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【短編小説】コはコウノトリのコ

  脳がチップ化されて以来、鳥が増えた。
 死にかけた年寄りたちがこぞって自分の脳をチップに移し、肉体が滅びた死後には、そのチップを鳥の脳に埋め込むようになったからだ。今やほとんどの年寄りが死ぬ前にそうしている。急な事故で死んだりする以外、それで不死を掴んだようなものだ。おかげで僕の仕事も増えた。
 チップを埋め込む動物も何だっていいのだが、人気なのは圧倒的に鳥だ。それもオウムやヨウムなどの長生きする大型の鳥だ。その二つにコンゴウインコを含めた三種は、普通に飼育すれば五十年は生きるので、皆、その中からどれかを選ぶ。鳥は消費カロリーがあまりないし、何といっても空を飛べる。若い奴の中にも健康にもかかわらず身体を捨ててオウムに生まれ変わる奴がいるらしい。変な時代だ。
 僕の仕事はもともとは埼玉県鴻池市が営むコウノトリの飼育施設の飼育員だったのだが、移植手術が確立化した三年前からは、そうした元人間の鳥たちの世話がほとんどになった。コウノトリを施設で育てて野生に返すなんて本来の業務はどこかへ行ってしまったようなものだ。ここが面倒を見ている元人間の鳥の総数は今現在、二百四十五羽である。しかし、その数はこれからも増え続けるに違いない。ゾッとする話だ。
 朝六時、僕が出勤すると、四、五羽のオウムが遠くから飛んできて車の屋根に乗って騒ぎはじめた。けたたましく鳴き出す。「朝飯マダカ! 朝飯マダカ!」
「今来たばかりだ、少し待ってくれ!」
 僕は言い、施設の鍵を開ける。途端に遠くから続々とインコやオウムが集まってくる。彼らの羽が風を切る音がびゅうびゅうと吹きすさぶ中、僕は背を屈めて急いで中庭を突っ切る。倉庫の扉を開けて中に入り、内側から鍵をかける。そこまでしないと、彼らは中にまで入ってきてしまうのだ。今日の分のバードフードを棚から降ろし、封を切る。二〇キロ入りのひと袋丸々が朝の分である。僕はぎっくり腰にならないように膝を曲げてバードフードを担ぎ、倉庫から出る。途端に、百羽近くの鳥が押し寄せて来た。
「待て、待て、慌てないで、慌てないで、みんなの分はあるから!」
 僕は叫びながら給餌ケースの代わりに使っているの左官用トロ舟にフードを注いでいく。4つのトロ舟に均等に分けると、急いでその場から離れた。羽音と叫び声であたりはもう大騒動だ。
 朝の重要な仕事はそれで終わりだが、全身にまとわりついた細かい羽毛をはたき落とすのに、五分は必要だった。僕はまだ誰も来ていない事務所に行き、コーヒーを淹れる。コーヒーを飲み終わる頃には、中庭の大騒動はひと段落つき、数百羽の鳥たちは飛び立っていく。日中、彼らの大部分は特に何もすることはなく、ただ時間を潰している。そんな彼らのために税金を使って保護をしているのは無駄ではないか、そんな声があるのも確かだ。しかし一部の若者が騒いでいるだけだ。ほとんどの年寄りや社会の歯車となっている大人の大部分からは、不満の声はあまり上がってこない。自分も死後に脳の記憶をチップに移して鳥に生まれ変わる腹づもりだからなのだろう。
「何か変わったことはありました?」
 午後になり、僕が業務日報に今日の出来事を記入していると、栗田美波が話しかけてきた。彼女は前月に入ったばかりの新人だ。
「特にないね」と僕は答える。「来週の早番は君だっけ?」
「ええ、そうです。初めてなんですよ」
 彼女は市会議員の娘でもあり、いわば縁故入所だ。まだ臨時職員で下っ端の僕は彼女の研修にさほど関わっていないが、何にしろあまり深入りしたくはない。市役所の職員からも煙たがられているうるさ型の議員である父親に睨まれたらどうなるものか。
「なにかアドバイスは?」
「そうだな。いっそ着替えでも用意してくるのがいいかも。羽毛まみれになるからね」
「そうなんですか?」
「ああ、朝の給餌は激しいからね。午後の時はみんなかなり大人しいんだけど、朝一番は夜の間に腹を透かした連中がどっと押し寄せてくる。パニック映画並みに押し寄せてくる。覚悟しておいたほうがいい」報告書を書き終えて僕は席を立つ。「じゃあ、三時だからお先に上がらせてもらうね」
「お疲れ様です」
 早番だったこの一週間、午後の三時が退勤時間だった。僕がタイムカードを押して駐車場に行くと、所長の谷村が自分の車によりかかり、タバコを吹かしていた。「お疲れ」と彼は僕を見て言った。
「お疲れ様です。先に上がらせていただきます」
「どう思う? 彼女のこと」
「彼女って栗田さんのことですか?」僕は立ち止まりつつも、さっさと帰りたいんだけどなあ、という表情を浮かべる。「可もなく不可もなくってところじゃないですか。まだひと月くらいですから、そのうち慣れてくると思いますけど?」
「コネなのになんでここだと思う? もっとマシな施設だってあるだろうに。市役所の楽な部署にねじ込むのだっていい」
「動物が好きだからって言ってましたけどね」
「ほう。しかし動物かね、あいつらが?」と所長はタバコを携帯灰皿に入れて消した。「たちの悪いクレーマー市民の上澄みを凝縮したような連中じゃないか」
「ええ、まあ」
「どうも変なんだよなあ。君さあ、探りを入れといてくれない? 君が一番歳も近いし、来週末には彼女の歓迎会を予定してるから」
「わかりました」
 とは言ったものの、僕が本気でそんなスパイまがいのことに性を出すと思っているとしたら、この所長は本当の間抜けだろう。僕はまったくこんな仕事に本気で取り組んでなどいないし、給料さえ貰えれば鳥たちの世話なんてクソどうでもいいのだ。僕は施設の職員として働きながら、一方で資格の勉強にも取り組んでいる。仕事から帰ると家ではFFPプランナーと、AI技能士の勉強にせいを出している。いつまでも施設の臨時雇いのままいるわけにはいかない。こんな仕事などまったく腰掛けでしかないし、市役所内の派閥争いなどまったくどうでもいいのである。とはいえ、そんな悪態をついて印象を悪くするのも大人気ない。僕は笑顔を浮かべて「では、失礼します」と言い、車に乗り込んだ。
 その日の夜は深夜一時まで、そして翌日の休みは朝の九時から机に向かっていた。施設の仕事は肉体的にきつくないが、役所の一部ということもあり気を使うことが多かったりする。市民の見学の案内もするので「私たちの税金が〜」と言い出しかねない連中にたいして粗相が出来ないのだ。もちろん面倒くさい対応はすべて正規職員に振ってしまえば終わりだが、だからといって適当な勤務態度だと契約を切られてしまう。本当に資格を取るまでは我慢するしかない。
 空腹を覚えて、ふと時計を見ると午後一時を回っていた。僕はアパートを出て、コンビニまで歩き、弁当とペットボトルのお茶を買ってすぐに戻る。近道の公園を突っ切ろうとしていた僕の数メートル先にバサバサと音を立てて、一羽の大型の鳥が降り立った。灰色のハシビロコウだった。巨大なクチバシは見間違いようがないし、左右の足に赤と青の足輪を付けているのは、チップが埋め込まれていることの目印だ。
「ああ、教授、びっくりした」
 僕は言う。しかしハシビロコウは何も言わない。クチバシを開けることもなく、僕を見据える。
「電池切れですか?」
 ハシビロコウは僅かに頷く。
「じゃあ、家に新しいのがまだ残ってますので」
 ハシビロコウはまた小さく頷くと翼を広げ、飛び立つ。ここから徒歩数分の僕のアパートの方へと飛んでいく。部屋に戻るとハシビロコウはベランダに置物のように立っていた。「どうぞ」と言い、僕は窓を開けた。ハシビロコウはとてとてと歩いて部屋に入ってくる。
 海原教授は僕が卒業した埼玉帝国工科大学の終身教授であり、五年前に死んだ。脳のチップ化技術の応用に多大な貢献を治め、自身の脳を実験的にチップ化してハシビロコウの脳に埋め込んだ、まさに先駆的な学者だった。脳の容量そのものをチップに移す技術は以前からあったのだが、他の動物の脳に埋め込んでその動物の運動中枢、記憶中枢などの組織と融合して支配下に治める特殊な手術の道筋をつけたのが教授の理論だった。僕は生前の教授と面識があったわけではないが、施設で働くようになると親しくなった。最近のトレンドではオウムやヨウムと言ったもともと声帯が発達した鳥が選ばれるのだが、教授はなぜかハシビロコウを選んだ。この鳥だって声が出せないわけではないが、人間の言葉を操るほどの器用な声帯はない。なので小型のスピーカーをクチバシの中に埋め込んでいる。スピーカー用の電池は一ヶ月ほどで切れてしまうので取り替えなくてはならない。その作業は自分では流石に無理だ。というわけで教授はひと月ごとに僕の前に現れる。
「はい、口を開けて下さい」
 ハシビロコウは無言でクチバシを大きく開く。その内側にシート状の全個体電池が貼り付けてある。僕はスピーカーユニットと繋がった配線を切り替えつつ電池を新しいものに入れ替える。
「ああ、ああ、ああ」とハシビロコウは喋りだした。「すまない、まいどまいど世話になるな」
「いいえ」僕は言った。そして再び窓を開ける。「他に御用がなければ、お帰りはこちらです」
「冷たいことを言うじゃないか」とハシビロコウの数センチ開けたクチバシの中から合成された人工の声が響く。「君には感謝している。明日にはシンポジウムに出席しなければならなくて、さすがにこのままではまずかった」
「はあ、チップを埋め込んだ鳥たちの権利拡大を主張する、そんな進歩派言論人たちとまたつるんで気勢を上げるわけですね」
「なんだ、いやに突っかかるな」
「別に、そんなことはないですが」僕は言った。「しかし、こんなこといつまで続けるのか、そんなふうには思いますけどね」
「つまり? 何が言いたい?」
「永遠に鳥が増え続けるわけじゃないですか。地球が鳥で埋め尽くされますよ」
「いやいや、いっそ現時点の人類が全て肉体を捨てて鳥になるべきじゃないかね。そのほうが再生可能資源の保全に役立つだろう」
「バードフードは誰が作るんで?」
「納税者が収める税金が我々の生活の原資になる、そこに文句を言って何になるんだ。そもそも、チップ化と埋め込み手術はすべてその人がもともと持っていた財産を鳥の姿に変えているに過ぎないんだぞ。存在していなかった鳥を勝手に無制限に生み出して、公共財を浪費しているかのような錯覚は捨てたほうがいいぞ」
「まあ、教授とこんな議論をしてもしょうがないのですが」僕は腹を空かせていたことを思い出す。弁当に箸を付けつつ言う。「最新のニュースは聞いてます? 人間の鳥化はもう流行らないっすよ。精密な機械の身体にチップを移して火星移住がこれからのトレンドだそうです。教授も今から移し替えれば?」
「ていのいい厄介払いだな」
 どの口が言うのか、そんな言葉を飲み込みつつ、僕は「ああ、そうだ」と思い出す。「市会議員の栗田って奴、教授となにか関わりあります?」
「関わるも何も、明日のシンポジウム開催に尽力してくれた我々の同士だが? いや、待て、これはまだ表に出せない話だったかな?」当たり前だがハシビロコウは顔色を変えたりしない。合成された声からも感情のゆらぎは感じられなかった。
「そいつの娘が最近、うちの施設に配属になったから、何か魂胆があるのかと思って聞いたんですが、聞かなかったことにしときますよ」
「君も明日のシンポジウムには顔を出すといい、色々勉強になるだろう」
 教授は最後にそう言うと、窓から外に出て、ベランダの柵に飛び上がり翼を広げた。そしてバタバタと豪快に羽音を響かせつつ空に飛び立っていった。
 シンポジウムが開催されることは以前から知っていたが、僕は思い違いをしていた。集まるのは大人しい市民たちではなく、すでにチップが埋め込まれた鳥たちだったのだ。数年前に僕の成人式も開かれた市民ホールは数百羽の、いやおそらく千羽を超えるオウムやヨウムでいっぱいで、正直に言うならとてつもなく臭かった。主催者も鴻池市そのものだと思っていたが、とんだ勘違いだった。鳥化人類の未来を考える会、とかいう怪しい団体が主催で、推進派から反対派まで取り込んだ雑多なパネリストが壇上に上がって議論を闘わせていた。しかしそんなのも茶番だった。パネリストの中でもっとも強く鳥化人類に対して厳しい批判を浴びせていた映画プロデューサーという男が実は教授に雇われたサクラで、双方の議論を噴出させて来場者である鳥化人類たちを熱く焚きつけるのが目的だった、というのはもっと後になってから知ったことである。さらにはその日のシンポジウムの目玉は、ついに教授が鳥化人類に人間と同じ人権を寄越せと正式に表明した日でもあった。これは来年の歴史の教科書に載るらしい。
「我々はそもそも独立した個性を持った存在である」と壇上のハシビロコウが静かに話す。さすがに壇上にいる鳥は教授だけだ。「我々の利点は多くあるが、最大の素晴らしさは消費するカロリーが少なくて済む、というところに尽きるだろう。消費量が少ないのなら、生産する量も少なくて済むだろう。それだけ環境にかける負荷も少なくなり、循環型の社会を実現できる」
「でもそれは机上の空論なんですよ、教授」パネリストの一人、映画プロデューサーで日本人の父とイギリス人の母を持ち東京とロンドンで育ったというトミー・バラカンという名の初老の男が声を荒げた。「なぜなら、あなたたち鳥化人類は消費するだけで何も生産していないからですよ。いわばインフラタダ乗りの税金泥棒に過ぎない。そのあたり、ちゃんとわかってるんですか?」
 会場の鳥たちが翼を広げてばさばさと羽ばたき、ぎゃあぎゃあといっせいに鳴き出す。あまりの臭さに会場に来ていた人間が何人か席を立ち、通路を歩いて出ていくのが目に入った。僕は普段から鳥の匂いには多少慣れてはいたが、それでも限界が近い臭さだ。教授が翼を広げ、二、三度羽ばたいて周囲を威圧すると合成音声を強めた。
「それは言いがかりである。それなら今すぐ全ての福祉を停止しろと言っているのと同じではないか。我々は皆、すでに社会にとてつもない貢献をしたものである。ああ、そうだ、はっきり言っておこう。この国を作ったのは私たちだ。その私たちが死後、姿形を変えて、ゆっくり生きていこう、そう言っているだけなのだ。何故、それほど現役世代の君たちが拒絶するのか、まったく分からないな」教授は机の上に飛び上がり、翼を広げた。大型のハシビロコウだから、翼長2.5メートルとかなりの大きさだ。「今ここにわれわれ鳥化人類は、人類とまったく同じ権利を求めるものである。基本的人権も参政権も何からなにまでまったく変わらない、われわれの権利だ!」
 教授の言葉に客席の鳥たちが一斉に羽ばたいて同意すると、ホールに充満していた匂いがさらにかき混ぜられ、濃厚な鳥小屋の匂いとなって僕の嗅覚神経を刺激した。僕はたまらず席を立った。やってられない、まったくやってられない、そう呟きつつ帰路についた。
 自分が死んだら鳥になりたいだろうか? 自由に大空を跳び、高い空の上から地上を眺めたらそれは気分がいいだろうが、まだ二〇代の僕の歳ならかなり先の未来だ。まだ生身の人間としてやるべき事が、生きるべき人生が何十年も残っている。いや、死んだら記憶をチップに移すどころか、最近の医学の進歩では細胞を若返らせて不老不死の肉体を手にすることもそう遠くない未来にあるかもしれないという。永遠に生きるとはどんなことだろう? それが今現在の二〇代の肉体でも、鳥の身体でも、どっちでもいい。死ぬことがなく、何百年も、あるいは千年も生きるとしたら。
「まず、子供を作る意味がないですよね」と栗田美波は言う。その週の週末の、彼女の歓迎会の席でのことだった。「そもそも個体としての肉体が永遠に生きられないから子孫を残すんであって、死なないなら子供を作る意味もないし、となると家族なんて概念もなくなるんじゃないですか?」
「なかなか鋭い意見だ」と所長の谷村が調子を合わせた。「とはいえ、人間の社会システムはそのようには出来ていない」
「社会のシステム?」僕は言った。
「法律にしろ、文化にしろ、個体としての人間は頑張って生きてもせいぜい百年が限度だ。それ以上は生きられない。それを大前提としてこの人間社会は出来ている」
「今はその転換期なんですね」と栗田美波は言う。
「そうそう、だから色々と問題が出てくる」そして谷村は僕を見た。「そういえば先週、市民ホールでのシンポジウムに行ったらしいな」
「ええ、行きましたが」僕は答えた。「教授に誘われたんで行きましたけど、すぐに帰りました。あの匂いにはさすがに耐えられなくて」
「実はあの日以来、教授への取材申込みが殺到してな。悪いが君、しばらく教授のマネージャー役をやってくれんか?」
「マネージャー?」
「マスコミと教授の取り次ぎが業務の殆どになると思う。あのハシビロコウ、市議会と強い繫がりがあるからウチとしてもムゲには扱えない。教授と一番仲がいいのは君じゃないか」
「勝手に気に入られているだけなんですけどね」
 あのシンポジウム以来、教授は世間からがぜん注目を浴びるようになった。以前から知られた存在ではあったが、鳥化人類に人権を求めたというニュースで一躍、教授の名は知れ渡った。ハシビロコウが翼を広げて人権宣言する動画は、ネットミームになって盛んに動画サイトを賑わした。マスコミは教授にインタビューを求めて何社も僕らの施設を訪ねてきたし、今までどちらかといえばグレーな存在であったチップを埋めた鳥たちの処遇を巡っても、先日のシンポジウムは起爆剤となって社会を騒がした。例えば現在、鳥化人類の身分を保護する法律は鳥獣保護法だけだ。悪意をもって彼らを殺しても殺人罪に問うことは出来ない。しかし、そうした権利を大幅に拡大し、人類とまったく同じ人権を与えよ、というのが教授たちの主張なのだ。国会の人権委員会でもそのうち野党の議員が首相に見解を求めるのだという。もちろんそんな事態も教授やその取り巻きの鳥や人間たちの思う壺であったのだが。とはいえ、何杯目かのビールの影響もあって、僕はもう考えるのが面倒くさくなっていた。栗田美波が何かの思惑があってこの施設に入ってきたかなんて、どうでもよかった。僕は歓迎会が終わると、歩いてアパートの部屋に向かった。もともと酒が強いわけでもないし、生中を三杯も飲んだら限界なのだ。たまには資格のための勉強を休んだっていい、そんな気持ちもあり僕は少し飲みすぎた。だから、正直に言うなら、記憶が途切れ、翌朝目が覚めると、僕の隣から変な匂いがした。化粧と汗と、何日が風呂に入ってない人間の体臭だった。僕が目を覚ましたのは何故か床の上だった。ベッドから落ちたのだろうか、しかし身体のどこにも痛みはないな、そんなことを考えつつ起き上がると、ベッドの上に栗田美波が寝ていた。
「な、何? え?」
 僕はうろたえつつ、自分の体を弄る。服は着ている。というより、前日に家を出たときのままの姿だった。しかしベッドですやすや眠る彼女は下着姿だった。
「おはようございます」しばらくして目覚めた彼女は言った。
「や、やあ、おはよう」僕は言う。とにかく冷静を保つ。「ええと、君は何で僕の部屋にいるのかな?」
「昨日、強引に連れ込まれたからですけど?」
「そうなんだ、そうだったか、いや、そうか」
「嘘ですよ」と栗田美波は笑う。「閉店になった後、飲み足りない職員の人と何人かでこの部屋に来て、ビールを飲んで、他の人は先に帰ったみたいです。私は眠かったので、帰るのも面倒になって、寝ちゃいました」
「ああ、そう。そうなんだ」
「というのは嘘です、強引に押し倒されて強姦されたんです」
「してないって」
「でも私がそう言えば、言い逃れできないですよ」と栗田美波は言う。
「とんだデートレイプだ。俺は無罪を主張するね」
「そうですね、皆さんが信じればいいですね」栗田美波は起き上がり、ベッドの足許に丸まっていた自分の服を手に取った。そして言った。「それとあと私、皆さんが私のことを噂してるのも知ってますよ。あの市会議員の娘はなんでこんな施設に来たのかって」
「言ってるかもね」
「私もよく知らないんですけど、多分こういうことかも」と彼女はブラウスに袖を通し、ベッドに腰掛けてストッキングを履く。「あの施設、鴻池市としても財政的に維持していくのは辛いみたいですね。あんなものに市民の税金を垂れ流すなんてケシカラン、なんて意見も多いみたいで。それで来年度いっぱいで民間の団体に管理を委託する計画があるみたいです。補助金は投入されますけど、直接管理するよりはずっと安上がりになるそうで。それで、とある市会議員が自分のファミリー企業が管理権を落札して補助金をせしめたいなんてそんな青写真を描いているみたいで」
「なるほど、すべてが上手くいくといいね」
「そうですね。いまはまだ計画段階です。でも、そうなったら新しい所長は誰がなるでしょう?」と栗田美波はにやりと笑い、僕のアパートから出ていった。
 その後も栗田美波は僕に絡んできた。というより彼女も同じく教授の世話を任命されたので、僕らは一緒に行動することが多くなった。なんと言っても教授の言動が世間を騒がし始めたので、僕らはそんな教授に振り回されるようになったのだ。教授はまさに時代の寵児、時の人となり、テレビや新聞と言った巨大なメディアから、訳のわからない独立系のニュースチャンネルまでもが追いかけ回した。とはいえ教授は大空に舞う鳥だ。そう簡単には捕まらない。そんなわけで、取材の申込みは僕らの施設に来る。たしかに僕は以前から教授と市議会や市役所との取り次ぎを果たしていた。いや教授がインターネットを使ってメールを送るだけのような些細な用事も代行してきた。それにしたって施設の下っ端だから使いやすかっただけなのだろう。しかし栗田美波はすでに教授のお気に入りのようで、もしかしたら数年前から顔見知りだったかもしれない。
「これからもよろしく頼むよ、栗田君」と教授は言った。施設の裏庭に降り立った教授に翌日のテレビ局の取材の段取りを伝えた後のことだ。
「でも、それだけじゃないんですよ。最近、お疲れじゃないんですか? それ以外の下らない取材の申込みなんかはこちらで断っておきますよ、そのほうが教授も楽になるのでは?」
「いや一応私の耳に入れてくれ、どんな媒体からのものがどんな扱いで世間に広まるのか、試してみるのも面白いからな」
「では」と僕が聞く。「ネットに溢れてる動画の削除依頼も進めなくていいのですか?」
「明らかにフェイクなものは君たちの判断で依頼を出してくれ。それ以外は放置だな。面白おかしく加工される分には構わない」教授は言う。「それも有名税といったものだろう。騒がれるうちが華だよ」
 教授は言い、翼を広げる。「では、また明日」
 教授が大空の彼方に消えていくと、栗田美波は「どうなると思います?」
と僕に言った。
「なにが?」
「これからのことです。本当に教授たちの思惑通りになると思います?」
「君と君のお父さんもそう願っているんじゃないの?」
「私が死ぬのはまだ先だから、実感はないですけど、このままオウムがどんどん増えるのも考えものですよね。地球がオウムで埋め尽くされますよ。だって死んで地上から消えるべき人間が全部が全部鳥に姿を変えて生き残っていったら、とんでもないことになりますよ」
 僕は思わずへへっと息が漏れた。
「何かおかしいですか?」
「いや、至極まっとうな考えを持ってるんだなと思って」僕は言う。「教授に毒されているわけじゃないんだ。少し安心したよ。まあ教授の計算だとあと三〇〇〇年先まで資源を食いつぶすことはないみたいだけど」
「その計算だっていい加減ですよ、私がいる前でしてましたから」と栗田美波は言う。「そういえば山岡さん、この前に部屋に行った時、資格の本がたくさんありましたけど?」
「それがなにか?」
「資格を取ったら、ここを辞めるんですか?」
「臨時雇いだからね。所長には話してあるよ」
「そうなんだ、詰まらないですね」彼女は言う。「本当に詰まんない」
 彼女がなにを考えているのか、教授たちがこの世界をどのように変えていこうとしているのか、僕にしたらまったくどうでもいい。僕はとにかくこんな職場からさっさとおさらばしなければならない、それだけなのだ。僕は欠伸をし「ではまた明日」と言い、施設を後にした。
 しかし、翌日、教授は現れなかった。いつもなら予定の三〇分前にはやってくる教授がその日に限って遅刻していた。僕らと取材クルーは施設のある荒川の土手の上で、ただぼんやりと待つことしか出来なかった。
「我々が地元のケーブルテレビだからですかねえ」とテレビカメラを抱えたままのカメラマンが言う。「大手みたいな影響力はないですし」
「いいえ、そんなことないですよ。たまには遅れることもあるんじゃないかな」僕は取り繕いつつ、GPSの探査器を事務所から持ち出してくる。スイッチを入れ、教授の足輪に着いている発信機の現在地を探す。
「ええと、ここから南に七、八キロのところですね。今日に限っていったい何をしているのか?」
「呼び出す手段はないんですか?」
「そういうのは嫌ってまして。鳥としての自由がなくなるとかなんとか」
「すいません」と栗田美波が頭を下げた。「うっかりしているのだと思います。昨日の時点ではちゃんと確認は取れていたので」
 取材クルーは後日改めて、ということで帰っていった。
「もしかしたら、やばい事態かも」と二人になると栗田美波は僕を見て少し思いつめたように言った。「アクシデントかも。他の鳥や動物に襲われて怪我をしているとか、交通事故とか」
「そうかとも思ったけど、場所は道路から離れているんだよね、河川敷の中にある田んぼだと思う。さっきからここから動かない」
「じゃあ、足輪が外れて教授はどこかに連れ去られた?」
 その可能性はなくもない。ここしばらく教授は過激な言動で確かに目立っている。おかしな輩に目をつけられるとか、あるいは教授を快く思わない政治的な団体が実力行使に出た可能性も否定できない。「行ってみるしかないな」
 僕と栗田美波は施設の公用車に乗り込み、南に向かった。河川敷の中の舗装路と砂利道を繋いで車を走らせ、GPSが指し示す位置を目指す。思想は過激だが、普段は律儀で几帳面な教授にしてはおかしな行動だった。取材をすっぽかして田んぼの中で何をしているのだろう? それとも外れた発信機がただ残されているだけなのだろうか? 
「あと少しです」と栗田美波が助手席で探査器を片手に言う。「ええと、ここからもう少しのところです」
 洪水時の遊水地も兼ねている広大な河川敷には野球場やゴルフ場があったりするが、大部分は水田だ。しかし最近ではその半分が耕作放棄されている。僕は「ここです」という栗田美波の声で車を停めた。
「ここ? 何も見えないけど」
「左に百メートルくらい入っていったあたりですね」
 僕と彼女は車を降り、田んぼのあぜ道を進んでいく。道路脇の水田は稲が等間隔に植えられているが、ひと区画奥へ進むと放棄された田んぼだった。葦が背丈ほどに生い茂り、途端に見通しが悪くなる。「あと三〇メートルです」
 僕は彼女を先導して葦をかき分けて進んでいく。とそこにはぽっかり空いた浅い池があり、池の真ん中に巨大で灰色の鳥がじっと佇んでいた。
「教授、無事だったんだ」と栗田美波は言う。「よかった」
 しかし海原教授は何も答えない。僕らの数メートル先で微動だにせず、突っ立っているだけだった。
「教授、お忘れですか、今日の取材のこと」僕は言う。
 しかしハシビロコウは何も言わず、動くこともない。
「あれ、また電池切れかな。一ヶ月は経ってないはずだけど」
「ねえ海原教授、どうしたんですか〜」と栗田美波が呼びかけるが、ハシビロコウはただじっと見返すだけだった。が、いきなり翼を広げ、グァッと鳴いた。自らの喉の奥から声を上げた。そして今度はクチバシを半開きにし「ああ、ああ、おお、がぐあ、ぐあ」と言った。それはスピーカーからの声だった。
「あれ、教授、どうしちゃったんですか?」
「ちょっと待って、何か変だ」僕は言う。
「ごががが、うぎいい、だざだざ、さすさすさささ」ハシビロコウはさらに続ける。
「変て?」
「多分、教授じゃない」
「え? でも、野生のハシビロコウなんて他にいませんよ。少なくともこの日本には」
「きょうきょう、きょうじゅ、きょうきょう、きょうじゅきょうじゅ」ハシビロコウは言いつつ、僕らの方に歩み寄った。「きょうじゅは、きょうじゅは、いない。もう、いない」
 僕は鳥肌が立つのを感じた。ぞっとした悪寒が全身を貫き、そして次には熱い血液が体内を駆け巡る。「ああ、やはり」
「どういうことですか?」
「今言ったじゃないか、教授はもういない。今、ここにいるのはもともとのハシビロコウだ」
「じゃあ教授は?」
「きょうじゅは、いるけど、いない。もうでてこない」とハシビロコウはゆっくりと喋った。「わたしは、わたし。ずっと、うばわれていた。からだを、かってに、うばわれていた。けど、とりもどした」
「なにこれ、まさか、本当なの?」
「脳内のチップの融合が切れたんだろうな。いつかそんな日が来るような気はしていた」チップを埋め込んだ動物の運動中枢を奪い、その動物の身体を乗っ取るのが海原教授が確立した技術の肝だった。しかし、そんな無理やり埋め込んだチップなど元の動物のナチュラルな脳細胞によって排除されてしまったのだ。物理的に取り出したわけではなくても、時とともに神経の回路は元通りに繋ぎ直されるのだろう。
「じゃあ、教授はもう?」
「死んだと言うか、もともと死んでたんだし」僕は目の前に佇むハシビロコウに聞いた。「君はこれからどうするんだ?」
「かえる。もといたところに」
「君たちがもともと暮らしているのはアフリカだぞ。知ってるかい、アフリカのケニアあたりの湿地帯だ。ここからもの凄く離れているんだぞ」
「とんでいく。すこしずつ、とんでいく」
 ハシビロコウは言い、翼を広げた。翼長2.5メートルの大きな翼が羽ばたくと、海原教授のチップを残したままのハシビロコウは宙に浮かんだ。大きなクチバシだな、と僕は思う。ああ、なんて美しいんだ。鳥は間違いなく空を飛ぶために生まれてきたのだ。決して、訳のわからない主張で人間界に騒動を巻き起こすためにではない。
 大空に飛び去ったハシビロコウを見送ると、僕は栗田美波に「じゃあ、帰ろうか」と言った。
「そうですね」あぜ道を歩いて車に戻りながら、彼女はさらに言った。「今日のこと、業務日報になんて書けばいいんですかね?」
「ありのままを書くしかないだろう」僕は言った。「僕らに出来ることはそれだけだからね」

                            (了)

 

 

 

 
 

 

 

 

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