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【コラム】永遠にすれ違う日本と韓国

 今から十数年前、私はインターネットサーバーの故障受付、という仕事についていた。24時間受付の交代制、昼間の日勤と夜勤を交互に就かなければならないシフト制だった。最初から夜勤有りとは聞いていたが、私は勘違いをしていた。夜勤だけを一ヶ月ずっとやって交代し、日勤を一ヶ月ずっとやる、そんな勤務を想像していたが違ったのである。日勤に入った翌日の夕方から翌朝まで夜勤、そして休みを挟んでまたそれを繰り返す、という生活リズムをぶち壊すことを目的としているかのようなシフトで私はすっかり不眠症になった。二年半ほどで辞めてしまった。

 とはいえ、きついのはそんなシフト体制だけであり、仕事そのものは楽だった。顧客のサーバーが故障し、修理依頼の電話が掛かってくるのをただひたすら椅子に座って待っているだけだったのである。夕方六時から翌朝の九時までの夜勤はワンオペであった。その間、まったく電話が掛かってこないことも何度かあった。複数の故障が重なって混乱した時間帯もあったが、深夜帯はほとんど電話は沈黙していた。となると、ただただ暇であった。何もすることがなく、本を読んだり、うとうとしたり、お菓子を食べたり、鼻くそをほじるくらいしかすることがない。ただ、インターネットの閲覧は許可されていたのでぼんやりとパソコンの画面を眺めていた。当時、まだユーチューブはなかった。インターネットの花形は2ちゃんねるだった。
 
 そんな2ちゃんねるの中で当時、私が入り浸っていたスレッドがあった。ハングル板のノムたんスレッドである。ハングル、ということは韓国・北朝鮮関連であるが、ノムたんとは誰か? 大韓民国第16代大統領の盧 武鉉(ノ・ムヒョン)大統領のことである。当時、2ちゃんねらーたちは親愛と侮蔑と尊敬の念を込めて彼のことをノムたん、と呼んでいた。そしてノムたんスレッドに書き込まれるレスを追いかけている時間は、まったく退屈しなかった。深夜のオフィスで声を出して笑ってしまうのも度々であった。(さすがに私はロム専であり会社のPCから書き込んだことはない)。何が面白かったのか、今正確に思い出すことは難しいが、ノムヒョン大統領がかなり破天荒で個性的な人物だったのは確かである。そんな隣国の国家元首についてのニュース、さらには韓国そのものにまつわる様々なネット上のネタを2ちゃんねらーたちが取り上げ、論評し、議論するネット上の言論空間は、ワンオペ夜勤を乗り切る暇つぶしとしては、これ以上ないくらいにうってつけだったのである。

 当時、2002日韓サッカーワールドカップが終わり、現在に続く嫌韓が日本のネットユーザーたちの間に芽生え始めていたのは間違いない。日本と韓国、それぞれの国民の前にインターネット空間が生まれ、Qアノンのような巨大な陰謀論はまだなかったが、それまでの新聞や雑誌などのオールドメディアとは違った形の別の何か、便所の落書きと見下すだけでは済まない集合知の萌芽がそこにはあった。そう、あえてそう断言したいくらいである。

 つまり私はインターネットで韓国について学んだ。もちろんそれだけではなく、専門家や評論家の著作も何冊か読んだが、ほとんどはネット上の知識である。つまり私はこんなところで韓国と日本についてのコラムを書き進めているわけだが、まったくの付け焼き刃の知識しかない。しかしそれでも私には疑問がある。テレビのワイドショーには韓国や北朝鮮の専門家が呼ばれて視聴者に向けて隣国と日本についてわかりやすい解説をしているが、それでも誰も触れていない核心がある。あえて避けているのか、とも思えるくらいだ。だから日本国民のほとんどは韓国について正しく理解していない。もちろん韓国民も日本についてなどこれっぽっちも分かっていないからそれはお互い様なのだが、この先、第二次世界大戦の戦後体制の崩壊は確実となる21世紀、隣国とその国民のことを正しく知っておくことは決して無駄ではないと思えるのである。

 日本人は韓国について怒っている。そのほとんどは「いつまでも謝れとか本当にうざい」という一点であろう。私に言わせれば、そこは違う。韓国人は謝れ、と言っているのではない、謝り続けろ、と言っているのだ。謝り続けろっていつまでだ? とあなたは思うかもしれない。その答えも明快だ。未来永劫ずっと、である。ではなぜ日本人は韓国に対して未来永劫謝り続けなければならないのだろうか? 日本が韓国を植民地支配したからでしょ、と大抵の日本人なら思うかもしれないが、それも正しくはない。日本が韓国に謝り続けなければいけない本当の理由は「日本が戦争に負けたから」である。

 日本と韓国は隣国であり、地理的にも近いし、文化も似ていると考えることも間違いではない。しかし決定的に違う点も多いし、それ故に憎み合う事態も生まれる。両国ともに中国からの影響が大きい歴史を抱えていながら、細かいところでは違う面も大きい。例えば日本は古代から独自の元号を制定していたが、韓国の前身の李氏朝鮮は中国の元号をただそのまま使っていた。さらに言えば韓国は中国由来の儒教の教えにずっぽりと浸かっている。李氏朝鮮は中国の属国だった、というと現在の韓国人は顔を真っ赤にして否定するだろうが、独立を維持しながらも冊封体制に組み込まれていたことは否定できない。そしてもちろん、儒教の教えが国の根幹にあった。

 儒教の教えに易姓革命(えきせいかくめい)というものがある。本来、中国の皇帝は天から地上を治めることを認められていたものの、失政などで徳を失うと交代を余儀なくされる。新しい王朝が起こり、内戦状態になって古い皇帝とその一族は滅ぼされる。王朝の交代を正当化する理屈、それが易姓革命なのだが、中国ではそうして後漢が魏になり、隋が唐になり、明が清に交代した。朝鮮半島も同じようなことをしている。一方で、日本はどうだろうか? 日本ではそんな革命はなかった。王朝も交代しなかったし、将軍と帝が並立する歴史を長く過ごしてきた。つまり、国の根幹に関わる理屈がお互いに相容れないのである。そして日本は太平洋戦争で負けた。中国や韓国の儒教的な歴史観から見ると、戦争に負けた国は滅びなければならないのである。そんな滅びなければならないはずの日本が滅びていないどころか繁栄している、そこが韓国人には認められないのだ。彼らの歴史観、倫理観、正義感に照らして考えると、戦争に負けたはずの日本が存在していること自体が許せないことなのである。

 もちろん戦争に負けた大日本帝国は滅びている。しかし国号としての日本は変わっていない。日本人からしたら、戦争に負けたからって国号が変わるってそれって何のこと? というくらいに理解不能な理屈であるが、儒教文化圏の人には大問題なのだろう。おそらく現在のこの国の名前が山田国だったりすれば、今ほど韓国人は謝れ謝れ、とは言ってきていないかもしれない。あるいはアメリカの保護領の独立していない状態なら良かったのかもしれないが、当然、日本を戦争で負かしたアメリカは儒教的考えなどこれっぽっちもない。自分たちの信条である民主主義と自由の国に日本を作り替え、アメリカの影響下に置いておきたいだけである。
 
 韓国のインターネット空間はそうした日本に対する怨嗟の声であふれている。いやもっと過激な「日本なんか地震で沈めばいい」というものから「核ミサイルを数百発打ち込んで滅ぼしたい」という激烈なものまである。もちろんその根幹には戦争に負けた日本は滅びなければならない、という思想がある。しかし、さすがにそんなことは不可能だと韓国人も分かっている。だから「謝れ謝れ」なのだ。韓国の日本関連のニュースに必ず登場するあるキーワードがある。それは、われわれは日本より道徳的に上位にある、という文句である。それこそ新聞記者が書いた記事から大学教授の論説、一般のネットユーザーに至るまで多くの韓国人がよく使う一文だが、これも日本人からしたらよくわからない。つまり彼らは「日本人はわれわれ韓国人よりも道徳的に劣っている」と言っているのだ。
 
 易姓革命の理屈に照らし合わせれば、戦争に負けるということは徳を失った、道徳的に間違っていたから負けたのだ、ということになる。儒教文化圏でない日本人からしたら「不道徳な国が侵略してきて負けることもあるでしょ」と思うかもしれないが、徳が高ければそもそも侵略されたりしないのだ、となり結果のほうが何よりも重視される。つまり戦前の日本統治時代の朝鮮半島が特に日本におとなしく支配されていたのは、日本が戦争に勝っていたからだ、と推測することも出来る。戦争で勝つ、とは戦術が優れているとか、戦略がうまくいったという以上のものがある。道徳的に正しいから戦争に勝つのであり、天命によって運命づけられているから支配の正当性も担保されるのだ。そして負けるとすべて剥奪される。戦争に負け、本来は綺麗さっぱり滅んでいるはずの日本が滅んでいない、それなら道徳的に間違っていることを認め、道徳的に正しい韓国に頭を下げ続けるのなら存在は許してやろう、それが儒教国家である韓国の最低限の譲歩ラインなのである。

 つまり日本が韓国に謝るかどうかは韓国の国の根幹に関わる問題である。もし日本が韓国に謝らなくなったら、道徳的に上位にある、という彼らの存在理由も揺らいでしまう。だから韓国人は日本人に謝らせたいのだ。日本人が頭を下げることでやっと「よしよし、それでいいんだ」と胸を撫で下ろせるのである。

 ほとんどの日本人にしたら、まったく付き合ってられない馬鹿馬鹿しい理屈だが、一部の日本人とはもの凄く親和性がある。左翼リベラル系の人々である。彼らは何よりも戦前の日本が許せない。共産主義を弾圧した大日本帝国には恨み骨髄であり、そんな大日本帝国を打ち負かしたにもかかわらずその後反共に転じたアメリカも、それに追随する自民党政権も許せない。そんな現在の日本政府と日本人に対して「謝れ!」と声を上げる韓国はまったくもって頼もしい存在である。政権与党との対立軸の上に立ち「反対反対なんでも反対」とずっとやっている彼らからすれば、敵の敵は味方、というところなのだろう。左翼リベラルな人々は、日本が悪いから韓国に謝る必要があり、謝罪の声が届いていないからもっと謝らなければならないのだ、と考えている。現に大江健三郎や村上春樹といった著名な作家や、朝のワイドショーでおなじみのコメンテーターの玉川徹氏などもそのような考えを表明している。とにかく日本が悪い、という考えに結びつけたい彼らにすれば「韓国には心からの謝罪をしなくてはならない。日本人の本当の謝罪の気持ちが届けば韓国もそれを受け入れ、本当の友情が生まれるはずだ」と思っているのだろう。ここまで説明した通り、韓国側に日本を許すつもりなどない。もう謝罪しなくていいですよ、という声が韓国から上がることもない。日本が存在する限り謝罪はし続けなければならないのだ。前で韓国人の歴史観、倫理観、正義感、と述べたがそれらを一言に置き換えれば宗教、ということになる。日本人を謝らせ続けること、それは韓国人がごく普通に持っている宗教に由来する考え方であり、日本人が全員韓国に対して土下座しようと何をしようと許すつもりなどハナからないのである。そしてほとんどの韓国人はこう思っている。「え? 日本人が韓国に謝罪し続けるなんて当たり前のことだろ。日本は戦争に負けた戦犯国なんだから」と。

 日本と同じくドイツも第二次大戦で負けた。ヨーロッパの周辺国からそんなドイツに対して「謝罪が足りない」という声はない。だからドイツは正しく謝罪をしたのであり、日本とは違う、そのような意見は当然のように韓国と左翼リベラル方面から聞こえる。もちろんそんなことはなく、ただヨーロッパには儒教がないからドイツに謝り続けろ、という声も上がらないだけなのだ。ヨーロッパは当然キリスト教の文化圏である。彼らは儒教とはおおよそ正反対の考えである。当事者であるナチスドイツの面々が絞首刑などで裁かれた以上、一般の国民が謝る必要などはない、とそんな意見が普通だ。ナチスを支持していたのなら間接的に同罪だとしても、戦後に生まれたドイツ人にはまったく罪はない。例え親が犯罪者でもその子供に非はない、それがキリスト教の考えである。逆に言うなら、儒教では親が犯罪者ならその子供も自動的に犯罪者なのである。血統が重視された儒教では、そうした負の考えも同時に強調される。言うまでもないが、そんなものはただの差別に過ぎない。

 私はすべての差別に反対する。人種、出自、宗教、国籍、性別、性的嗜好、肌の色、そんなものを基準にその人を不当に扱ったり、貶めたり、自分より劣っている、などと考えるすべての差別にノーと叫ぶ所存である。とはいえ私とて聖人君子ではないのでそれらを完璧に実施している、とは自信をもって言えないのが心もとないが、差別を許せないと思う気持ちに偽りはない。だから私は韓国人や中国人に対して汚い差別用語をがなりたてる日本のネットユーザーに与することはない。しかし外国人による日本人差別も同じようにノーと叫ぶのである。当たり前のことだ。

 戦後に生まれた私を含め、現在の若い人たちすべての日本人が韓国に謝らなければならないという考えは、まったく恐ろしい差別思想である。加害者は被害者に謝罪しなければならない、そんなのは当然だ。なら、この令和の時代の日本に韓国に害をなした日本人がいるのだろうか? いるわけはない。それなのに若い日本人が謝る必要があるということは、日本人全てに生まれながらにして犯罪者の烙印が押されている、と考えるのと同じである。個人の人格でなく、日本人に生まれたという属性によって道徳的に劣位にある、という思想など排除されなければならないだろう。しかし韓国の人々がそれを当たり前だと考えている根本は、何度となく言及した通り儒教によるものである。宗教によって育まれた正義感や倫理観が彼らを突き動かしているのだ。この何年か、韓国の活動家は少女像の建立を世界各地で進めてきた。つまりこれも布教活動なのである。主にキリスト教の文化圏に向かって「日本は韓国に永遠に謝り続けなければいけないんです。みなさん、これは当たり前なんです。私たちの考えに同調してください!」と声を大にして叫んでいるのだ。彼らは自分が間違っているなどとは、これっぽっちも考えていない。

 なら、間違っているのはどっちなのだろう? 私だろうか? それとも彼らだろうか? 

 お前がいくら謝罪をしようと絶対に許さないぞ、という人に向かって謝罪をすることほど馬鹿馬鹿しいことはないが、私が言っているのはそういうことではない。もう存在しない大日本帝国の所業がその子孫にまで引き継がれ、責任と罪が無限に発生するのだろうか、ということだ。もちろん私は発生しないと考えるし、ほとんどの日本人も同じ意見だろうが、一部の人は違うのだろう。私も馬鹿ではないので「日本人が韓国に謝罪する必要はないなんて言うお前はネトウヨだ!」といった非難が左翼リベラル方面から降り掛かってくるのは充分に分かっている。それでも私は差別を否定する、という信念から韓国人の主張を受け入れるつもりなどない。そして韓国側にも私の考えに同調する人など、ほとんどいないだろう。では、彼らに向かって「お前たちは間違っているぞ!」と叫ぶのが正しいのだろうか?

 二カ国の意見が食い違い、互いの価値観がぶつかり合う時、争いが生まれて下手をすれば戦争である。私の考えを推し進めれば、お前たちが間違っている、いや、間違っているのはお前の方だ、という非難の応酬になり何も解決しない。対立は深刻化し、いずれ戦火を交えるところまでエスカレートするだろう。現に2018年12月に起きた韓国海軍による自衛隊の哨戒機へのレーダー照射事件などはその最初の段階にあるような深刻な事態である。私ももちろん戦争も殺し合いも反対なので、この韓国と日本の対立は収めなくてはならないだろう、と考える。では、ただ向こうの言い分を聞いて何も反論をしないことが正しいのだろうか?

 最初のところに出てきたノムヒョン大統領は左派の政治家であった。第二次大戦後に生まれた韓国は、現在にまでアメリカ軍の基地が置かれていることからも分かる通り日本と同じ西側の国である。自由と民主主義を標榜する西側国家は通常、国内的には左派と右派に別れているものである。そして右派は保守民族主義的であり左派は革新的リベラルなのが普通だ。欧米にしろ日本にしろそれは同じである。しかしそんな公式も唯一、韓国だけには当て嵌まらない。韓国では右派も左派も同じく民族的なのである。その原因は北朝鮮の存在によるところが大きい。北朝鮮に敵対的なのが右派であり、融和的なのが左派になる。韓国の左派は同じ民族の北朝鮮に視線を向けているのでリベラルなのに民族主義的であり、その点だけ韓国は特殊なのだ。ノムヒョン大統領は若い頃、当時独裁政権を敷いていたパクチョンヒ大統領に反対する民主化運動に身を投じていた。厳しく弾圧されていたそうである。そんな若き運動家の希望だったのが、北朝鮮なのである。韓国の政権が自分たちを弾圧するのだから、その敵の北朝鮮は当然味方になる。韓国内の米軍基地を追い出し、朝鮮半島の統一を掲げる北朝鮮から見ても、彼らは使いやすい駒になる。実際に韓国内の左派は北朝鮮と通じていた。そんな北朝鮮の工作活動は当然のようにこの現在のインターネット空間にも及んでいる。

 北朝鮮の工作員が韓国内の掲示板に日本人になりすまして「また韓国を植民地にしてやるぞ」などと書き込めばそれを見た韓国人のネットユーザーは当然、怒り心頭になる。それと逆のことを日本でやれば、キーボードから生み出された安直な嘘で日本人と韓国人を憎み合わせることができる。よく言われる日韓離間工作の単純な例だ。こんな私の主張はまったく何も証拠を掴んでいない陰謀論のようなものだが、工作員がまったく暗躍していないと考えるのもウブすぎる。現に韓国内においては、北朝鮮に敵対心などこれっぽっちも抱いていない市民や政治家を大量に生み出し、北側による長年の融和工作はすっかり完成している、とまで専門家に言われている。2017年にはノムヒョン大統領の盟友であり、彼と同じく若い頃には民主活動家だった、ムンジェイン大統領を誕生させている。彼と実際に会い話を聞いた日本の外交官で韓国大使だった人から、この人は北朝鮮のことしか頭にない、とまで評された反米、反日志向が強く、北朝鮮には融和的な大統領だったが、選挙で選ばれたということは「北朝鮮は味方だが、日本は敵だ」と考える韓国人が半数以上存在しているということなのだろう。

 日本と北朝鮮は未だに国交がないが、韓国とは1965年に国交を回復している。20世紀にはまだ日本統治時代に生まれ育った韓国人が多く、反共の防波堤として機能していた面もあり日本側にも韓国にシンパシーを抱く人も多かった。自民党の政治家と韓国の右派政治家は日本語で話をしていたそうである。しかし21世紀になり、日本統治時代を知る世代は少なくなって昔ながらの儒教的な思考が復活する。そこに北朝鮮による融和工作も浸透して、もう韓国は半世紀前とはまったく別の国である。北朝鮮による核開発問題に韓国がそれほど熱心でないのは「北朝鮮の核は統一したら自分たちのものにもなる」と考える市民が多いからだという。日本と韓国が対立するだけなら単純な関係だが、そこに北朝鮮が絡んで裏で暗躍するので、まったく複雑極まりない状況を生み出しているのである。

 よくあるテレビの街角インタビューでこんなものがある。まだ小さな赤ん坊を連れた若い夫婦にインタビュアーが「どんなお子さんに育っていほしいですか?」と問いかける。そして若い夫婦からこんな答えが返ってくる。「どんな人生を歩んでもいいですよ。人に迷惑を掛けなければ」と。まったくよくある風景だ。そしてわれわれ日本人は何も不思議に思わない。人に迷惑を掛けない、それは日本人が社会で暮らす上で当たり前のようにもっている道徳観である。別の言い方をすれば日本人の宗教だ。ではその人に迷惑を掛けないことが大切だ、という考えが世界共通のものかといえばそうではない。儒教的な世界では「人に迷惑を掛けないなんてことを考えていたら小さな人間になってしまう。この子には大きな人間になって欲しい」と言う親も多いという。もちろんそれは悪いことではない。彼らがそういう宗教だということであり、宗教に良いも悪いもないのである。

 日本人は過ぎたことをいつまでもくどくど言うのはみっともない、という価値観を持っているが、だからといってそれを韓国人に押し付けるのも正しくはない。逆に韓国人の価値観をただ受け入れて、いつまでも謝罪し続けるのも正しくはない。永遠にすれ違うしか道はないのである。もちろんそれでは何も解決しないが、戦争状態に突入するよりはいくらかマシというものである。

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