赤穂浪士と茨城県の意外な関係
「仮名手本忠臣蔵」を始め、多くの創作の題材となった赤穂浪士の討ち入り(赤穂事件)。歴史上の有名な出来事であり、各地に赤穂事件ゆかりの地があります。
事件の舞台となった江戸では、松の廊下跡(江戸城内)や泉岳寺などがあります。また、浅野内匠頭の領地である赤穂でも赤穂浪士たちが顕彰されています。
他、大石内蔵助が討ち入りまで住んでいた京都の山科や、吉良上野介の領地があった愛知県西尾市吉良町などが有名です。
さらに細かいところでは、岡山県の備中松山城に大石内蔵助が訪れたことがあります。
今回紹介する「赤穂浪士ゆかりの地」は、茨城県笠間市です。一見して何のかかわりもなさそうですが、笠間市には大石内蔵助の銅像があります。
実は、赤穂藩主であった浅野氏はもともと笠間藩主でした。近世大名の浅野氏は、豊臣秀吉に仕えた浅野長政に始まります。長政の次男・長晟(ながあきら)の系統は広島藩主です。
長政の三男・長重は元和8(1622)年、笠間藩5万石を与えられました。浅野氏家老・大石家の屋敷跡が笠間市に残っています。
浅野氏は正保2(1645)年に赤穂へ転封となり、その約60年後に赤穂事件が起きました。そのため、年配の義士の中には、笠間出身者も含まれています。
義士の中で最高齢だった堀部弥兵衛を始め、吉田忠左衛門、間喜兵衛、間瀬久太夫、小野寺十内は笠間藩出身でした。
その縁から、地元では「笠間義士会」が結成され、笠間と赤穂浪士の関わりを語り伝えています。
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