぞれが独立した事象である。機能的であるかどうかということとデザインは無関係だ。

機能的なものが美しいのだというような機能美ということが近代建築の標語であるとよく言われている。しかしそれはカントによるところでは善であり美ではない。美はもっと経験に先立つ人間精神の根源的なものであるという。そもそもバウハウスは機能主義の立場をとっていない。アーツアンドクラフトの流れから工業製品にあるべきふさわしい表現があるのではないかというところから始まっている。
機能については後々に機能美なるものの考え方については、カントの判断力批判をベースに批判的に書いてこのことを掘り下げてみようと思う。

・建築家の職能

建築家の職能とはなにか。端的にいうと空間の質としてのデザインに責任を負うというというものだと私は考えている。より芸術に近いような表現領域にある。建築家のデザインがなくても、構造と設備のエンジニアやコンストラクター等の建築を立てるのに関わる技術者は建築家のデザインがなくても建築を設計するだけの能力がある。エンジニアだって最低限機能的な平面図はかけるし、それぞれの立場で理想を持って設計することはできる。デザインははっきり言って機能を満たす建築が物理的に建つということに関して一切の必要性はない。

つまり建築家は必要だから存在するわけではなく、その点において芸術や文学に近い位置にいると言える。そして建築家が責任を持つ美について言えばそれは必要なのではなく、それそのものが目的であり、だからこそ人間の精神そのものを反映したものである。人間は目的のために利用されるものではない。

・近代建築とは

カントは判断力批判の第一部 第一篇 第一章の十四でこんな事を書いている
「装飾(Parerga 付加物)と呼ばれているものー換言すれば、対象の完全な表象に本来の構成要素として内的に属するのではなくて、単なる付加物として外的にのみ属し、しかも趣味における適意を増大すると称せられているところのものすら、実は対象の形式によってのみこのことをなし得るのである、例えば絵画の額縁や立像の衣紋、或は殿堂の柱列回廊などがこれである。」

近代建築とは封建的な権力の誇示する装飾や、形式化した伝統的な様式から建築を解放し、純粋に空間の質を精神の自由さでもって追求する流れである。それが空間の表現であり、権力の誇示や、形式化された伝統は空間の質の本質ではないとして削ぎ落とされていった。ここで削ぎ落とされたものの典型が装飾である。

ここでいう空間の質とは、抽象的な哲学世界や思想の表現である。例えばミースはプレゼンテーションを見ると、ユークリッド幾何学の無限の奥行きを意識したような表現をしている(Mies Van der Rohe montage collageという本を是非参照してほしい)。数学は哲学であるのでこれは空間の質の表現である。現在教えられているような、ユニバーサルスペースや、近代建築5原則、機能などといったことは空間の美の本質ではない。また、現実世界の社会問題など、具象的な問題の解決や反映は建築家の仕事ではない。

近代において建築家は、時代の中にある抽象的な哲学の表現を命題にしている。結論として近代建築とはつまりコンセプト、理念の空間表現である。
モダニズムが建築の表現を素朴実在論的な具象的な問題から解放し自由な精神の表現の芸術へと高めたが、しかし、近代建築を深く理解せず表面の形式を追うことで様式化され、近代建築が腐敗していった。そしてコンセプト、理念の意味が、抽象的な哲学から、現実世界の問題へとずれていった。ここでは近代建築ののっぺりとした装飾のなさを装飾として扱っており装飾の建築へと退行している。これは近代建築というパラダイムが行き先を失った危機である。

・近代建築への批判

近代建築は白い箱で、普遍性を狙い抽象的すぎて、生の人間の営みや地域性が欠けており、それに対して地域を象徴する装飾、又はアクティビティや人との繋がりなどをデザインするということが10年以上前から流行していた。
しかしこれは近代建築が手に入れた抽象表現を忘れ、現実世界の問題へとずれていくことによる危機そのものであり、全く批判できていない。それこそが近代建築が自由な表現を手に入れた時に否定した、空間の質に寄与しない具象的な問題であり、近代建築が乗り越えてきたことへの退行である。人の営みや伝統を復権したいのなら、その様式ではなく哲学を表現するべきである。少なくとも伝統的な価値観の本質を近代建築は否定していない。

近代建築を乗り越えるパラダイムシフトはどこにあるのか。それは今のところAIによってもたらされるのではないかと考えている。建築家の作家性の意義を積極的に否定したところにある気がしている。これについては別の記事で書こうと思う。

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