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与えることは奪うこと

夫が亡くなって1年。
過干渉だった義母と関わる事もほとんどなくなった。
心の中もだいぶ整理できた。

それでも今もなお苦々しく思い出すことがある。
それは結婚してから義母が私に沢山の物を渡してきたこと。
手縫いのカーテンに始まり、キッチン用品、息子の服、おもちゃ、私の服、毎日の食糧に至るまでありとあらゆる物を義母は無断で買ってきた。
それだけじゃない。
義母はずっと捨てられなくてとっておいた自分の物を私にくれた。
義母が昔使っていた古いお菓子のレシピ本。遠い昔に結婚式の引き出物でもらったカトラリーセットや包丁セット。夫が小さい頃に使っていたレゴ。義母が使わなくなったアウター。

それらを渡す時、義母は決まってこう言った。
「30年なんてあっという間だった〜!取っておいてよかった〜☆」と。

確かに義母にとっては良かっただろう。
捨てる罪悪感を感じる事なく、分別してゴミに出す苦労もなく、私に押し付けることができたのだから。

そうやって何年も義母の要らないものを貰い続けて気付いたことがある。

義母の要らないものは私にとっても要らないものだ!
私は義母のゴミを押し付けられていただけだ。

もちろん義母はそんなこと微塵も気付いてない。
「無駄にならなくて本当に良かった。
長年とっておいた甲斐があったわ。」と心底満足していた。

でもゴミを押し付けられた方は結局使えない。
頑張って使ってみてもみても、全く趣味じゃない古ぼけた物を使うのは気が滅入るし義母に対する憎悪が募る。

そして結局それらを私が捨てる事になるわけだけど、
「物を捨てる罪悪感」と「他人(義母)からもらった物を捨てる罪悪感」
二重の罪悪感を感じる事になり、これまた義母に対する憎悪が募るのだ。

そうやって募りに募らせてきた憎悪が未だに消えなくてビックリする。
側から見れば義母から沢山の物をもらって私は恵まれているように見えただろう。愛されているように見えただろうし、実際義母はそう思ってやっていたのだろう。

でも実際に私が受け取っていたものは「愛」じゃなかった。
義母の「不用品」と「罪悪感」と「憎悪」だった。

今でも義母からもらったカトラリーを使っていると嫌な気持ちが蘇る。

義母の考える「愛」は干渉すること。心配して先回りして自分がなんでもやってあげること。

でもそれは義母の不安を解消することであって、子供を愛することとは違う。

義母がやったことは、自分の不安を解消するために子供をコントロールすること。自分が一人になるのが怖いから子供に執着すること。
これを「愛」と呼ぶのだから恐ろしい。

子供を心配しているというと聞こえはいいかもしれない。
他人から見れば良いお母さん風に見える。
けれど過剰な心配は結局子供を信頼していないことの裏返しだ。
そして子供を信頼できないのは義母が自分自身を信頼していないからだ。

自分の気持ちをとことん無視して自分に鞭ばかり打ってここまで来たのだろう。自分との繋がりが絶たれているから不安で仕方がない。
それを子供を使って埋めようとしているのだ。
子供がいつまでも自立できないように、手をかけ目をかけて全力で手元に繋ぎ止める。
不安を煽り、その不安を自分が解消してあげることで自分がいないと生きていけないように思わせる。

そうやって子供に尽くすことでしか自分の価値を認められない。
子供が自立して遠くに行ってしまったら、尽くす対象を失ったら、自分の価値がなくなる。
空っぽの自分と対峙するのが怖いから子供が大人になっても全力で執着する。

そんな義母から夫は離れられなかった。
私もそんな義母に最初は憧れて結婚したのだから本当に未熟だった。

子供に頼まれてもいないものを与え続けるのは虐待に近い。
子供に先回りして与え続ける行為は子供から自分自身に対する自信と信頼を奪う行為だ。そうやって育った子供は「お母さんがいないと自分は何もできない」と思い込まされている。そうやって母子は永遠に一緒にいられる仕組みになっている。






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