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【短編小説】真実は拳に宿る


 ソビエトという国がなかったことはもはや定説となった。今から数百年前、ユーラシア大陸の大部分を統治していたソビエトという民主制の共和国があったという幻想は現在、ほとんど消え失せている。しかし、一部の学者がまだしぶとくソビエト実在説を唱えているのもまた事実だ。
 私の指導教官である 四季母里 しきもり教授は、今から半世紀前にソビエトなどという国はなかったという学説を学会に提起し、拳一つで反対派を打ち伏せてきた、この学説の重鎮である。しかし流石に寄る年波には抗えず、実在論者たちが勢いづいているのが現状である。三年前にデュエルから身を引いた 四季母里教授の後を継いだのは私の兄弟子に当たる 武貴屋楠 ぶきゃなん 助教授だが、彼には少し荷が重かった。三ヶ月前には危うく実存派が送り込んできた対戦相手に負けそうになってしまった。そんなわけで私に次のデュエルが回ってきたのである。
 私は十五歳の時から戦いの中に身を投じている。当時の私はあまり深く考えていなかった。宴席で酔っ払いたちが小銭を賭ける喧嘩賭博の駒に過ぎず、毎日、青痣が絶えなかった。勝っても負けてもその日暮らしの日々であり、よくいる街のチンピラの一人だった。思想的にはただのノンポリに過ぎなかった。しかしこうして学問の世界に足を踏み入れてみると思想を持たない拳がなんと意味のないものだったのかと暗澹たる気分になってくる。そしてそれは逆に言うならただ拳に力があっても思想がなければそんなものはただの暴力と変わりはないということでもある。
 私は四季母里教授に拾われてから学問に目覚めると同時に本物の拳を振るうようになった。本物の拳とは思想に裏付けられ、正義と公正のために振るわれる男の信念である、と言い換えてもいいだろう。私のようなアウトローの出だと打撃ばかりの習得者がほとんどなのだが、組み合いの格闘術を授けてくれたのも教授の道場である。
 というとなんだが私は闘いの修練しかしていないみたいだが、決してそんなことはない。私の学問に向けた情熱も並々ならぬものであることも理解して欲しい。特に過去千年に渡るユーラシア大陸の政治体制の興亡は私がもっとも興味を掻き立てられる分野だ。特に十九世紀から二十世紀にかけてはコミュニズム教徒が世界の大部分を把握していた時期でもあり、混乱と熱狂が人々の日常を覆い隠している。そのせいでソビエトなどという幻想の国家が存在していたと勘違いしやすくなっている。当時の資料がないわけではないが、それらは実在の国家について語っているというより、単なるプロパガンダだ。コミュニズム教徒の教団が捏造し、結託してでっち上げた資料があまりにも大量に存在するために一種の目くらましとなっている。中世においても、そして現在も世界は霧に覆われている。残念ながらそれも事実であり、私たちの啓蒙活動はやがて報われると信じている。
 私が鍛錬を終え、シャワーで汗を洗い流していると四季母里教授からお呼びがかかった。
「君の対戦の日時が決まった」と教授は言った。
「押っ忍! ありがとうございます」私は言った。
「今度のデュエルは今後一年間の紀要出版権を賭けている。これは双方が望んだことだ」
「私も望むところです、押っ忍!」
「対戦相手も 風呂井戸 ふろいど 助手だ。君は初対戦だろう、まだ時間があるからこれからゆっくりと対策を練ろう」
「押っ忍!」
「ただ少し、奇妙な点がある。相手側はシュートルールを希望してきた」
「それは妙ですね。風呂井戸にそんな経験がありましたか?」
「彼の過去の戦歴を調べてみたが、打撃戦しか戦っていないはずだ。組み技も極めた君にはハンデでもなんでもないが、実存派はなぜ敢えてそんなルールを望むのか?」
「さあ、わかりかねます」
「断ることも出来るが?」
「いえ、受けて立ちます」私は言った。自分の手のひらにぺっと唾を吐いた。「やります、押っ忍!」
 シュートルールは寝技を省いた格闘技のスタイルだ。打撃と、立った状態からの投げ技のみが認められている。デュエルでは打撃戦か総合系で行われるのがほとんどだから、珍しいといえる。実存派がなにか企んでいるのは明白だが、戦うのが明らかな以上、私はやることをやるだけだった。
 そもそも人々はなぜ戦うのだろうか? なぜ意見の対立を受け入れずに争うのだろうか? もちろん私にそんな壮大な謎の答えなど持ち合わせていない。しかしただひとつ言えるのは、真実とは戦いによって掴み取るしかないということだ。絶対の真理を無視することなど出来ない。以前、私は太古の人々は論争によって真実を奪い合っていたと聞いて愕然とした。どうしてそのような曖昧で実体のない方法で真実に近づけると考えていたのか、私にはまったく理解できなかった。そもそも──学問の世界に限ったことではないが──真実は絶対でなく、移ろいゆくものだ。過去には正しかったものも時間の経過とともに違うものに変化する。つまり絶対に動かない軸などはない。なら拳の強さによって決めてしまったほうが解りやすいのは明白だ。誰の目にも疑いようがなく、また文句のつけようがない。強いものが正しい、これ以上の真理があるのなら見せてほしいものだ。私はそれを実践する論客の一人としてここに立っているのを誇らしくさえ思う。だから実存派との対戦は避けられないし、負けられないのである。考え方が違うのだから拳で打ち伏せ、真理への扉を開かねばならない。
 その日の夜、私は街をぶらついた。考えがまとまらない時、ふと自分の立ち位置に悩む時、私はただ賑やかな夜の街をただぶらぶらと歩いて平和な街の景色を眺めつつ、その喧騒の中に身を浸す。それが頭と身体のリフレッシュとなるのを以前に学んだのだ。私は街角のカフェの屋外の席に一人で座り、紙の本を開いた。そんなノスタルジックなものを、と思われるかもしれないが、自分の研究分野であるユーラシア政治史の本は必ず紙の本で買っている。
「押っ忍、こちらの席、よろしいですか?」
 誰かが話しかけてきたので顔を上げると、どこかで見たような男が椅子の背もたれを掴みつつ私の顔を覗き込んでいた。
「どうぞ」と私は言い、すぐに視線を本に戻した。すると男は向かいの椅子にいきなり座った。私は椅子をどこかに持ち去るのかと勘違いをしていた。私は再び顔を上げた。
「やあ、読書中に申し訳ない」向かいの男は言った。どこかで見た覚えがあるのだが、名前が浮かばない。
「ええと、どちら様だったか……」
「風呂井戸だといえば、思い出してくれるかな?」
「ああ、風呂井戸助手でしたか、失礼、すぐに名前が出てこなくて」と私は落ち着き払って本を閉じた。
「信じてもらえないだろうが、まったくの偶然でね」
「いいえ、信じますよ」と私は言った。「ということは別に私に用事があったわけではないと考えてよろしいでしょうか。たまたま道を歩いていたら次にデュエルしなければならない相手の姿が目に入ったので、ふと声をかけてみたくなっただけである。そういうことでしょうか?」
「偶然なのは嘘ではないが、君とは以前から話してみたいと思っていた。いや、昔話をしようと」
「そうですか、ではどうぞ」
「君と対戦するのは初めてではない、と言ったら驚いてくれるか?」
「そうでしたか。記憶にはありませんが」
「そうだろうとも、七、八年くらい前、地下でのことだからな」
 私は改めて正面に座る男を見た。その顔に記憶の中の対戦データに該当する相手はいない。しかし半分潰れた鼻、あばたばかりが目立つ頬、そんな戦歴が刻まれた顔と過去と戦ったことがあったとしても、覚えていなくても無理はない。当時、地下の酒場にいた頃はほとんど毎日、戦っていた。そんな相手を一人ひとり覚えているはずなどないのである。
「なぜこの男は自分のことを知っているのか不思議で仕方がない、そんなところかな」
「嘘は言わないことにしている」私は言った。
「私が地下で最後に戦ったのが君だったからな、君に負けてひどい怪我を負って足を洗わざるをえなかった、だから君のことは忘れようにも忘れられない」
「悪いとはかけらも思っていませんが、お望みなら謝罪の言葉を述べましょうか。それですこしは気が収まるでしょう」
「いいやそれは望みではないから断るよ」風呂井戸はテーブルに組んだ両手の拳を置いた。「逆の立場で八年前に負かした奴が私の目の前に現れても困惑するだけだからな」
「ええと、用があるのなら早くしてもらえないでしょうか?」
「いや、用ならもう済んだ」風呂井戸は言う。「だからここから先はただの雑談だ。君に質問しているわけじゃない。ただ気になっていたことはある。どうして君は懐疑派なんかに取り込まれたんだ」
「それはあなたが実存派に在籍しているのはなぜか、という質問で返しましょう。なぜです?」
樹手意夢 じゅていむ教授のことは知っているだろう。君のところの四季母里教授とはさんざん対戦した。私は樹手意夢教授の闘いに魅了されて直接教授の門を叩いた。もちろん学問の道も教授が切り開いてくれた。昔の自分など、ただのチンピラだからな。学問と出会わなければ戦争に向かわされるか、惑星探査に送り出されるかで短い生涯だったはずだ」
「そうですか、わかりました。私とあなたは似たもの同士だということですね。それならなんとしてもあなたを倒さなければならない」
「そうだ。私もそれが言いたかった」と風呂井戸はニヤリと笑い、席を立った。「では、二ヶ月後の対戦を楽しみにしているよ」
 私はうぶな男ではない。風呂井戸の言葉など信じていない。彼が初めから挑発するのが目的で私を尾行していた可能性もあり、以後は街をぶらつくのはやめた。私は鍛錬に没頭した。それまで、私の生活は学問が六割、鍛錬が四割くらいの配分だった。しかし、もうそうも言っていられない。学問には一割程度、残りの九割を鍛錬に注ぎ込んだ。懐疑派の存亡が私の肩にかかっている、といっても大げさではないだろう。もちろん、ただ一度の敗戦で学説がすべてひっくり返ることはない。しかし学問の世界での影響力を考えれば、実存派がのさばってしまうきっかけにはなりうる。負けないことに越したことはない。
 それにしても、この千年間、ユーラシア大陸には様々な勢力が生まれては消えていったが、後年に捏造されたソビエトもかなりおかしな国だろう。そもそもコミュニズム教徒の中には平和になれば闘いはなくなる、という不自然な信念があるので、戦わずに人々が会議の席を囲めば国が生まれる、という幻想がまずあった。ソビエト、という名前も会議を意味するスラブ語が語源であると聞いた。しかし実際にはそんな国など生まれるはずもなく、コミュニズム教徒がしていたのは自分たちの勢力内での主導権争いだった。その争いとは武器を手に闘いあったとのことである。なんのことはない、順序が逆なのだ。戦って闘って反対勢力を討ち滅ぼさなければ平和も国も生まれないのである。結局、二十二世紀の初頭にコミュニズム教が完全に廃れるまで、彼らはただ内輪もめをしていただけだった。四季母里教授は数百年に渡って残された資料を綿密に調べ、ソビエト実在の矛盾点をつき、揺るぎない信念のもと、実存派が構築してきた世界を崩してきた。もとからありもしない国なのだから、ソビエトなどいわば砂上の楼閣だった。当時の人々がこうあってほしかったという願望が幻想を生み、数百年後の学者たちに夢を見させていた、それだけなのである。しかし人は愚かであり、悲しい生き物でもある。自分たちが信じているものが間違っていると突きつけられても、簡単には認めることが出来ない。学者に限った話ではないが、人は自分の見たいものしか見ないのだ。それならなおさら拳で決着をつけるしかないだろう。私はそんな学問の世界の末端に席を置いているのが誇らしい。もちろん拳で勝たないことには何の意味がないこともわかっている。勝利した拳こそが正しい。そこには何の矛盾もない。
 それでも用心に万全を期したことはない。私たちのチームは入念に対策を練った。実存派の闘いは何度も目にしているが、ほぼ百パーセント、打撃戦だった。いやそれが彼らのアイデンティティだった。樹手意夢の三代前、実存派の開祖とでも言うべき 唯我独尊 ゆいがどくそん博士が伝説的な打撃の使い手だったこともあり、彼らには打撃へのこだわりとプライドがある。しかしなぜ彼らは今回、シュートルールを提示したのか?
「まず考えられるのは」と四季母里教授は言った。「我々に有利なように見せかけて、何か裏に別の手段を忍ばせていることだ」
「別の手段とは?」武貴屋楠助教授が言った。
「何か裏をかく手法、うーん、何か」
「同じルールで闘う以上、どちらが有利とか不利とかないのではないのでしょうか」と私は言った。「対策を怠らなければ、投げ技程度で私が不利な状況に持ち込まれる可能性は減らせるでしょう」
「そうとしか言えないな」四季母里教授は言い、丸太のような腕を組んで深く息を吐いた。
 デュエルの日が来た。当日の朝、私は闘いの前の儀式を執り行った。自分の部屋で一人、真実の神への祈りを捧げるのだ。いや、誤解してほしくないが私は無宗教者である。預言者などインチキだが、戦いに臨む者には真実の扉を開くための啓示は絶対に必要である。その啓示を引き寄せるためのまじないが儀式だ。私はアルコールランプと五徳を取り出した。陶器の皿にアンフェタミンの結晶を乗せて五徳の上に置き、炙った。深く、何度も呼吸する。頭がクリアになっていくのがわかった。これからは鍛えた肉体が優劣を決める。しかし研ぎ澄まされた頭脳によって支配された肉体がないと学問の扉は開かれない。真実の行方も雲散する。私はアンフェタミンの煙を深く胸に吸い、神への祈りを捧げた。準備は整った。
 デュエルの会場は今回も市議会の議場アリーナだった。近年ではデュエルの九割は市議会で行われている。揉め事をデュエルで決着をつけるようになったのは数百年前の学者たちだが、何事も白黒はっきりつくこの方式は市民にも受け入れられ、今では市議会の議題もすべてデュエルで決まるようになった。民主的な手段によって選出された議員たちが殴り合って法案を審議し、可否を決め、さらには予算額をも俎上に載せる。その決まった予算の配分を市役所の職員たちがさらに殴り合って奪い合い、勝利を掴んだものが采配を振るう。本当に市民たちが求めている法案が決議され、執行されるのだから、誰からも文句は出ない。しかし残念ながら、議会のデュエルのレベルはそれほどのものではない。議員や職員たちの本業は殴り合いではない。それにわれわれ学者と違って真実を求めて拳を交わしているわけではないので、理念がなく崇高さにも欠ける。世間の注目をもっとも集めているのもわれわれ学者同士のデュエルなのである。
 われわれのチームは議場アリーナの控室に入った。私は軽いスクワットを繰り返して身体を温めつつ、壁のディスプレイに映る議場アリーナの前座デュエルを眺めた。太古、市民たちのなかには生業として、このような衆目を集める職業格闘家がいたと聞く。娯楽として職業格闘家はただ意味もなく闘い、それを見る市民たちも興奮していた事実もあるのだが、日常の一部として、仕事として闘うのであれば賭けるものなどあるはずがない。勢い、職業格闘家たちは裏でカルテルを結び、見世物としての色合いを強め、やがて市民からは飽きられ、廃れていったとのことである。われわれのような真実を求めて闘う崇高な理念がないのだから、ありえる話である。
 前座がすべて終わり、私の入場時間となった。われわれのチームは四季母里教授を先頭に、数千人の市民でごった返すアリーナの中心に向かった。興奮し通路を塞ぐ市民を教授や私の後輩が殴り倒し、道を切り開きながら進んでいく。われわれのデュエルは賭博の対象でもある。真実を求めて闘い合う学者のデュエルは買収が成り立つはずがないから、逆説的にその筋が盛り上がる。ちなみに私はいつも自分のオッズなど耳に入れない。勝ったところで私やわれわれの陣営には一銭も入らないのだから、そんなものは雑音でしかない。学問の崇高さには賭博の胴元たちが何をしようと足を踏み入れることは出来ないのだ。アリーナの中央には直径一〇メートルの円形リングがあり、胸の高さの鉄柵で区切られている。私は一人、梯子を上がって内部に入る。振り返る。
「落ち着いていけ、最初は様子見でいい」リングの外から四季母里教授が私の目を覗き込み、落ち着いた口調で言った。
「押っ忍」
 私が振り返ると、反対には風呂井戸が自然体で立っている。首を回して肩をほぐし、不敵な表情で私を睨みつけているが、虚勢であるのが分かり切っているからついおかしくて笑ってしまう。私はいつもデュエルの相手を睨みつけたりはしない。真実の扉の番人である女神の存在を信じている。私は謙虚なただの学問の徒であり、チンピラではない。市民が熱狂して騒ぎ出し、嵐のような怒号が飛び交っている。判定員が私たちを中央に呼び、三分一ラウンド、十ラウンド制のデュエルが始まった。
 私と風呂井戸はリングの正面で対峙する。私はガード低めで構えて相手の出方を伺う。風呂井戸のハイキックがいきなり飛んでくるが、スウェイで躱す。風呂井戸が勢い余って転ぶ。私は反射で押さえ込みに行きかけたが今回は総合系ではないのを思い出した。彼が立ち上がるのを待つ。
「どうした、大人しいな」風呂井戸がステップを踏みつつ言う。「そっちから仕掛けてきてもいいんだぜ、俺が怖くなければな」
 私は笑いを堪える。軽くジャブを放ち、黙らせる。
「クソ野郎の懐疑派め、お前たちは今日で終わりだ」
 風呂井戸は私との距離を詰めながらさらに言う。いや、そうじゃないだろう。お前には私怨があったはずだ。
 私はジャブとキックのコンビネーションで風呂井戸の体勢を崩すと同時に身体を密着させた。と、同時に肘が飛んできた。
 しかし私は彼の足を払っていた。二人まとめてマットに倒れ、ブレイクがかかった。彼の肘は確かに私の後頭部をとらえたが、威力は殺していた。かすり傷にもなりはしない。
 私たちはリングの中央で再び向かい合う。それで一ラウンドが終わる。
「無理をするな、まだ深追いしなくていい」四季母里教授は私の汗を拭いつつ言う。
「あれが彼らの魂胆でしょうか?」私は教授に聞く。「肘が」
「そうかもしれないが、あれは囮かもしれない、お前の注意を向けさせるデコイかも」
「用心します」
 二ラウンド開始の笛が鳴る。振り向くといきなりの奇襲。
 風呂井戸が猛然と前進し、前蹴りとストレートの連打が続けざまに私のガードを叩く。
 しかし私はあえて下がらず、受ける。
 私は楽しくなり、笑う。
 これこそが学問の道である。
 これこそが崇高なる真実への探究心が生み出す生命力である。
 私はガードを固め、風呂井戸の打撃を受ける。
 受け続ける。
 あえて受け続ける。
 風呂井戸が何か叫びながら拳を放つ。
 しかし私は間合いを詰め、肩でストレートパンチを殺しつつそのまま突っ込む。タックルが彼の胸板を弾く。
 風呂井戸はバランスを崩すしかない。マットに尻餅をつく。 
 私は挑発もせず、ただ彼が立ち上がるのを待つ。
 私にはもう風呂井戸の魂胆がわかった。彼らの企みは、総合系よりも制限された組み技の中で、投げ技を決めようと私が密着したところを肘で狙い撃つ、というものだ。わざわざそうさせるために、シュートルールを選んだ。なら話は早い。彼らの誘いに乗り、その隙をつく。私はいくつかのパターンをシミュレートする。
 風呂井戸はゆっくりと立ち上がり、間合いを取ったまま、私の出方を伺っている。二ラウンドが終わる。
 三ラウンド、四ラウンドとも私は距離を置いた打撃戦に終始した。離れた間合いから左右のローキック、ジャブ、決して身体を寄せない。組み付く選択は捨てて、空中戦で風呂井戸の体力を削る。風呂井戸は決して自分から組み付いてこない。私の投げ技を警戒しているのは当然だが、首相撲で体力を浪費するのを恐れている。私はしかし、組み付きに行くぞというフェイントを見せながらのロー、ミドルへの蹴りを確実に風呂井戸に当てている。次第に彼の息が荒くなってくる。
 五ラウンド、私はここが勝負どころだと判断した。
 風呂井戸のパンチをガードしつつ、間合いを詰める。
 これまでとの戦法を変えた私に風呂井戸は明らかに戸惑っていた。だから右肘を繰り出すのがワンテンポ遅れた。
 私はそこを待っていた。
 上がった右のガードを掻い潜り、私の左のフックが低く飛ぶ。キドニーブローが突き刺さった。
 充分な手応えだった。風呂井戸は顔を歪め、しゃがみこんだ。
 判定員がダウンを宣言し、カウントを数える。
 しかし彼は立ち上がる。
 カウントが切れたのと同時に私はラッシュする。
 顔面こそ捕らえきれなかったものの、いくつかのパンチがクリーンに入る。しかし風呂井戸は倒れない。ガードを固め、ほとんど防御に徹して耐え忍ぶ。私も倒しきれなかった。五ラウンドが終わった。
「あと少しだったな」四季母里教授は言った。「次のラウンドで決めに行っていい。ただ焦るな。肘もまだ飛んでくる」
「押っ忍」
 警戒を解いたわけではなかった。しかし私に油断があったのも確かだ。フェイントで入ったつもりのタックルと、風呂井戸の右のミドルキックが出会い頭にぶつかる。私はよろめいた。
 猛然と風呂井戸のラッシュが襲いかかる。
 私はダメージから立ち直れないまま、ガードを固める。
 しかしガードの上から重い打撃が突き刺さる。
 右の裏拳が私を仰け反らせる。
 よろめいた体幹の反対から上段回し蹴りが飛んでくる。
 私は辛うじて左腕で防いだが、ガード越しにも衝撃が来る。
 ここはダウンで逃げるしかない、と考えた私だったが、下から膝蹴りでまたのけぞらされた。
 ダウンもさせてくれないようだ。
 私は風呂井戸の打撃にただ翻弄される。
 舐めていたわけではなかった。
 しかしどこか侮っていた。
 実存派の次世代のエースの呼び声に相応しい男と、こうして学問のために、真実のために闘っている事実に、私は次第に嬉しくなる。
 風呂井戸の打撃の一瞬の隙、0.5秒ほどの刹那、打撃のテンポが遅れた一瞬を私は見逃さない。
 私は風呂井戸の身体に組み付いた。
 足を払い、体重を預けてマットに倒れ込む。
 一ラウンドのただ倒れたのとは違い、全体重を乗せる。
 ブレイク、と頭上で声がかかる。
 私はマットを両手で押し、身体を起こす。起こしながら見る。風呂井戸にはかなりのダメージが伝わった。それだけ体重を乗せたのだ。
 風呂井戸が立ち上がるのが遅れたため、判定員がダウンを宣告し、カウントを数え始める。
 カウントエイトで風呂井戸は立ち上がる。
 風呂井戸よ、君の打撃は確かに強く、早く、鍛えられている。しかし殴るよりも蹴るよりも、立った状態から地面に叩きつけられる衝撃に比べれば、くすぐられるようなものなのだよ。
 私はもうフェイントも入れない。
 瞬時に風呂井戸に組み付き、左腕を左脇腹に差し込み、胴体ごと持ち上げてサイドに投げた。
 受け身を取れたのかはわからない。
 それでも風呂井戸は再度、立ち上がった。
 私はもう一度、組み付く。
 大外刈りで彼の身体を押し倒す。 
 後頭部から風呂井戸はマットに落ちていった。
 もう彼は動けなかった。
 判定員が頭上で両手を振り、私の勝利を宣言した。
 市民たちが一斉に騒ぎ出す。叫び、怒鳴り、声の限りに喚いていて、議会アリーナが衝撃で大地震のように震えていた。私は耳が塞がれ、平衡感覚を失い、よろめいた。湧き上がった怒号が幾重にも重なり、轟々とした渦の中に私を引きずり込む。私はいつのまにか駆け寄っていた四季母里教授に支えられて、なんとか倒れずにこらえることが出来た。
「よくやった、よくやった」
 教授が盛んに叫んでいるが私は何も答えられなかった。リングを去りながら振り返ったが、風呂井戸はまだ大の字に倒れていた。彼とはまたデュエルすることになるだろう。賭けているものがあまりにも大きく、誰にも任せることは出来ないのだから、私がまたこの地へ戻り、何度も何度も闘うしかない。そうして自らの手に真実を引き寄せる。勝利こそが全てなのだ。真実の扉をこじ開ける権利は勝者にしか与えられないのだから、私は再び闘うだろう。私は学問の徒であり、それを誇らしいと思う。勝者が真実であり、それ以外のまやかしは通じない。学問の世界では真理に真摯に向き合うものだけが女神から微笑みかけられる。私はただ拳を鍛え、謙虚に学問と向き合うだけだ。
 真実は私の拳に宿るのだ。
                          (了)

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