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四軒長屋(4)  路地裏の学び舎

赤ワインがおくすり


 6歳の春、わたしは小学校へあがった。
 東富山町の自宅から、海に向かって15分ほど歩くと、わたしの通う大広田小学校があった。2学年上には姉がいたので、なかよく一緒に通った。

 姉は、滑川から転校してきて、友だちもできない早々のうちに、家が豆腐店だとどうして知られたのか、
 「豆腐(とっぺ)くさい」
と同級生から、いじめられていたようだった。
 おっとりとして心の優しい姉は、それに歯向かうこともせず、残酷な子どもたち、そして時には、大人からの格好のターゲットになっていた。

 弱い者いじめほど卑怯なおこないはない。
 いじめる方は、いじめているという意識はないのかもしれない。
 けれども、力に大きな差があってあらがうことのできない相手を、軽んじ、ないがしろにしたり、思いどおりに無理強いしたり、自由をうばったりするのは、いじめ以外のなにものでもない。

 姉もたいへんだったと思うが、わたしのほうも病弱で、体が小さく、体力的にクラスの授業や活動になかなかついていけなかった。
 体調はいつもすぐれず、2学期に入ると胃痛などが、ずっと続いていた。せっかく母がお医者さんを呼んで、往診してもらっても、診察をきらったわたしは、家の中を逃げ回る始末。
 あばれたあげくに、先生のお腹を足で蹴るなどし、出してもらった薬は嫌がって口に入れなかった。

 「この子、薬を飲まんがやけど、どうしたらいいかね」
 毎度毎度、母が口説くので、赤ワインが体にいいとどこかで聞いていた父が、仕事を終えて晩酌するうち、酔って、わたしにワインを飲ませてしまった。
 あの時の感覚は、いまでも思い出せるが、ふわーっと体が温まるのが気持ちよく、酔いが回ったのかその日はすぐに床についた。

 翌朝、起きてみると体調良好。元気に学校へ行くことができた。
 以来、体調不良のときには、たびたび家にある赤ワインを口にしたものだ。
 いまでこそ、子どもにアルコールなんて、大問題だが、当時はおおらかだったのか、父も母もわたしを叱ったりはしなかった。

虫をめでる少女


 体が弱く、学校の苦手なわたしにとっては、東富山町での長屋の暮らしや、近所の自然が学びやであり、花や虫や鳥などの、生き物が友達だった。この学びやでの命の授業は、ときに重いこともあった。

 小学校1年生の秋だった。
 近所の空き地には、たくさんのトンボが飛んでいた。

 春のチョウ、夏のセミ、秋のトンボほど、子どもと親しい昆虫はない。
 とくにトンボは、虫取り網など持っていなくても、習性を知っていれば小さな子どもでもかんたんに捕えられる。
 たとえば、竿や草木の先端でじっといるトンボに近づき、その大きな目の前で指をくるくる回す。指の動きに気を取られて、トンボはぼーっとしてしまう。隙ができたところで、トンボの胸の部分をつまむようすると、わけなく捕獲できるのだった。

 そうしてわたしは一匹のトンボをつかまえた。
 母から糸をもらうと、当時、子どもたちがよくしたように、トンボの胴に糸をくくりつけ、逃げていかないようにしながら、空に飛ばして遊んだ。
 虫をいじめているという罪の意識などはなかった。ペットの散歩でもするみたいな気分だった。

 そのうち、遊びに飽きてしまったわたしは、愛着のわいたトンボを家へ連れて帰り、そのまま逃げられないよう、裏庭の戸の鍵に糸を取り付けた。トンボはいくぶんぐったりしたかもしれない。
 わたしは部屋に入って別の遊びを始め、トンボはそのままにしておいた。
 ふと、玄関先にトンボの様子を見に行くと、一匹のトノサマガエルが、わたしのトンボを頭から飲み込んでいるところだった。

 咀嚼している大きな口からは、トンボの羽や体がはみだし、カエルの喉元でトンボが噛み砕かれている様子を、目の当たりにしてしまった。
 ただ呆然と立ち尽くしていたわたしが、ふと気づいてあたりを見ると、何十匹、何百匹もの赤トンボが、羽ばたきながらわたしを取り囲んでいた。

 「仲間のトンボを殺したね」
 そう責められているように感じた。

 その時、わたしは突然、理解した。
 トンボが死んでまったのは、わたしがいけなかったのだ。
 人であれ、虫であれ、命あるものは大切に扱わなければならない。弱く、動けなくなっているものに対しては、丁寧に接しなくてはならない。力を持つ方は、そうでない者に対し、慎重に行動しなければいけない。
 トンボを死なせてしまったことが悔やまれて悲しくて、生き物で遊んではいけないと心にきめた。

 ♪ とんぼの めがねは 水色めがね
   青いお空を飛んだから 飛んだから
(「とんぼのめがね」作詞/額賀 誠志 作曲/平井康三郎)

 いまも この歌を聞くと、胸が苦しくなる。
 あれからカエルは大嫌いになった。

いのちについて


 子ども時代の記憶として、こんなこともあった。

 ある日のこと、
「トラックが汽車にぶつかった!」
 近所の人が、そう言いながら、わが家の豆腐店にかけこんできた。
 表に出てみると、大人たちが、わあわあ騒いでいる。婚礼家具を届けた帰りのトラックが、頭から逆さまに田んぼに突っ込んだそうだ。
 現場は、北陸本線の東富山近くの線路の踏切のそば。乗客は6人だという。トラックの荷台にでも乗っていたのだろうか。

 わたしは大人たちと一緒に、長屋から現場の田んぼまで様子を見にいった。国鉄が電化されるよりも前のことだ。むかしは、そのような事故があると、怖いもの見たさから、誰もが見物に行ったものだ。

 事故の様子を目撃したという人の話によると、トラックは、なんの拍子か、走っている列車の上に乗り上げて、そのまま田んぼに逆さまに落ちていった。
 一方、列車は何事もなかったかのようにしずかに停車したという。

 衝撃の激しさを物語るような、運転席がぐちゃぐちゃに壊れたトラック。その横に、頭がつぶれて、ひと目で息がないと分かる人の体が転がっていた。
 「もうすぐ嫁入りのはずながに、お嫁さんの身内もおったがやないか」と、大人たちは話している。 

 当時、人の死は、わたしたちの身近に、ありありと存在感を持っていた。
 生きるとは、死ぬとは、どういうことなのか。
 人は死んだらどうなるのか。
 生と死、吉と凶は、縄をより合わせるように、表と裏一体をなしていることを、わたしたち世代は、幼いころから学び取っていたと思う。

 やがてサイレンの響きとともに、赤い回転灯を回して救急車が到着した。 ひとりでも助かってほしいと、わたしたちは固唾をのんで見つめていたが、間もなく、6人全員が、亡くなっていたのだとわかった。

 亡くなった方のご遺体の様子は、その後も忘れることがない。

(写真はイメージです)

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