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織田信長と滝川一益|なぜ信長・秀吉・家康のもとに“優秀な人材”が集まったのか?【戦国三英傑の採用力】

「人手不足」と「人材不足」は違うという。

“人手”不足は単に働き手が足りない状態をいい、“人材”不足はスキル(能力・技能・資格)が必要な状況にもかかわらず、それらを持つ者がいない状態を指した。
前者は量的な問題で、後者は質的な問題だ。

コロナ禍以前は“人手”不足が全国的に注目されていたが、コロナ禍以降、激動する経営環境の中、思い切った事業再構築などに挑戦する“人材”不足も浮き彫りになってきた。

戦国という激動の時代、武将たちは権謀術数の限りを尽くして覇権を争ったが、この激戦を制するカギは武勇のみならず知略に通じた“有能な武士”をいかに獲得し、定着させ、起用するかだった。

人材こそがすべて――これは現在も昔も変わらない。

戦国三英傑と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のもとに、なぜ“優秀な人材”が集まったのか?
彼らを支えた重臣を中心にみていきたい。


「なにゆえ無能な主君に尽くさねばならぬ?」

戦国時代は、家臣が主君を選ぶことができた。

のちの江戸時代では、人は生まれた環境から抜けだすことが難しくなったが、戦国の世は違う。この時代は、家臣が主君のスキルやキャパシティーを測ったうえで、その家に仕えた。

戦国の武士は、現世での栄達とその後の家の繁栄を託すに値する主君を選び、その命を的に懸ける。だから主君が期待外れで、その家がふるわないと、さっさと見限り別の家に移った。
大坂夏の陣をもって戦乱の世は終焉を迎え、“元和偃武”という泰平の世の到来とともに重宝がられた、朱子学の思想「君、君たらずといえども、臣、臣たらざるべからず(主君に徳がなく主君としての道を尽くさなくても、臣下は臣下としての道を守って忠節を尽くさなければならない)」を聞けば、彼らは嘲笑の色を浮かべただろう。

「なにゆえ無能な主君に尽くさねばならぬ?」

もちろん、逆に功なき者はその家に捨てられ、才なき者は主君に忘れ去られる。

当然だ。

さらに主君が家臣に見限られたとあっては面子がたたない。別の家に移る前に粛清することも珍しくはなかった。

「調子に乗るな」

家臣が主君を選ぶことは自由だが、主君がそれを妨害し、阻止することも自由だ。

「あの人のもとでは働きたくない」

そんな時代に、織田信長(1534~1582)は、どのように人材を獲得したのか。

信長が美濃統一後に掲げた“天下布武”という将来のビジョンは、家臣たちのモチベーションを上げるとともに、織田家の家臣だというプライドを持たせた。
その一方で、信長は“天下布武”のスローガンを掲げることで、織田家の勢いを広く諸国に誇示し、さらに腕におぼえの武辺者や知略に通じた人材を、織田家中に結集しようとしたのではなかったか。

事実、信長のもとには全国各地から牢人たちが仕官を求めてやってきた。
そんななか、信長のスカウトを断ったという、鹿島源五なる男のエピソードが伝わっている。
この男、かなり名の知れた武辺者で、信長が人を介して高禄で仕官をもちかけたが、あっさり断られた。

「あの人のもとでは、働きたくない」

おそらく信長の苛烈で冷酷な性格を知っていたのだろう。そして彼はこう続けたという。

「私は甲州の名門・武田家で働いてみたい」

武田家は、いわば法令も制度も整っており、牢人を手厚く遇すると評判になっていたようだ。
ただその頃、武田家では、主君・武田信玄(1521~1573)が中級クラスの家格にあった家臣を侍大将(家老職)に抜擢しようとしたところ、譜代の重臣たちが反対したため、その人事が沙汰やみとなっていた。

「そのような前例はありませぬ」

確かに、信玄は「合議制」を取り入れ、広く家臣の意見を聞いた。また評判どおり、牢人にも寛容な態度で接し、高禄をもって召し抱えていたようだ。が、信玄が雇用した牢人のほとんどは、牢人だけの部隊(牢人頭の率いる独立部隊)の配属となった。おそらく源五も、この部隊に組み込まれただろう。

牢人部隊は、どこの家でも最前線に立った。
当然、命を失う確率は高くなる。もちろん、そこで結果を出せば恩賞はでたが、そこまでだ。それ以上の出世は望めない。

当時、ほとんどの家では家臣の序列は決まっていた。譜代の重臣を飛び越えて、その下の家格の者、ましてや牢人が偉くなることはなかった。
これが社会通念であり、常識でもあった。そうしなければ、代々、その家に仕えてきた譜代の将士たちが納得しないからだ。
こうした譜代と外様、古参と新参の壁は、いつの時代も存在する。

「ふん、くだらぬ」

そんな社会通念や常識を完全に打ち破ったのが信長だ。

信長が領外からスカウトした最初の人材

信長が“天下布武”に邁進し、天下統一に王手をかけた頃、織田家の方面軍を率いていた部将は6人いた。
柴田勝家(1522?~1583)、佐久間信盛(1527?~1581)、丹羽長秀(1535~1585)、滝川一益(1525~1586)、明智光秀(1516?~1582)、羽柴秀吉(のち豊臣、1537~98)だ。

このなかで、信長が尾張以外から最初にスカウトした人材が滝川一益だった。一益は信長より9歳年上。天文年間(1532~1555)に仕えたとされるから、桶狭間の戦い(1560)の前には信長の近くにいる。

近江の甲賀出身といわれる一益は、人を殺めて村を追い出され、諸国を流浪した末、信長に仕えたと伝わっている。そのためか、一益は諸国を巡る山伏、あるいは忍びであったともいわれ、さらには諸国を流浪する中で鉄砲の技術を身につけ、その腕を信長に買われたとの説もあった。

戦国武将のなかで、信長はかなり早い段階で最新兵器・鉄砲の威力に注目する。彼は16、17歳の頃から日常的に鉄砲の訓練をおこない、実戦でも自ら率先して使用した。

信長は人を道具――たとえば鉄砲のように捉え、性能のみで考えていた。だから身分や出自を問わず、その人物をみて召し抱えた。信長が一益の鉄砲の腕を買ったかどうかは定かではないが、いずれにせよ、彼は他国出身の一益を気に入った。

「この男、使える」

ただ、一益が織田家中で頭角をあらわすのは信長の北伊勢攻略戦だ。そのことを考えれば、おそらく信長が一益を召し抱えた理由は、自分にはない人脈を持っていたことだろう。

一益は甲賀の忍びや伊賀者とパイプをもち、他国の情報を仕入れては信長を喜ばせた。そして永禄10年(1567)に、信長が美濃攻略戦と並行して北伊勢への進出を企てると、一益はその人脈を持って同地の国人や土豪たちの懐柔に成功。やがて信長より北伊勢五郡を与えられた。

その後、一益は北伊勢を拠点に、織田家の遊撃軍を率いて各地を転戦する。彼は前線の指揮官としても勇猛で、殿軍を任せても手際よく退却したことから「進むも滝川、退くも滝川」と激賞される。

できる者には、より大きな仕事を与えるのが信長流だ。
一益は信長の過度な起用に対し、時に大胆に、時に慎重に応えていく。

そして天正10年(1582)2月の甲州征伐のおり、織田軍の主力は信長の嫡男・信忠の軍勢だったが、その傍らに一益の軍が添えられた。

「信忠を頼む」

やがて信忠軍は、信濃を無人の野を行くが如く進軍し、甲斐の武田家を追い詰める。そして天目山の戦いで信玄の後継者・武田勝頼の首級をあげたのは一益の軍だった。

繰り返すが、信長は身分や出自を問わず、その人物をみて召し抱えた。そして結果さえ出せば広大な領地やそこでの権限を与えた。そのような家は当時、織田家だけだった。これは信長が創りあげた織田家の家風といってよい。

一益は人事考課に厳しい信長のもとで生き残り、やがて上野と信濃二郡を与えられ、厩橋城主となる。そして彼は牢人の境遇から「関東方面軍司令官」という最高幹部の一人にまで上り詰めた。

一方、「私は甲州の名門・武田家で働いてみたい」と信長のスカウトを断った鹿島源五なる男が、その後、どうなったかは不明だ。
ただ武田家滅亡の最大の原因は、勝頼が譜代の重臣たちをまとめきれなかったところにあった。源五は憧れの武田家に仕えたあと、その家風に幻滅しなかったか・・・。

優秀な人材を獲得したければ、待遇や自社の将来性を丁寧に説くことはもちろん、その人物の活動を妨げない風通しのよい社風をつくる必要がある。これはいつの時代も同じといえそうだ。(了)

※この記事は2018年5月に【日経ビジネスオンラインSpecial】に寄稿したものを【note】用に加筆・修正したものです。

【イラスト】:月岡エイタ

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