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今日、明日、明後日、明々後日も私はデカダンス。あなたもデカダンス。

11時に起きた。
1日が始まって11時間後、大変なデカダンス。
梶井も芥川もびっくりなデカダンス生活を繰り広げてしまっているここ最近のワタクシ。波一通りの感覚かもしれないが、やはり1日が短く感じられる。

デカダンスというのは怠惰なことを美化しているだけのように思えるかもしれないけれども、案外悪いものではない。というか、世の中みんなデカダンスになってしまえばいいのに。それはそうで困るのだけれども。

ただ、世の中皆デカダンス論というのもなんとなくの風来坊的構想によって導き出しているわけではない。ここには、哲学が日常とどう関わるかということの指針があるような気がしている。

退廃的な人間というのはこだわりが強いだろう。ほら現に「人間失格」のあいつだって、「檸檬」のあいつだってどこかベクトルをおかしくしたくらいに執着の強いところがある。(八百屋のレモンを爆弾に見立てて質屋の棚に置いてきて興奮するくらいには)このデカダンス的こだわりにおいて、我々は大変な哲学的共感を得られる。というのは、彼らの人生の価値の尺度はあくまで個人的でありながら絶対的なのである。ここに私は憧れる。


私はなにを好きなのか。
あるいは、なぜこれこれを好きなのか。
はたまた、これはなぜ私を惹きつけるのか。

それは、美しいから。美しいからに他ならない。審美は人を惹き寄せる全ての物事を対象とする言葉である。審美の対象はこれ全て美である。美しいものを好み、美しいものに惹きつけられる。美しいものが心を惹きつけるものである限りこの定義は永遠不滅のものであろう。

しかしながら、審美の結は千差万別の如く、多きに渡る。私は変態が度を過ぎてるという個人的判断からエドガー・ドガの絵を大変忌避しているわけだが、一方にはドガの絵を見て、運命的な(ペドフィリアなのかもしれないが)惹かれ方をして終生の糧とするものもいる。フランツカフカが至上の作家という人もいれば、トマスマンの冷静沈着な文こそが至高という人もいるだろう。好みは人の種類だけ形がある、そんなの至って当たり前のようなことの気がする。

ただし、今日はここにメスを入れたい。
趣味趣向は個人的で、その判断価値は相対的なもの。あの人にとってのあれと私にとってのあれでは価値が全く違うと思っている。美しいものが美しくないかもしれない。しかし、それを許容しなくてはならない。現代人というものの生きづらさはそこにあるのではないか。

周りの友達の「推し」だから、なんとなくで「推し」てみたアイドル。つぎ込んだ時間と金は幾許、然れどもほとんど満たされない心。みんながやっている携帯ゲーム。適当に話を合わせるためにやってみる。本当はコアなPCゲームがやりたいけれども、周りに歩調を合わせてみる。本当は、美術がやりたかったけれど親や周りに止められたから今はしがなく公務員をやっている。ここに挙げたような彼らに、「美しさ」は見えているだろうか?盲目ではないだろうか?

デカダンスはそこに異論を投げかける。
いいじゃない、美しいものに美しいと言おうよ。
そんな一切周りに自分を譲らない、絶対的な姿勢がデカダンスにはある。美しいものを常に考え、自分の考えるものが全ての人にとっての絶対的最高美だと信じて疑わない。それこそが人間共通の最終絶対美だと。

美しいは、一人一人の持ち物である前に、ア・プリオリな感性が感知できる人類共通の概念である。であるからにはきっとどこかに絶対的なものがあるはず。そんな期待と希望を胸に、我々は日々を過ごすべきではなかろうか。

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