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豊臣秀吉と竹中半兵衛|なぜ信長・秀吉・家康のもとに“優秀な人材”が集まったのか?【戦国三英傑の採用力】

「人手不足」と「人材不足」は違うという。

“人手”不足は単に働き手が足りない状態をいい、“人材”不足はスキル(能力・技能・資格)が必要な状況にもかかわらず、それらを持つ者がいない状態を指した。
前者は量的な問題で、後者は質的な問題だ。

コロナ禍以前は“人手”不足が全国的に注目されていたが、コロナ禍以降、激動する経営環境の中、思い切った事業再構築などに挑戦する“人材”不足も浮き彫りになってきた。

戦国という激動の時代、武将たちは権謀術数の限りを尽くして覇権を争ったが、この激戦を制するカギは武勇のみならず知略に通じた“有能な武士”をいかに獲得し、定着させ、起用するかだった。

人材こそがすべて――これは現在も昔も変わらない。

戦国三英傑と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のもとに、なぜ“優秀な人材”が集まったのか?
彼らを支えた重臣を中心にみていきたい。


「人材を育成できない上司は部下に慕われていない」

深刻な「人材不足」が叫ばれるなか、苦労して獲得した人材が育成の過程であっさり辞めていく。
このような問題に頭を抱える企業は多い。

――時間も費用もかけて採用を決めた人材だった。
面接時から自社のビジョンを説いてきた。反応は悪くなかった。
入社後の研修でも熱心に耳を傾けていた。職場の雰囲気にも馴染んでいるようにみえた。
そう思っていた矢先の退職願い・・・。
(なぜだ)

 周囲は言う。
「アイツは人材を育てられる器ではないのだ」
(ふざけるな)

こんな光景が、いまもどこかで繰り返されている。

ただ、織田信長(1534~82)、豊臣秀吉(1537~98)、徳川家康(1543~1616)の“戦国三英傑”であれば、それを見て上司の監督責任を追及したうえで、こう断言したはずだ。
「人材を育成できない上司は部下に慕われていない」

そして彼らは、家臣を育てられる主君の前提として、まずは“自らが部下に信頼されなければならない”と説く。

上司は部下に対して、自社のビジョンを咀嚼して自分の言葉で語り、自らの行動をもって示さなければならない。それを実践してこそ部下は上司を信頼し、慕うようにもなる。

「この人が言うならば――」
この関係を築いてはじめて部下に上司から“学ぼうとする心”が芽生える。
ここにようやく人材育成がスタートする。

――そもそも自分は自社のビジョンを共有しているか?
いま一度、自省する必要があるかもしれない。

「城を明け渡せば美濃半国を与える」

人材を獲得・育成する目的は、人材を事業に結集して適材適所に配置し、一丸となって所期の目的を達成することにある。

この点において、“三英傑”のなかで抜群の才を発揮したのが秀吉だ。
秀吉の天下統一事業を支えるために、多くの人材が歴史の表舞台に登場する。

なかでも竹中半兵衛(1544~1579)は、浅井・朝倉攻めから中国征伐にかけて秀吉を支え、織田家における秀吉の席次を柴田勝家(1522?~1583)、丹羽長秀(1535~1585)、佐久間信盛(1527?~1581)、滝川一益(1525~1586)、明智光秀(1516?~1582)に次いで6位に押し上げた。

ここで注目すべきは、半兵衛の戦略手腕は秀吉より勝っていたという事実だ。

半兵衛が天下にその名を轟かせたのは、永禄7年(1564)に主君・斎藤龍興の稲葉山城攻略だ。難攻不落を謳われた堅城を、彼はわずか17、8人の手勢であっさりと奪い取った。

半兵衛は言う。
「城の堅固などは迷信のようなもの。つけ入るべきはその油断だ」

彼は城内にあった弟の見舞いと称し、武器を隠して城内に侵入。難なく稲葉山城を手中に収めると、城外から兵を引き入れて防衛を固めた。

そうした半兵衛に惚れたのが、当時、美濃攻略中だった信長だ。
「城を明け渡せば美濃半国を与える」

このとき半兵衛は拒絶する。彼はクーデターにより主家・斎藤家を覆そうとしていたのだ。

しかし、半兵衛のもとへ馳せ参じる美濃の諸将は少なかった。結局、クーデターは失敗に終わる。
半兵衛は稲葉山城を奪取したものの、長期的な戦略を見誤った。
彼は思う。
(知略を駆使するだけでは限界がある。自分の能力を十分に発揮できる主君が必要だ)

やがて半兵衛は、城を龍興に返還して姿を消した。

「その知略、乱世を終わらせるために」

天下はこぞって消えた智将・竹中半兵衛の行方を追った。

このとき信長の主命により半兵衛獲得(スカウト)に動いたのが、美濃攻略戦の過程で頭角をあらわした秀吉だ。

幼少期に父と死別した秀吉は、新しく現れた父とはうまくいかず、家の銭をくすねて放浪生活を送った。10代から世間の荒波にもまれてきた彼は、他人の気心や好みを機敏に察知する能力に長けた。秀吉は相手が何を考え、何を欲しているかを的確に把握し、その意を酌んで動くことができた。

半兵衛を捜し出した秀吉は、主君・信長の〝天下布武〟という将来のビジョンを咀嚼し、自分の言葉で語る。そして彼は半兵衛が何を考え、何を欲しているかを的確に読み取る。

半兵衛にとって、天下平定をめざす織田家で自らの能力を発揮できることは大きな魅力だった。
「その知略、乱世を終わらせるために活かしてはいかがか」

秀吉には数々の死線をくぐり抜けてきた“運”、人生の岐路を見極める“勘”、人生の岐路で一か八かの大博奕を打つ“度胸”、そして何より勝利の女神を微笑ませる“愛嬌”があった。

半兵衛は主君・信長に粉骨砕身して忠勤する秀吉の姿を見て思う。
「この人が言うならば――」
永禄10年(1567)に半兵衛は織田家に転職する。

はじめ半兵衛は、居城・菩提山城(現・岐阜県不破郡垂井町)が近江との国境に近かったこともあり、近江の諸将の調略を担当したようだ。

やがて半兵衛は与力として秀吉のもとへ参陣し、軍師として活躍する。

半兵衛、官兵衛を諫める

天正元年(1573)の浅井家滅亡後、秀吉は浅井氏の遺領を拝領して北近江12万石の大名になった。

戦国時代の大名家の多くは、代々、その家に仕えてきた譜代の家臣を中心に家臣団を形成していた。
当然、一代で一国一城の主にのしあがった秀吉にそのような家臣はない。

秀吉の配下はいわば寄せ集めの烏合の衆――蜂須賀小六(正勝)、前野長康、山内一豊など、ひと癖もふた癖もある将が名を連ねていた。彼らが新参の軍師・半兵衛の指示をとすんなり受け入れるはずがない。

そのことに気づいた半兵衛は、それぞれのプライドを傷つけぬよう、その将の敷いた陣形を褒めたうえで、そっと陣形の変更をすすめたという。

天正5年(1577)10月、秀吉は主君・信長より播磨平定を命じられて姫路に入る。

ここで秀吉と半兵衛は、御着城主・小寺政職の家老・黒田官兵衛(1546~1604)を頼る。以後、半兵衛は官兵衛とともに調略を用いて播磨国の大半を織田方に帰属させていく。

そんなある日のこと。官兵衛がかつて秀吉からもらった知行を加増する誓文を手に不平を漏らした。
「いったい、いつになれば約束は果されるのか」

半兵衛はその誓文を取り上げ、火の中へ投げ入れた。
半兵衛は官兵衛に言う。
「このような紙切れがあるからこそ、不満に思うのだ」

そして半兵衛は続ける。
「おぬしは何のために戦っている? 乱世を終わらせるためではないのか? 大義を見失うな」

半兵衛自身、秀吉からもらった誓文はすべて捨て手許に残さなかった。
彼は過去の栄光や実績がときに邪気となり、人をマイナスの方向へ導くことを知っていた。

秀吉は主君・信長のビジョンを自分の言葉で半兵衛に伝え、それを共有した半兵衛は官兵衛を諫める。

寄せ集めの秀吉の配下にあって半兵衛は、家中の融和と調和を図った。
そして大きな問題になる前にトラブルの芽を摘んだ。

天正7年(1579)6月、播磨国三木城攻めの最中に半兵衛は平井山の陣所で病死する。享年36。

「半兵衛の存命中、世の中の何事においても難しいと思うことはなかった」
約10年後、天下人となった秀吉はときおり半兵衛を思い出しては、こう語ったとか。

天下人(上司)にここまで言わしめた竹中半兵衛(部下)――秀吉の配下に半兵衛がいなければ、信長の天下統一事業は順調に進まず、秀吉の天下統一も不可能だった、といわれる所以だ。 (了)

※この記事は2018年8月に【日経ビジネスオンラインSpecial】に寄稿したものを【note】用に加筆・修正したものです。

【イラスト】:月岡エイタ

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