母の日に想うこと
どうやら今日は母の日らしい。
なぜ「らしい」なのかといえば、私はもうかれこれ3年くらいはニュースを見ていないし、テレビも2年前に処分して、そういった世間の流れとは無縁の生活をしているからである。
そうは言っても「母の日」には多少の罪悪感がお腹の底に湧いてくる。私には一応ふたりのおかあさんがいるからだ。
一人は私に無関心なおかあさん(実母)、もう一人は私に過干渉だったおかあさん(義母)どちらのおかあさんも最近まで大嫌いだった。憎んでいたといっても言い過ぎじゃない。
特に夫が亡くなってからは、私の心の皮膚はズル剥け状態になって感度が爆上がり、少しの違和感も見逃せなくなってしまった。少しの心ない発言にも異常に傷付いてしまう。ふたりの鈍感なおかあさんたちは私を最も簡単に傷つける凶器と化してしまった。
だからここ2年はふたりとは厳重に距離を置いていたのだ。この人生最大の苦境を生き延びるためには、私は私を全力で守らなければならなかったから。罪悪感を誤魔化すために、何かプレゼントを送りつけるのは簡単なんだけど、実際大した感謝もしていないのに物だけ送りつけるのも「なんだかなぁ」という感じ。
むすめから無視されているふたりのお母さんが自分のことを可哀想に思ってジメジメしている感じがして気が滅入るけど、今私にできることは罪悪感から生半可な気持ちでふたりに関わっていくことじゃない。
どうせなら心の底から感謝したいじゃん。その世界線に行くために今私に必要なことは、徹底的に自分を満たして、安心を育んで、自分の傷を癒していくことだ。
そのために、今日も私は全力でふたりのおかあさんから距離を置いている。
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