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【短編小説】真夏の夜の魚たち

 午後四時になっても一向に気温は下がらない。
 アスファルトから透明のゆらめきが立ち上っている。街路樹の影は車道側に移動し、幅の広い歩道に白い日光が照り返した。
 図書館の冷房で冷えた肌に汗がじわりと湧く。横断歩道のメロディが途絶え、青信号が点滅する。結衣はうんざりした気持ちで渋滞する国道を足早に渡った。トートバッグの中の本が重い。

 近道をしようと、すすけたアーチのかかるアーケードに入った。とたんにひっそりとする。
 気温も少し下がったような気がしてほっとした。
 閉ざされたシャッターの並ぶ古い商店街、日の射さない道端の、それでもなんとか細々と花をつけようとしているマリーゴールドに水をあげている下着姿の老婆がいた。誰かが猛スピードで自転車で駆けぬける。いつ貼られたのか見知らぬ演歌歌手のリサイタルのポスターがほとんど色を失ったままかつて電気店だった店のシャッターに掲げられている。
 そんなものたちを観察しながら、結衣はぶらぶらと歩いた。

 正木レイジがいた。

 知らぬふりできないくらい至近距離でかつ真正面から目が合ってしまった。
 うろたえた。正木レイジはじっと道端に立ったまま何かを見ていた。結衣もまたよそ見をしていて、そんなふたりがほぼぶつかる寸前で顔を合わせ、偶然道で行き会ったときの自然なやりとりを交わしてやり過ごすタイミングを失ったまま立ちすくんだ。

「こんなところで何してるの?」
 思わず訊く。

 正木レイジは目をそらし、浅く唇をかんだ。
 そして背を向け、立ち去った。

 別にことさら詮索するつもりはなかった。逃げるような後姿に、悪いことをしてしまったかなと思う。

 歩き出そうとして、正木レイジが見ていたものを確かめてみたくなる。立っていたのは狭い路地の入り口だった。
 その奥に投げ入れていた視線を思い出し、たどる。

 ラーメン屋がある。もつ煮、串揚げと書かれた居酒屋がある。〈スナックありす〉というかなり微妙なネーミングセンスのパブがある。
 どの店も閉まっていた。空き店舗なのか開店前なのかよく分からない寂れ具合だった。その先は行き止まりだ。

 ふたたび歩き出そうとすると、〈スナックありす〉の紫色のドアが開いた。つい足を止めて、出てきた人を見る。

 女だった。ぱさついた赤い髪はパーマがかかっているのか、それともクセなのか、おおきくうねっている。長いその髪を筋張った細い指がかき上げると、化粧気のない小さな顔が現れた。眠そうな目が結衣を見た。何秒間かじっと見つめてしまっていた結衣に、「なんか用?」とけだるそうに、いぶかしそうに、言った。しわがれた声だった。

 結衣は何か言わなきゃいけないと口を開きかけるが、適当な言葉が見つからなくて黙り込む。愛想笑いしながらぎこちなく目をそらし、立ち去ろうとして、しかし思いとどまった。

 その目が、その口元が、あまりにも正木レイジに似ていたのだ。

 女は右に傾けていた首を体の重心を移動するのと一緒に左に傾けなおし、腕を組んで結衣の言葉を待った。

「正木レイジ君……」と、口にしてみる。
 その目が見開かれた。だらしなく丸められていた背筋が伸び、組んだ腕がよりきつく組まれる。

「レイジ?」
 しわがれた声は、それでもさっきよりも幾分トーンが上がって、けだるさもいぶかしみも消えていた。

「あ、いえ……」
 結衣は怖気づいて言葉を濁す。
「何。あの子がどうしたの」
「いえ、いま、ここにいて……」
 しどろもどろに言葉をつなぐ。

「ここに?」
 女ははじけるように路地から飛び出した。サイズの小さい銀色のラメのサンダルを下駄のように鳴らして、黒いてろんとした生地のフレアスカートをひるがえす。膝裏が深くくぼみ、貧弱なふくらはぎが盛り上がり、薄いアキレス腱がナイフの背のように張る。

「ねえ、レイジがいたの? ここに? ほんとに?」
 長い赤い髪を振り回しながら左右を何度も見回し、女が言う。そして、「いないじゃない」と結衣の腕を両手でぎゅっと掴んだ。

 すいません、とつい謝る結衣に、急に愛想笑いしながら女は手を離した。
「あ、ごめん。痛かった? ね、入って。どうぞ」
 辞そうとする結衣を、女は強引に〈スナックありす)に招き入れた。

 煙草とひからびたアルコールの匂いがした。薄暗かった。どのタイミングで帰ろうかと考える。開け放した入り口のドアと、天井近くにある明り取りの横長の窓から、夕方の弱々しい光が射し込んでいる。女はふたつある電灯をつけたが、オレンジ色の笠に覆われた光はさらに弱々しく、ほとんど役に立たない。花柄の壁紙や、壁沿いに置いたソファの赤黒いビニールシートや、小さく低いテーブルの黒い天板が、その表面をおぼろにさらした。

「ルミコって言うの。よろしくね」
 「ありす」ではないんだ、と結衣は一応思う。たしかに「ありす」より「ルミコ」のほうがこの人っぽいかもと思う。ルミコはカウンターの中に立ち、「座ったら」と結衣にカウンター席を促して、煙草に火をつけた。
 高くから斜めに射す窓からの光に紫色の煙が塵と共にちらちらと揺れているのを、結衣はスツールに腰掛けながら落ち着かず眺める。

「飲む?」
 ルミコはビールの小瓶を取り出してカウンターにグラスを置いた。「いえ」
 結衣は首を振り手のひらで制する。

 ルミコは「飲んじゃおっかな、あたしは」と言いながら、カウンターを出て結衣の隣に座った。
 グラスにビールを注ぎ、のどを鳴らし一気にそれを飲み干す。はぁーと大きなため息をひとつつき、上目遣いで結衣を見つめにやりと笑った。
「いい男になったでしょうねあの子も。二十年会ってないけど分かるわ。父親もそりゃいい男だったんだから」

 ルミコは二十二年前、正木レイジを産んだ。若い父親はルミコとレイジを置いて家出し、ルミコはレイジを自分の両親の元に置いて後を追ったのだという。

「その襟足は魚である」
 唐突なルミコの言葉にその横顔を見る。そんな結衣の視線に照れたように肩をすくめた。

「萩原朔太郎の詩。本ばっかり読んでる男でさ、いろんな詩を教えてくれたんだけど、今でも覚えてるのはその詩だけ」

 そう言って、
「すべすべと磨き上げられた大理石の柱のようで、まっすぐでまっ白で、それでいて恥ずかしがりの襟足」
と、歌うように、火のついた煙草でリズムを取りながら、口ずさんだ。

「女の襟足のことを言ってるんだって教えてもらったけど、でもあたしはその男の襟足のことだと思ってた。彼、すごく綺麗な襟足してたのよ。大理石の柱のようで、まっすぐで、まっ白で、それでいてはずかしがりの襟足」

 ルミコはそう言って、ふふふと笑った。
 そしてまた煙草を口にする。その先がちりりと灯る。ため息のように煙を大きく吐き出した。

「けど、ろくでもない男だった。小説家になるって言って働きもせずにパチンコばっかり。小説なんて書いているとこ一度も見たことなかったわ」

 ルミコは今度はふてくされるように唇を尖らせ、空のグラスにビールを注ぐ。
「結局、別の女のところにいっちゃった。親には二度とレイジには会わせないって言われてたし、今更どこにも帰れなくて、身近にいる適当な男と一緒になった。すぐにまた別れたけどね」

 半分ほどビールを飲み、そのグラスを弄ぶ。
「あたしはこんなだけどさ、両親はすごくまとも人たちなの。きっとレイジだってあたしなんかに育てられるよりずっとまともに育つって思ってたわ」

 あ、ごめんね、ジュースでも飲む? とルミコは結衣が口を開く前に席を立ち、カウンターの奥の冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して戻ってきた。

「大学生?」
 専門書の背表紙がのぞくトートを横目に問う。
「あ、はい」
「あの子も?」
「はい。同じゼミです」
「まさかあの子がこの町にいるなんて」

 細い指がグラスにジュースを注いだ。まろやかに波打つオレンジ色の液体を見つめる。正木はたしか他県出身だ。部屋を借り一人暮らしをしている。
 じゃあ、正木君お母さんに会いに……、と思ったが口には出さなかった。
 ルミコは突然口をつぐんだ。細長いメンソール煙草に火をつける。黙り込んだまましばらく煙を吐き続け、半分の長さになったそれをガラスの灰皿に押し付けた。

「でももう今更会えないかな」
 ルミコは言った。結衣は吸殻を押しつぶし続けるルミコの長い爪を見ていた。結衣たちの学部はたしかに近県では他にははい。偶然かもしれない。

「あたし男運悪くてさぁ、ずっとひどい目にあってきた。けど」
 ルミコは「見て」と言って左手の中指にはめたリングを見せる。透明な石が乗っていた。

「今度こそ幸せになれる気がするの。そんなにいい男じゃないけど、真面目な人で、一緒になるって言ってくれた。もうすぐ四十だし、最後のチャンスだと思うの」

 はめたリングをひとしきり右の指先で弄んだあと、ルミコは結衣に向かって微笑んだ。
「出来損ないの母親は、陰でひっそり息子の幸せを祈るわ」

   *

 襟足が綺麗だったという父親に似たのだろうか。
 研究室の片隅、窓際に立つレイジの後姿を盗み見ながら結衣は思った。手元のレポートに視線を落し、うつむき加減で、一本の首筋が浮き上がっている。少しくせのある柔らかそうな短い後ろ髪がかかっていた。

 彼、すごく綺麗な襟足してたのよ。
 ルミコのしわがれた声を思い出す。

 部屋の真ん中で学生たちの笑い声が沸きあがった。
「ね。結衣」
 女子学生のひとりが声をかけてくる。

「あ、ごめん。聞いてなかったぁ」
 ことさら陽気な声で答える。

「もう。またぼんやりして」
「ごめんごめん」
「で、どうする?」
「何が?」
「だから、ゼミ合宿だよ」

 別の男子学生が呆れたように畳みかけた。
 合宿と言っても担当教授抜きで学生たちだけで行く一泊旅行のささやかな、代々続く恒例行事だった。昨年の先輩たちはちょうど感染者が少なく世の中も動き出した時期だったから、キャンプにでかけたという。
 幸い感染者はでなかったが、その後何度か大学生の飲み会やバーベキューでのクラスターが問題になった。

「どうしようか」
 結衣はそのまま仲間たちの輪に入りこむ。

「なぁ、正木はどう思う?」
 男子学生の一人がレイジに声をかけた。

「無しでいいんじゃない」

 一瞬、場がしんとする。
 誰も言いたくなく、誰も聞きたくない言葉だった。
 普段でさえ極力リモートでセッションしていて、こうしてみんなで会える機会さえ貴重になっている。誰もが、日帰りでもいいからせめて合宿だけはみんなで行きたいと思っている。ただ、中止にするというのは一番無難な案ではあった。そのことも十分わかっていた。ゼミ合宿の話題はそこで途切れた。

 ラインのメッセージ着信が通知される。ゼミの公式とは別の特に親しい数人とで作ったグループラインだ。声を掛け合っていたらいつのまにかレイジ以外が参加していた。

――さすがに中止はさみしい。
――そうだよね。

 グループメンバーが手元のスマホに目を落としている。リアルの場では無言のまま、小さな画面の中で議論が始まった。

 結衣はレイジに背を向けたまま、しかしずっとその気配を意識し続け、グループにいながらやはり意識はレイジと同じ様にそこからはじかれていた。

 レイジにルミコに会ったとは話していない。自分のことはほとんど話さないレイジの、そこまで込み合った事情を本人抜きでいきなり知ってしまったことに後ろめたさを感じていた。
 
  *

 ライン教えてと言って交換したラインの名前は〈春子〉となっていた。「ルミコは源氏名」と肩をすくめて笑った。

 あれから〈春子〉はしばしばラインを送ってくる。内容は他愛のないものばかりだった。男がどうしたとかこうしたとか、店が暇でつまらないだとか。

 たぶん結衣からレイジについて聞き出したいのだろう。結衣は返信に悩み、当たり障りのない、例えば教授にレポートを褒められたとか、そんなレイジの大学での様子を添え、他愛のない応答を返す。

 そのうちに男と連絡が取れないというラインが送られてくるようになった。仕事が忙しいのではないかと結衣は返した。それ以外に言えることはない。ルミコのラインはそれなりに結衣に気を使っているふうで、しかし同時に探りつつ、どこかすがってくるようなところもあった。寂しがりやなのかも、と思ったりする。

 図書館の帰り〈スナックありす〉に立ち寄った。
 夕暮れ時の薄暗い店内に、ひとりルミコがカウンターにもたれ、電卓を叩いて伝票の整理をしていた。結衣の顔を見ると灯が点るように明るい笑顔を見せる。その朗らかさと、赤く、厚く、塗られた口紅と、くっきりと引かれたアイラインが、なぜか店の薄暗さと古めかしさを際立たせているように思う。

 やはり男の話しをする。
「きっとお仕事が忙しいんですね」
「そうね。時期によってすごく忙しくなるみたい。前も一ヶ月くらい顔見せないことあったし」

 強がるように、自分に言い聞かせるように、あるいは希望をつなぐように、ルミコは微笑んで見せた。
 背を向け、名入りのライターを整理し始めるルミコの襟足を見たとき、レイジの襟足はやはり父親似なのかもしれない、と思った。

   *

 その夜はラインではなく電話だった。相変わらずしわがれた声だった。

「タツヤが来ない」
 タツヤというのはその男の名前だ。切羽詰った声だった。

「ねえ、どうしたんだろう? どうしたんだと思う? 電話も出ないしラインも返さない。もう二週間よ。ねえ、結衣ちゃん、どう思う?」

 どう思うって、20も年下に聞くことかな。わたしだってそんなに恋愛経験あるわけじゃないし。
「前に一ヶ月くらい来なかったって言ってたじゃないですか。まだ二週間でしょう」
 戸惑いながら、そう言う。
「一ヶ月来なくても連絡は毎日くれた」
「そっか。でも……」
 結衣は慰めになるような言葉を探す。見つからないうちに、深いため息と共にルミコの言葉が吐き出される。
「ねぇ、もう、どうしていいか分かんない。あたし一人で、ほんと、もう、分かんない」
「ちょっと落ち着いてください。別に別れるって言われたわけじゃないですよね?」
「そうだけど」

 少しの沈黙の後、「……レイジが」と聞こえにくい低い声でルミコはつぶやいた。何を言おうとしているのだろうか。

「レイジ君が、どうかしたんですか?」
「あの子がタツヤに何か言ったんじゃないかな」

 結衣にはまだ、ルミコが何を言おうとしているのかが分からない。黙り込む結衣に焦れたようにルミコは早口で話し始めた。

「最近タツヤ、店の近くで若い男がうろうろしてるって言ってたのよ。別に何か話したとは言ってなかったけど、でもあの子、タツヤがあたしの男だって調べて、何か言ったんじゃないかな。それでタツヤ来なくなっちゃったんじゃないかな」

 おそらくずっと胸のうちに溜め込んでいた考えなのだろう。よどみなく一気にそう言い切った。
 そして、思い切ったようにルミコは言った。

「レイジに訊いてみてくれない?」

「何を?」

 結衣自身びっくりするくらい冷たい声が出た。
 無性に腹が立っていた。

「タツヤに何か言わなかったかって」
「そんなことする人じゃないと思いますけど」
「でも結衣ちゃんも見たんでしょ? レイジが店の前にいるの」
「そうだけど」

「ねぇ、お願い。違うなら違うでいい。確認したいだけなのよ。ほかに、だって、考えられないから……」

 タツヤという人は「すぐは一緒にはなれないけど、絶対に一緒になれるから待っていてくれ」と言ったという。結衣はルミコから何度もそう聞かされた。その言葉にすがっているのが分かった。言葉にすがり、目を閉じて、何か大切なものを見ていないような気がする。見たくないのかもしれない。

 結衣は大きなため息をついた。
「ごめん、結衣ちゃん」

 我に返るようにルミコが言った。
「あなたにしかレイジのこと訊けないから……」

 しわがれた声が消え入りそうに小さくなっていく。
 電話を切った。

   *

 結衣が〈スナックありす〉の前に立ったのは、午後八時半過ぎだった。アーケード街のずっと奥に入り込んだ路地に、大通りの夜のざわめきは届かない。

 看板の明かりは消えていた。紫色のうすっぺらい化粧板のドアの前に立つ。中からは物音一つ聞こえてこない。ドアの外で、結衣はスマホに目を落とした。

 一方的に電話を切ってしまったせいか、切羽詰まったルミコの声が耳に残って消えなかった。
 かけなおそうかと迷い、気付けばここまで来ていた。

 人通りのないアーケードは深海の底のようにしんとしている。
 切れかけの水銀灯が不規則に点滅している。路地の入口にぼんやりと人影が浮かび上ってきた。胸が痛いほど高鳴った。うつむき加減で、長い足をもてあますようにゆっくりと歩くその歩き方は、間違いなく正木レイジだ。結衣に気づき、立ち止まる。

 黒マスクをしていて、長い前髪の間からの目しか見えないが、大きく見開かれ驚いているのがわかった。

「どうして?」
 レイジが言った。
 その目を、結衣はまともに見ることができず、うつむいた。

 まさかレイジが来るとは思わなかった。しかし、きっかけはここでレイジに会ったことだったのだと、今更ながら思い出す。

 じっと結衣を見つめるレイジに、必死に説明する。
「別に知ろうと思って知ったわけじゃなくて、なんとなく偶然知り合っちゃったんだ、正木のお母さんと」

 レイジは黙ったままだった。
 結衣は顔を上げ、言った。
「……正木は、逢いに来たの?」

「別に」
 視線を外し、レイジが言った。

「……ただ、ばあちゃんが入院して、一度くらいは顔を見せろって伝えられたら伝えてくれって、じいちゃんに言われたんだ。一応、あの人一人娘だし、これだけ近くにいて無視するのもかえって気持ち悪いし、……それだけ」 

「そっか」
 これ以上は自分が踏み込むべきことじゃない、と結衣は思った。

「じゃあ、あたしは」と立ち去ろうとする結衣の手首を、レイジはつかんだ。

 結衣は驚いてレイジの顔を見上げる。目の前のレイジの胸の位置の意外な高さに戸惑う。鼓動の高鳴りが止まらない。
「悪いけど、つきあって」
 レイジはそのまま〈スナックありす〉のドアを引いた。

 店内に夕暮れの薄い日光はない。空間全体を浸したような重い闇に、オレンジ色の明かりが浮かぶ。花柄の壁紙や赤いソファは却って鮮やかに照らし出されていた。

 奥のカウンターに赤いワンピースの背中が見えた。大きく開いた襟ぐりからはみ出た痩せた肩甲骨が動き、振り向いた。
 レイジの手が結衣の手首から離れた。

 アイラインで縁取られた目が大きく見開く。赤色の口紅が歪んだ。頬と目元に寄ったしわが天井に点在する光に深く影を刻む。いつもよりずっと老けて見える。

 スツールを降り、ハイヒールで床を高く鳴らしながら近づいた。節くれだった細く長い指を、演奏を始めるピアニストのように、ゆっくりと前に伸ばす。視線はレイジにまっすぐに向けられた。ぎらつくような強い光を見た気がした。

「レイジ? レイジなのね。来てくれたの。ありがとう」
 いつもよりずっと甲高い声だった。
 ドアの前に立つレイジをルミコは抱きしめた。

「レイジ、レイジ、ごめんね。よく来てくれたわね。嬉しい。すごく嬉しい」
 ルミコの声がこもる。結衣はそっと店の奥に身を寄せた。

「ああ、大きくなったわね。すごいわ。私よりずっと大きいじゃない。あんなに小さかったのに。すごい。ほんと、すごい」
 ルミコはレイジから体を離し、頭の先から肩、腕を撫で回し、手を握り締め、はしゃいだ。すごいすごいと繰り返す。

 レイジはまるで通りすがりの大型犬に突然懐かれた人のように困惑していた。ただされるがまま、髪を乱し、腕を上げ、シャツを引っ張られる。甘えたような声を漏らしながらまとわりつくルミコもまた、目の前にいる人間に本能のまま飛びついた人懐こい犬のようだ。

 いったいこれはなんだろう、と結衣は思った。
 私は今、何を目撃しているのだろう。

 二十年ぶりの母子の再会だと、分かっている。しかしなぜだか、ただ下手な舞台芝居を見るような、そんな白々しさがどうしようもなく漂う。

「ばあちゃんが入院したんです。もし行けたら一度だけでも見舞いに行ってあげてください。じいちゃんがそう言ってました」
 レイジは平板な声でそう言った。

 ルミコの顔がこわばる。頬に感激の笑みを貼り付けたまま目を泳がせ、うつむいた。

「……今更、帰れないわ」
 しわがれた声でそうつぶやく。

「じゃあ、俺は伝えたんで」
 正木はそう言って、店を出ようとした。
 
「待って!」
 すがるようにルミコが声を上げる。
「ねぇ、せっかく来たんだもの。飲んでいったら。ねぇ、結衣ちゃんもいるんだし。もっといろいろ話しましょう」

 愛想笑いをする赤い口紅が薄暗い店内で鈍く艶めく。
 正木は目を反らしたままドアの取っ手を見つめている。
 マスクのせいで表情は分からない。
 結衣には、泣いているようにも見えた。

 ふと、ルミコが電話で言っていたことを思い出す。
 頑なに顔を上げないレイジに、ルミコは決するように口を開き始める。

 タツヤに何か言ったんじゃない?

 レイジに訊いてみてくれないかなと、そうルミコは結衣に頼んだのだ。

 結衣は声を上げた。
「やめてルミコさん。会えたんだから、もういいでしょ」

 ルミコが結衣を振り返った。泣き出しそうな目でじっと結衣を見つめた。結衣もまたじっと見返す。
 ルミコはあきらめたように目をそらし、肩を落として流れるようにカウンターへ歩いた。からからとヒールを引きずった。店の奥から対角線に結衣が見るルミコとレイジは、ただ遠い、冷たい、他人同士だった。

 レイジが店を出た。
 あとを追おうとしてドアに向かうと、結衣の手首をルミコがつかむ。レイジとは違い、氷のようにつめたい指だった。

「分かってる。あたし、捨てられたのよね。分かってるのよ。どうしてなんだろう、なんでいつもこうなるの。なんでみんなあたしを置いていくの」
 ルミコの細いからだが結衣の肩にもたれかかる。知らないわ、ねえ大人でしょ? 大人ならもっとしっかりしなさいよ、と結衣は心の中で叫んだ。しかし言葉にならない。ただそのむき出しの背中を見つめる。

「自分のことしか考えてないんですね」
 結衣はつぶやいた。え、と声を漏らし、ルミコが顔を上げる。

「もう少し正木のこと考えてあげてもいいと思う」
 ルミコから離れた。そして店を出る。

 路地を出て、アーケード街を駆け出す。レイジがやってきた方へ全力で走った。ぼんやりと、しだいに、歩く正木レイジの後姿が見える。

「正木!」
 その背中に叫んだ。
「ごめん、あたし」

 声がかすれた。立ち止まったレイジがゆっくりと振り返る。
 走って乱れた息を楽にするためにマスクを顎まで下げる。胸を押さえ、必死に鎮める。

「悪かったな、勝手に引っ張り込んで」
 レイジが言った。いつものそっけない声で口調だった。
 そしてまた背を向け歩き出す。結衣はすがるように叫んだ。

「あたし、あの人のこと嫌いじゃないよ」
 立ち止まる。しかし、振り向かない。何も言わない。
 ゆっくりと呼吸を鎮めていく。
 マスクを戻せるくらいまで落ち着いたとき、観念したようにレイジは振り返った。

「何だよそれ」
「……分かんない。ごめん」
「うざいよ」
 吐き捨てるようにレイジは言った。胸が痛む。さっきの、ルミコの、痩せた背中が思い出される。

「そうだよね。でも……」
 少し考え、また繰り返す。
「……あたしは、あの人のこと嫌いじゃないよ」

 歯を食いしばるようにレイジは唇をゆがめた。泣きそうな表情がルミコによく似ている。
 レイジを見た。

「ごめんなさい。おせっかいなのは分かってる。ただ……」

 子どもっぽくて、寂しがりで、自分のことしか考えてないようなひとなのに、なぜあたしはルミコさんを嫌いになれないんだろう。

「その襟足は魚である」

 唐突に詩を口にした結衣を、レイジはいぶかしそうに目を細め、見た。
 その詩を、ルミコさんは今でも覚えている。

 結衣はまっすぐにレイジを見つめ返し、続けた。
「すべすべと磨き上げられた大理石の柱のようで、まっすぐでまっ白で、それでいて恥ずかしがりの襟足」

 そう、ルミコが教えてくれたその詩がとても素敵で、そのあとすぐに調べて自分もおぼえたのだ。なぜ、ルミコさんが今でもすらすらと口にすることができるのかといえば、それはレイジのお父さんを本当に心から愛していたからだ。

「正木のお父さんが教えてくれたんだって。萩原朔太郎の詩。素敵な詩だよね。あたしも好きだよ」

 路地の向こうの建物の隙間から、国道のLEDの街灯の光が差している。ヘッドライトとエンジン音とクラクションが行き交う光と音に満ちたその場所が、路地裏の静寂を強調していた。

 誰かを愛さずにはいられない人なのだろう。だから、人一倍傷つくし、人一倍苦しむ。少しだけうらやましい。少しだけ。

 結衣から目を反らし、地面を睨むようにうつむいていたレイジが大きく首を振った。

「もういいよ。聞きたくない」
「よくないと思う。二十年以上も前に教えてくれた詩を今でも覚えていて、すらすらと口にできて、そんなに好きだったんだよ。少なくともそれだけは正木に知ってほしい」

 もちろん、だからと言ってレイジにルミコのことを許してあげてほしいというわけじゃない。そんなつもりはないけれど、ただ、レイジにそんな辛そうな、寂しそうな、顔をしていて欲しくない。

「ごめんね。ほんと、おせっかいだね」
 頭を下げたら思いがけず涙がこぼれた。
 自分で自分に驚く。

「なんで上野が泣くの」
「分かんない」

 ほんとにうざい女だな、と自分で思う。

 もう一度頭を下げて、逃げるようにそこから離れた。
 なぜ泣いているのか、結衣は分かっていた。

 レイジを好きだからだ。今、はっきりと分かった。
 好きな人が、でも辛そうな顔をして、悲しそうな顔して、一人でいて、それなのに自分は何もできない。好きな人には笑ってもらいたいと思うのに。
 何もできない自分が情けなくて、悔しくて、泣けてしまう。

「おい」
 レイジが追ってきた。顔を見られたくなかった。顔を伏せ、歩く足を速める。アーケードの出口を目指す。早く国道の喧騒の中に紛れてしまいたい。

「待てって」
 レイジは前に歩く結衣の前に回り込んで、立ちふさがった。
 横を抜けようとする。阻む様に、レイジも横へ動く。

「悪かったよ」
 思いがけなく張った声でレイジがそう言って、逆方向へまた抜けようとしていた足を止める。その顔を見た。動揺しているのが、マスクをしている目だけの表情でも分かった。

「うざいとか言って悪かったよ。ついさ、なんか気持ちの整理つかなくて、あんな言い方しちゃったんだ……」

 そんなことを真剣に言うレイジは、結衣が正木に言われた言葉に傷ついて泣いてしまったと思っているのだろうか。あっけにとられてその顔を見つめる。そのしぐさの落ち着かなさと、結衣を案ずるように見る目に、小学生の女の子じゃあるまいし、と思った。

「一人で何度か行こうとしてたんだけど、なんか行けなくて、それでつい、上野引っ張り込んじゃって、その勢いで行けたし、だから、感謝ってわけじゃないけど、おせっかいとか思ってないし、うざいとかも思ってないし……」

 こんなにしゃべるレイジを見るのは初めてだった。言い訳するように必死に話すレイジに、結衣は思わず笑ってしまった。
 今度はレイジがあっけにとられて結衣を見つめる。

「なんだよ」
 そしてすねるようにそう言った。
 なんだかやっぱりルミコさんに似てる、と思う。

 正木のことが好きだよ、と言ったらどんな顔をするだろう。

 でも今それを言うのは、つけ入るみたいで反則だ。
 もう少し、まだ脆いこの人との関係を丁寧につみかさねていきたい。この気持ちを宝物のように秘めておきたい。海の底の、真夏の夜の魚たちのきらきら光る鱗のように。

「それなら良かった」
 結衣はそう言って、微笑んだ。
 レイジは目を反らし、照れ隠しのように長い前髪をかきあげた。アーケードを出た向こうの国道を走るヘッドライトがその顔を照らす。少しだけ、柔らかに、笑っているように見えた。

〈了〉

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