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浪人淡々譚

浪人、と口ずさんでみる。
嫌な気持ちはしない。むしろリズミックな言いやすさがある。
「〇〇さん家のあの子、浪人するみたいよ」という井戸端会議のセリフであっても"浪人"の響きに緊張感はない。しかし、それでも現役の受験生にとってみれば、この言葉はレクイエムに等しいのも同然だろう。昨今の"現役志向"(つまり、浪人せずにどこでもいいからとりあえず大学に入っちゃおうの精神)の高まりは浪人のハードルを大きく上げている。

先日、友人3人とハンバーグを食べに行った。決して3人でいて疲れるような距離感のある間柄ではない。むしろそれぞれ大変仲の良い3人である。
私は多少腹に余裕があったので定食を食べようと考えた。なにせ、そこは定食に付く野菜ジュースが美味しい店であったからハンバーグ定食を食べるのは必然とまで思われた。しかし、他2人は腹に余裕がないということでハンバーグのみを注文すると言うのである。なんだか自分だけガツガツ食べるのも申し訳ない気がしてきた。そういうことで私はこの2人に同調して、ハンバーグプレートのみを食べることにしたのである。(もっとも、お目当ての野菜ジュースが定食でなくとも付いてくることが判明したので悔恨のない変更ではあったし、会は非常に楽しかった。)

懇ろの間柄でさえも、他者と違う選択をすることには苦労がいる。同調することは楽だ。選択の責任は自分に無いかのように思えるし、たとえ間違った選択をしたとしてもみんな間違っているのだから。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」のである。まして、全国の現役受験生の多くが18の春を大学生として過ごそうものならば、"自分もそうでいなければならない"という意識が強まるのも当然だ。大学生活を謳歌するかつての同級生のストーリーを、予備校の昼休みに眺めるなんて惨めさを味わうわけにはいかないのである。

しかし、私はあえて言いたい。
諸君、

存分に浪人したまえ。

もちろん、ここには自分から浪人の道に進んで入るべしという意味はない。むしろそれは最も軽蔑されるべき行為である。現役のかけがえのない瞬間を浪人前提に歩むのはよろしくない、端的に親不孝者である。(そもそも"親不孝"という概念も旧態的で、あまり"令和的"ではないのかもしれないけども。)ただ、4月1日に入学式で座る椅子を確保できなくなってしまった君が、どう4月1日を過ごすのかという意味において「存分に浪人したまえ。」なのである。

私は不幸にも浪人してしまった。
それは絶望であった。
絶望は決して、失望ではない。
大いなる力なのである。
その力とはなにか、令和という時代において浪人の意義とはなにか、を自身の経験を通して多少なりともこの文章で明らかにできればよいと思う。

(私の"絶望"概念に関しての簡略的な解説はこちら)


注:カッコ書きが多いですが、結構大事なこともカッコ書きに書かれてることが多いです。カッコはあくまで全体論理から弾き飛ばされた部分の意味なのでもれなく読んだ方が益があるかもしれません。


浪人という絶望があった。

2023年3月21日、春分の日。卒業式の時に着ていた厚手のコートはもうすでにタンスの奥にあった。春物の上着はそれだけでは少し肌寒く、なんとなく暖かい飲み物が飲みたくなる。この時期を示唆する物事に、春分の初候というものがあって「玄鳥至(玄燕が南から至る)」ことが古来より言われている。けれども、北の地の乾いた空に、南国の空気を携えた燕の姿は見えない。私の下に到来したのは"浪人"という現実だけだったのである。

あの日、私は野暮用があってどうしても隣町へ行かなくてはならなかった。(その野暮、というのも飛んだ野暮なのだがその話はまたいずれしよう。)今でも鮮明に覚えているが、11:45分発の鈍行に乗り込んだ私は、車内で発表の刻限である正午を迎えた。毎度のことそうであるが、合格確認のタブを開くときにどことなく「合格」の2文字が走馬灯のように頭に浮かぶ。あるいは、自分の受験番号が確実にそこにある映像が流れる。本当に一瞬のことなのだが、なによりも鮮明に理想図が頭をよぎるのだ。けれども、現実はそう上手くはいかない。2023年3月21日の正午、私の眼前に私の受験番号はなかった。この瞬間をもって私に、大学に行くという選択肢は眼前に消失したのである。希望が全て絶たれると言う意味において、まさに文字通りの絶望をここで味わったのだ。

人生は不条理だ。グレゴール・ザムザはある朝突然巨大な虫になってしまったし、ムルソーは母親が死んでも涙の一つも流さなかったことを理由に死刑を宣告されてしまった。不条理とは、人生における巨大な空虚さそのものである。人生への無意味、を感じること。それが不条理である。不条理にぶち当たった人間に、ふと浮かぶ選択肢に"自殺"がある。けれどもそれは人生への根本的な不条理への解決ではない。あなたや私が死んだところで、不条理の苦しみは世界から消えることはない。今日もどこかで誰かが巨大な虫になり、あるいは誰かが浪人することになり続ける。だから、決してグレゴール・ザムザは自分から死を選ぼうとはしなかった。むしろ積極的に、パワフルに、狭い室内を這い回ったのである。自分から、歩くという人間らしい行為を捨てて、積極的に虫として這い回ったその姿は、不条理を受け容れたたくましい姿なのである。私もグレゴール・ザムザになろうと思った。高校時代のどんな実績など顧みずに、ただ1人の浪人生として自身の身の程を受け入れて這い回ってやろうと。こうして、私の絶望は、その空虚から強大なエネルギーを発揮していくことになるのである。

失望になってはならない。

私の浪人は絶望から始まった。絶望は力である。だからこそ、今日まで私は浪人生活を続けることができた。けれども、もしこれが失望であったならば、もっと別の道に進んでいたかもしれない。

絶望と失望の違いはなにか。不条理は実存的な問題である。つまり、"わたし"の問題なのである。あらゆる可能性の喪失という点で、絶望と失望は同じである。しかし、絶望は実存的に受け入れられるが、失望は実存的に受け入れられないという決定的な違いがある。

たとえば、あなたが浪人することになったとしよう。けれども、あなたはなぜ自分が大学に入れないのかを知ろうとしない。あるいは、浪人するという現実をいつまで経っても受け入れられない自分は志望大学に入れたはずだ、といつまでも過信し続けている。あなたが他人に失望する時、常にどこかで他人に対して何かを期待していないだろうか。それは実存的な意味における失望も同様なのである。自分への過度の期待が自分への失望を生む。失望は決して力にはなり得ない。そういう人は、決して浪人するべきでない。おそらく、ゴールデンウィークが終わった頃にK塾やS台の〇〇大学対策講座の椅子に君の姿を見ることはないだろう。

精神的に自殺してはならない。


こと、不条理に関して最悪なのが自殺である、というのはカミュもキルケゴールも言及している。それはただ、命を断つという行為だけを言うものではない。たとえば、なにか一つの固定観念に縛られて、そこを乗り越えようとしないことなんかも一種の自殺といえよう。浪人することになった自分を極端に卑下する人がいる。もちろん、それは不条理や現実を見つめる視点として間違っていることではない。しかし、その地点から何も発展しないのでは意味がない。現役の時の自分を乗り越える営為こそが浪人であるのだから、現役の時の自分を見つめて卑下するだけでは浪人生活は成功しない。それは精神的自殺である。「自分なんかどうしようもない数弱だからさ…」、「共通テスト国語5割しか取れなかったし、国弱なんだよね」などという言葉は一見浪人生らしい言葉なのかもしれない。しかしこれらの自分を卑下する言葉は全て言い訳になりうる。「自分は数弱だから、数学が取れなくてもよい」、「自分は国語ができないから、ほぼ運ゲー」。現役の時の自分に執着しすぎることが、浪人生活の怠惰への言い訳に容易になりうる。

絶望と誇りの止揚として"全落ち"を避ける

最も精神的自殺を避ける方法として、"全落ち"しないことを挙げたい。志望校には落ちた、けれども行こうと思えば大学には行けた。この「プライド」と「絶望」のバランスが取れた状態を最悪浪人する場合であっても作り出すようにするべきだ。

筆者は現役時に全落ちしていたわけではない。中央大学の法学部に共通テスト利用で合格していた。別に行くつもりも、何もなかった。ただ、MARCHの中では一番自分で合格した事実を誇れる大学を選んだだけだった。結果的に入学金も支払わず早々に蹴ってしまったわけだが、この併願校に受かったことは浪人生活の間でささやかながらプライドになった。
(注:MARCHを志望してあくせくしている受験生を片目に、「そこ、俺共通テスト利用で受かってるし」という某学歴系Wチャンネルの赤い何某ばりの"イキリ"を見せていたわけではない。むしろ、予備校に入ってそういう態度でいることは周りの人間関係を狭めたり不和にするだけである。浪人生活においては特に、人間関係の不和によってくだらない時間を過ごさなければいけないのは最もよろしくないので、謙虚に生きよう。)

この誇れるかどうか、というのはレトリックの問題だ。例えば、浪人して東大を目指す人が地方のFラン私大に共通テスト利用で合格していてもその誇りの強度は小さい。誇りが絶望に容易に負けてしまう蓋然性が高いだろう。別に学歴厨のようなことを言いたいわけではないが、浪人をしようがしまいが一つくらいは自分が誇れるレベルで、かつ合格しそうな併願校を用意することを強く推奨する。そのレベルの手駒があって初めて健全な「浪人か、進学か」という選択が行えるはずである。(浪人と進学の是非に関しては失敗小僧先生のYouTubeに非常に精緻な考察がアップされている。『クズ授業に学費を払って一生底辺奴隷派遣になる』など)

(もちろん、併願校に出さなくともこの誇りを得られる場合がある。それは、「僅差落ち」や「本番自己ベスト達成」などの実績である。しかし、これらの実績は併願校の合格によって誇りを得るよりも不確定要素が大きいのでなかなか推奨はしにくい。けれども、志望校の選抜性が非常に高い大学である場合や、どうしてもその大学に行きたい場合にこの類の「誇り」は非常に強い効果を発揮すると考えられる。)

春のやる気は桜とともに。 

拝金主義者が人間を高められるのか?

浪人することになった時、まず初めにすることといえば"予備校探し"である。宅浪は選択肢にないのか?と思うかもしれないが、できる限りそんな可能性は無くしておいた方がよい。もちろん、家庭の台所事情で宅浪を余儀なくされる人もいるだろうが、そうでなければ予備校に行くのが浪人のセオリーである。私はこのセオリーに抗うことなく従うことになる。

予備校、と聞くとS代やK塾、Yゼミなんかを最初に思い浮かべるだろう。私もその1人だった。当然のように、三大予備校の「〇〇大学対策コース」のようなところに入るつもり満々だったのだ。しかし、私は全く違う選択肢を取ることになる。そもそも、予備校も塾も公的機関ではない営利機関である。どれだけ「生徒のために全力を!」などと言っていても結局は、直前期になって「あなたは、〇〇と△△と〜(中略)の講習を取らなきゃならんですな!」と講習代と称して大金をせしめるのが関の山である。(某T進にしろこの匂いは拭えない。高校3年間T進に行くくらいなら都市の私学になんなく通えるのだから。考えものである。)そんな中、一つの違う選択肢を見つけることとなった。"クラズユニック"である。

そもそも、私はあまり過度な努力に耐えれる人間ではない。私がクラズを選んだ理由はただ一つ、"拝金主義者"ではないように思えたことだ。クラズは生徒数が大手の1/4程度しかいないし、札幌駅から少し離れた麻生という場所にある小さな予備校だ。だからもちろん、情報の量やテキストの質などは大手に大きく劣っている。(これに関しては新課程下で浪人する人にとってはより死活問題であろうから、強く大手予備校で浪人することを進める。)だが、クラズユニックは"面倒見"の良さと"自習時間"の長さではどこの予備校にも負けない。クラズユニック理事長のF氏がしばしば言う「受験とは人間七分勉強三分」の精神がそこにはあった。ここは受験勉強を「ただ受かればいい」とは思っていないと、強く感銘を受けたのである。まるで運命づけられたかのように私はクラズユニックを選んだ。

けれども、これは自分に合った選択肢あるいは、自分が見出した答えというだけだ。どの塾に行ったとしても合格や成績上昇さえすればおそらくあなたが最終的に下す評価は「あの予備校はよかった」となるであろう。浪人の絶望の中でよく自分を見つめることになると思う。そこで得た自分の特徴や性格を、各社予備校の商品、性格、姿勢などとのマッチをよく見極めて、選択をする方がよい。ただ一つだけ強く言いたいのは、必ずしも三大予備校だけに視野を狭めることは良いとは限らないということである。

(実用的なアドバイスとして、「学校法人か否か」というのがある。三大予備校やクラズユニックは学校法人だが、四谷大塚など一部の予備校は学校法人格を持たない。実はこれは生徒の待遇にとって大きな問題である。つまり、学校法人予備校の生徒は"専門学生"扱いになるので、映画館や美術館、博物館などで大学生料金が適用になる。また、JRの学生割引切符の購入も可能である。このように学校法人の予備校の方がなにかと社会的に融通の利く場合が多い。)

寮に入る。仕方なく。

予備校を探すに当たって、「寮に入るべし。」という父の言葉は想定外だった。あまり口うるさく意見を言わない父なのだが、この時だけは明確な意思を表明した。私はと言うと、都市に住んでいる祖母の家に居候するつもりでいたからこの意見はあまり合理的には思えなかったのである。しかし、今になってこの「寮に入るべし」という言葉はよく理に適っていた発言だったような気もする。

多くの選抜制の高い大学を目指す受験生は、中高の段階から多くの時間を受験勉強に費やす。あるいは、それ以外の時間があったとしても友人と遊ぶか、ゲームやスマホに浪費する時間が大半であろう。そこに、家事や料理をする時間が"日常的に"組み込まれている人はマイノリティである。私の父風に言うならば「お前なんて、なんもできない。」なのである。もちろん社会的に適応性の高い人は大学に入ってからでも家事や料理の能力がすんなり身につくだろう。しかし、浪人をしてしまうような人の多くは適応性が低いから浪人をしているのであって、そのように話がうまく進むとは考えにくい。予備校の寮というのは、食事は朝晩提供されるが、掃除や洗濯は自分でしなければならないところが多い。つまり、一人暮らしとも実家暮らしともいえないアンニュイな位置に寮という場所はあるのだ。大学に入るまでのモラトリアムの1年間をこのようなアンニュイな場所で過ごすことは、大学以後の生活を見据えた上での導入として非常に適していると言えよう。

そして何より、仲間がいる。もちろん、予備校に入ってもあるいはTwitter上の浪人界隈に居たとしても仲間は作ることができるのかもしれない。しかし、やはり「同じ釜の飯を食う」ことによって得られる仲間はかけがえのない絆を生むように思う。これは科学的にも説明することができる。毎日朝晩を共に食べることで、実はオキシトシンというホルモンが体内で多く発生する。このオキシトシンとは愛情や親密性を形成するのを促すホルモンである。ペットなんかと触れ合う時にも同様のホルモンが出る、らしい。つまり、寮の仲間というのは概して他の浪人仲間よりも強い絆で結ばれるのである。だからこそ、授業や自習にみんなが行けば自分も行かなければならない義務感が連帯感の中から不思議と生まれてくるのである。サボってる奴らを尻目に、「俺たちはやってるんだぞ」という優越感を最大化することができるのである。

私の予備校は寮生自習という寮生だけの自習時間があった。夕飯を食べたあと18:50から始まるその2時間は、想像以上に過酷である。満腹感からくる睡魔や、激しい倦怠感がそこにはあるのだ。そんな場所に進んで歩もうとは、1人では思えないだろう。現に、友達のいなかった寮生は段々と寮生自習に来なくなっていった。「あいつも行くから、しょうがなく」という精神が実は妙な強制力を発揮してくれるのである。

寮に入らないにしても、人間関係をある程度の形で豊かにすることは自身の勉強への義務感に良い影響を及ぼす可能性がある。このことは心の片隅に入れておいてほしい。(もちろん、過度に人間関係に熱心になりすぎるのもよくない。リア充だった浪人生は軒並み失敗している傾向がある。多浪界隈では、リア充の一浪は成功するなどという幻想が囁かれているがそれは単なる童貞の妄想に過ぎない。)

薄い学びに耐えかねる

筆者は春先に食欲が狂乱した時期があった。朝夕は寮食があるのでそこそこ健康的だった。けれども、毎日昼食にマクドナルド、夜はカップ麺に炭酸ジュースというような暴飲暴食がそれに加わっていたのだ。ジャンクフードの塩味に慣れすぎると、味噌汁の豊穣な塩味が少し退屈になってくる。もちろん、別に和食が嫌いなわけではない。けれども、これを端緒になんとなくジャンクフードを食べ続けることを志願するような負の循環が動き始めるのである。(私の場合は、毎日昼食に千円以上費やしたせいで予算面が苦しくなって負の連鎖から抜け出したが。)

浪人生の春もこのような雰囲気がある。特に選抜性の高い大学を志望していたのであれば、現役の晩期にかけて取り組んでいた内容はかなり高度なものである場合が多い。「俺は数学はプラチカ、英語は『やっておきたい英語長文1500』レベルだ!」などと意気込んでいては出鼻を挫かれる可能性がある。予備校としては、浪人生が浪人生になってしまった理由を「基礎の欠如」に帰着させたがる傾向がある。たしかにこれは一理あると思う。そのため春先〜夏季にかけては基礎定着ともう一度真剣に向き合うことになるのだ。ただ、いくら理があるからといって、全員に当てはまるわけでもない。あるいは、当てはまっていても自分を発展レベルの人間として信じて疑わない「偽装秀才くん」がたくさん発生するのである。

春先というのは浪人生が一番やる気のある時期である。自分も腹を括った、親も応援してくれている、頑張る以外の選択肢はない!などと心の中で強く思っていても、蓋を開けてみればそこにある現実は"基礎固め"。出鼻を挫かれる思いがするのである。「なんだこんなことわかってるに決まってんじゃん」、「言ってることが簡単すぎんだよ、ゴミ講師」と心の中で思うかもしれない。けれども、そこでその"基礎固め"という不条理を受け入れることができるかどうかで、浪人が成功するかどうかが決まると言っても過言ではないと思う。別に、"基礎固め"をしなくてもよいとしても、あるいは必要だったとしても、講師や予備校から言われたことを「はい。」と言う素直さが実は大切だと思う。

春先に捻くれたあなたの"予備校"への態度は、1年間続く"浪人生活"への態度へと徐々に変貌していくことになるのである。

これを回避するには?簡単なことである。薄い学びに耐えよう。ぐっと堪えて、授業を切ったりせずにロボットのように朝から晩まで予備校に行こう。春のやる気が桜とともに散っては困る。あなたという大きな蕾が花開くのは来春なのだから。今春咲いてしまっては全く意味がない。


浪人生活はモラトリアムである。

"行きたいとこ"を求めて

高校1年生の自分というものは、全然世間を知らなかったと思う。高校2年の自分というものは、全然世間を知らなかったと思う。高校3年の自分でさえも、全然世間を知らなかったと思う。今の自分も…やはり世間を知らないような気がしてならない。

所詮20年も生きていない人間の知っていることなんてたかが知れている。だから、その未知に自分を賭ける、というのも生き方としては悪くない。暗い霧の中を暗いままに行くというのはそれはそれでいいじゃないか。けれども、せっかくの人生なのだから暗中航路に一筋の光を灯す灯台を作ったっていいような気もするのだ。つまり、やりたいことを見つけて人生に軽く線路を引いてみるということ、である。

「やりたいことがない、けれども受かりたい第一志望校はある。」というのは一見ありきたりな光景のように思えるが気持ち悪い。非常に気持ちが悪い。つまり、「食べたいものはない、けれども買いたい食べ物がある。」とさほど言っている論理は変わらないのである。スーパーに行って、食べたくもないものを買いたがる奇妙さを君は保有していることになるのだ。

かといって、「やりたいこと」を見つけようとするとすぐに「手に職つける」実学を学ぼうとする。医者、弁護士、教職、公務員、どれも立派な仕事だが少々視野が狭くはないか?私はいつも思うのだが、どういうわけか頭が良くなると「人の命や精神を救いたく」なって、実学を学びたくなる人がたくさん出没するようだ。これもまたひどく気持ち悪いと思う。反吐が出る。自分が学びたい、という個人的な意思の動機が他者への奉仕願望によって支えられている構図はあまりオツムが整っている人の考え方ではないように思える。本来、我々があるべき動機の在り方はもっと違うはずだ。

自分が極める気の起きない学問を修めたところで果たして、そんな中途半端な学問が他者を救うような成果を導くのだろうか?という問いから出発したい。北大名誉教授のS氏が、しばしば予備校に訪れて授業をしてくれることがあった。彼は、京大理学部を出て理学博士、医学博士のどちらも持ちながら海外大での研鑽も経て学問を極めに極めた人だ。そんな凄腕研究者の彼でさえ、やっと臨床の場で役に立つような研究を名誉教授になってから取り組むようになったのである。彼の話からは「科学は人の暮らしをよくする」という簡単だが強い信念をひしひしと感じる。このポリシーのもとに、進学して研究の道へと進み、最終的には社会にその成果を還元していくのである。これはアカデミックな例だが、アカデミーに限らず実社会の多くの場合、何かを極めきらずにその分野で貢献することは難しい。そして何かを極めることは、更に難しい。好きでもないことを極められるほどできた人間はそんなにいない。ならば、好きなことを見つけた方が最終的に社会に貢献できる蓋然性は高まるのではなかろうか?こういう発想が健全だと思うのだ。

好きか好きでないか、は相対的な知識量に依存するところが大きい。だから、何事にも人よりちょっとだけ多く関心を持つことが肝心である。これは自分の好みではない、と言って何でもかんでも門前払いする姿勢は"やりたいこと"を余計に遠ざける。たくさんバットを振っていればいつかはホームランをかっ飛ばせるはず。そんな気持ちで"すきなこと"を選別してほしい。それが"行きたいとこ"につながるはずだから。

教養羽ばたけ、モラトリアム

大学受験勉強というのは、人の学問的な伸長を酷く停滞させるものであると思う。ある意味では、受験は学問よりもゲームとしての性格が強い。大学受験というフィールドにおいては"合格"という結果だけが正義なのである。手段はなんだっていいというマキャベリズムがそこにはある。これは完全に僕の意見だが、大学受験の勉強なんてものは短ければ短いほど良いと思う。できることなら最低点で志望校に入るのが一番良い。けれども、この論理で言うならば浪人という制度は受験勉強をダラダラと引き延ばす最悪の装置のように思えてくる。なのに、私がなぜ浪人を進めるのかといえば、それは受験勉強よりももっと先を見据えてほしいからだ。

この一年、私は人生で一番勉強したと思う。そりゃそうだ、直前期にもかかわらず東進でWikipediaばかり読んでいた怠惰な現役時代に比べれば"集中するしかない"環境を与えられたのだから勉強時間もその密度も大きく伸長した。けれども、自分の最善の努力をしたかというと、決してそうではなかった。"合格"することは最低条件だが、しかしそれだけをゴールにできるのは現役までだと思うべきだ。高校生活はあまりにも忙しい。目的なき受験勉強、受験ありきの受験勉強になってしまうのも仕方がない。けれども、浪人という人生最大のモラトリアムにおいては、それだけでは許されない。むしろ目的ある受験勉強が求められる。

"行きたいとこ"はただ茫然と毎日スマホを見ているだけでは見えてこない。なんj掲示板で学歴厨の論争を見ていようと、YouTubeで🟦🟥のコンビを見ていようと、あるいは大学のパンフレットを見ていても、現れない。

幸運なことに、多くの予備校が少子化の影響によって都市部に集中している。浪人を選択すればすなわち、それは都市に出ることを意味する。都市圏文化というものは、地方創生をスローガンにするこの時代において軽視されがちな傾向がある。資本主義と物資に溢れた都市の恩恵を受けたいとは思うが、住もうとまでは思わない、と。けれども若い時代において、氾濫した都市の文化を受動的に吸収するためには都市に住むことが非常に有益である。氾濫した玉石混交の"なにか"から"これ"を選択することができるのである。

ふらっと美術館に立ち寄ってみる。そんな経験は地元にいた頃はできなかった。美術館や博物館に行く時も、常に「この展覧会に行くため」という観光客的な動機づけの下に自分を投機することしかし得なかった。偶然性の出会いがなかったのである。無名の作家が開く個展に足を踏み入れることがいかに多くの思考や出会いをもたらすことか。私は無知だった。これは別に美術館に行け!という啓蒙ではない。行くのであれば、Zeppサッポロでも、北大総合博物館でも、北海学園大学図書館でもいいのである。あるいは、自分の気になる研究室にコンタクトを取ってみるのもいいかもしれない。とにかく受験勉強以外のものにできるだけ多く接さなくてはならない。広く浅く学びを深める、まさしくそれは教養としての学問活動であろう。別に一般的には遊びと思われることだっていいのだ。ゲームセンターでUFOキャッチャーをしてもいい、スポッチャに行ったっていいのである。とにかく、その一年がくだらない受験勉強でしか語り尽くせない方が貧しい。世間を何も知らないままで過ごすのではなく、昨日よりも今日、より世界を知っているほうが素敵ではないか。それが、あなたの"行きたいとこ"につながる可能性に期待して。

現役で引っかかってしまった、行きたくない学部に行くよりも、自分が納得した"行きたいとこ"に進学する方が粋な生き方である、というのはぜひJ.S.ミルにでも言ってもらいたいところだ。

モラトリアムを最大限に活かす

ぴちぴちの現役くんとよぼよぼの浪人くんが受験という同じフィールドで戦うゲームが大学受験なのだ。ぴちぴちの現役くんは最初こそ敵にもならないくらい弱いが、秋の模試になるとだんだんと力をつけてきて、浪人くんの偏差値はだんだん相対的に下がっていく。

私も七月の進研記述模試は全国100番以内の成績だったが、秋になるとさすがに(受験者の増加もあって)100番以内を維持するのは難しくなってくる。それでも、全統記述の数学で偏差値70を超えるくらいの芸当はやはりヨボヨボの浪人くんだからこその老練なやり口でやってみせるのである。

けれども、それはやはり受験勉強といういつも変わらないフィールドでの戦い。ここで優位を現役くんに取れなければ浪人生ではない。勉強で優位に立つというのは、ある意味ではミクロな戦いにおける"戦術"である。受験全体というマクロな観点で見たときに、浪人生らしい"戦略"というものがもっとあるはずだ。その"戦略"に教養というものが大きく関わってくる。現役くんと比べて一年も多く若い時間を過ごしていれば、相対的にかなりの教養の量差があるはずである。加えて、現役くんのような高校生活の忙しさもない。だからこそ浪人生(もちろん現役くんにおいても)諸君に私が進める"戦略"は総合選抜、AO入試を積極的に受けることである。

地域貢献入試を受けてみる

私の総合選抜との出会いの端緒となったのは、「共通テストを受けたくない。」という不純な動機だった。私がGoogle先生に入力した検索Wordは[総合選抜 共テなし]。これが意外にたくさんある。しかし、国公立の共テなし総合選抜は実施校が少なく、現役時の評定レベルが高い。私は実施校の中にこれといった魅力ある大学を見出さなかったので、国公立大学の総合選抜計画は頓挫した。しかし、その過程で奇妙な入試を見つけたのである。それが早稲田大学の「地域貢献・探究入試」だった。けれども、この入試は前年度の文学部の合格者が0人、それ以前も一桁代の合格者数であり倍率は10倍を超えるとんでもない入試であった。

はっきりいって、浪人のよぼよぼおじさんは現役くんのように時間に追われているわけではない。だから、準備に時間がかかる割に受かる見込みが少ないから、という理由で受けないのはありえなかった。どんなに受かる見込みが低くとも、宝くじでも買う気分で受けてみようと思ったのである。

一次試験はレポートと書類審査である。地域貢献入試であるからに、自身の地元の現状や問題点をクリティカルに、またアカデミックに記述しそれに対して方策を提示したり、どのようなことを大学で学びたいかを書く。地元の定義は難しかったが、生まれた市の問題と、その写像としての北海道の問題という定義で地元の問題点を論述した。最初、一万字くらいでざっと書いて無駄なところを削ってわかりやすく5000字程度に収めた。文章に書き慣れている私はそこまで苦痛ではなく、添削などもあまり必要なかったが描き慣れてない人はこのような部分が案外厳しいのかもしれない。けれども、例えば現役時に後期入試等で小論文対策をしていたりすればそれだけでも現役くんに対して大きくアドバンテージを保有していることになろう。(書類審査に関しては、調査書を送るだけの簡素なものなのでさほど大したことはない。)

一次試験からは、例年半分程度が二次試験に進む。幸運なことに私は二次試験に進むことになった。東京の早稲田大学3号館(つまり、かの有名な政経学部の棟である。)で小論文試験を受けることになった。私としてはこれまた別に受かるつもりもなかったので、細々と小論文対策をしつつ東京"旅行"の計画をしていたのだった。(もちろん、細々と言ってもできる限りの過去問は解いたり、小論文をもう一度勉強し直した、なにせ時間だけはあるのだから。)

10月30日、新千歳を飛び立った私は昼下がりの東京についた。ちょうど神田で古書フェアをやっていたところだったのでそこに飛び込み、友達ともそこで合流。靖国神社を参拝したあと、国立西洋美術館に赴き『キュビスム展』を見学した。これが入試前日である。ヨボヨボの浪人くんは現役くんのように緊張してガチガチで上京するわけではないのだ。そういうわけで、観光気分で受けた入試だったのだが見事にこれも通過する。(https://www.waseda.jp/inst/admission/other/2024/01/23/15728)←問題はこちら

そうして残す3次試験は共通テストだったのだが、こんなものはヨボヨボ浪人くんにとっては取るに足りない。共通テスト、国社英8割以上が合格条件なのだが現役くんの多くはここで落ちる。しかし、老練なる浪人くんは共通テストなどというゴミテストは2回目なのだなら大いにアドバンテージがあるのである。(本当に共通テストはゴミ試験だと思う。受験勉強を意味のないものにしている大半の原因は共テにある。)さくっと8割とってさっさと合格したわけだ。そうして私は早稲田大学文学部にゆくことになってしまった。北の大地に閉じ込められるよりは文学部の性質上、よっぽど学問的に伸長するのであるから仕方なく上京するのである。

中央大学のチャレンジ入試や、上智の総合入試など様々に浪人生でもチャレンジできる総合選抜があるので必ず一つ以上受験することを強く推奨する。進学校に行っていると感覚が狂うが、今や世の中の半数は一般受験では大学に行かないのである。一般選抜にこだわるような考えはとっくのとうに捨て去るべきだ!!!浪人だからこそ広がる選択肢、そして新たな戦略。これこそが浪人という絶望の持つ根源的な力なの一つではないだろうか?

浪人したら伸びるよ、そりゃ。

ここからは一般入試について少しだけ語る。(はっきり言って一般入試に関してはもっと頭のいい人の素晴らしいnoteがあるのでそれを参照してほしい。)浪人という絶望の力の最も強い部分を現役くんらに対する学力面での比較優位だと語る人がいるが、それはさほど問題ではないと思う。受かるようになるのは最低条件だ。受からなければ、予備校に払った百何十万もの大金は水の泡に帰すわけである。(そもそも、百何十万払っても自己責任という最強の言い訳を片手に浪人生を受からせることのできない予備校というものが考え直されるべきだと思う。)

仮に第一志望校に落ちたとして、受験勉強しかしてなかったあなたに残るものはなんだろう?と僕は自分に尋ねて、時折悍ましくなる。浪人の1年間は貴重な若い一時だと言うことを肝に銘じなければならない。その一年が受験という残酷な結果主義の制度によって空虚の彼方に葬り去られる可能性さえあるのだ。考えるだけでも恐ろしい。だから僕が、もし他の受験を知り尽くした人たちと違うことを言うのならば、それは一つしかない。「勉強だけが浪人生活ではない。」ということを心の片隅に入れておいてほしい。

決してこの警句は、受験にのみ適応されるものではない。ある試練があったとして、その試練だけに立ち向かおうとして容易に乗り越えられるかと言えばそうではない。昭和の天才数学者、岡潔は「論理も計算もない数学」を求めて研究にひた走った。しかし彼は、数学上の大問題にあたって数学だけを覗かない。和歌を鑑賞し、随筆を書く。日本人の情緒というものを誰よりも深く知り、情念の中にある数学的なるものを真に見つめた。その広い視野のおかげもあって、彼は3つもの数学上の大問題を解決するに至ったのである。

今日解いた問題が解けなかったのであれば、明日は少し東野圭吾(僕はこんな作家は大衆のものであって、非芸術的な二流作家だと思っているが)でも読んでみればいい。そうして読み終わって夜になったらもう一度問題を解いてみる、それだけでも世界の見え方が変わるような気がする。浪人生活全体においてもそうだ。受験勉強だけを乗り越えようとしては、どこかで破綻があるかもしれない。別に浪人だからと言って、勉強以外のことに極端な忌避を示す必要はないと思うのだ。

浪人淡々譚を淡々と締める、

淡々と牛タンを食べて、丹念に味を噛み締める。あぁ、生きているという思いがする。けれども、なんとなくブルスタの牛タンはゴムみたいな味がする。もちろん、魚べいのマグロもゴムベラみたいな味がするわけだが、これが美味しく食べれるようになるにはどうすればいいのだろうかと思い悩むことがある。精神的に向上心のないやつは馬鹿かもしれないが、あまり食に向上心がありすぎると人生損をするのかもしれない。なにも考えずに、安い牛タンやマグロを貪って「うまい!」と一言言える人生がいかに美しいことか。

不合格になって絶望したあなたも、落第して留年するあなたも、恋人に振られたあなたも、昨日は美味しかったはずのごはんが喉をするりとは通らないかもしれない。ご飯から鉛のような味がする。醤油をなめれば鉄の味がする。そんな日々が続くかもしれない。けれども、明日食べる白米が豊穣な甘みをもって舌を踊るかもしれないというかすかな望みを抱いて我々は前へと進むしかない。浪人にある絶望とはまさにそのような運動を永遠に続けるものである。志望校に合格して初めて、美味しい白米が食えるのだ。

あなたが毎日美味しい白米を食べることを祈念して、結びとさせていただく。





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