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身体と思考の間

前回は届けたい人についてお話しました。
今回は「身体と思考の間」についてです。

今回は少し抽象的なお話になります。

言葉の可能性

今までも何度か、言葉のもつ可能性については触れてきました。
私たちの世界はとても流動的で、ある部分では曖昧なものに感じます。

それを言語化することで、大きな流れから切り離して、枠組みをつけ、限定した意味を持たせ、いっとき他者と部分的な共有ができます。

でもその言葉の枠組みの中の風景や意味合いは、一人一人全く違うものです。

親しい人や気の合う友人でも、言葉の奥を丁寧に拾えれば「あなたと私はこんなにも違うんだ」という事に気付き、互いの尊さを思い出せます。これもまた言葉の持つ可能性かもしれません。

自と他の間

この言葉による「自と他」の間にある「違い」を、自分の中でも感じることができます。それは身体と思考の間です。

身体と思考

この2つは自分の中に存在しているものですが、ある程度の距離や性質の違いを感じます。

最近は思考で身体をコントロールする表現が多く、あたかも身体は自分の所有物で、制御するものという感覚になります。

しかし、心肺機能や体温調整にはじまる、無意識に働いている「自然な身体の働き」が、どれだけ大きな役割を担っているかを思い出せると、思考からだけではなく、身体先導の視点にも気づけるのではないでしょうか。

身体からの「嫌」

身体が嫌だと感じれば、どんな方法を駆使しても「嫌」が前提の「反応や現象=抵抗」が起こり、それは繰り返される度に強化されます。その反応に対する解釈は様々ですが、場合によっては、それらを「やりがい、やった感」に置き換える事もできてしまいます。

一方、身体が心地いいと感じれば「心地いい」からの発展がスタートします。
しかしこれは「やってる感」が伴いにくいものです。
「心地いい」の探求の経験が少なく、耐えることで生きている実感を得てきたパターンにとっては、この手応えのなさが、不安に直結するかもしれません。

この様に、こういった身体先導の小さな現象を、そのまま受け取ることは、とても難しいのかもしれません。しかし、この自分オリジナルの感性感覚は、いつからでも再び育むことができます。

そして、今までの経験も肥やしとなり、身体は最も信頼できる相棒となり、思考は邪魔者ではなく、頼りになる友人だと気づきます。

沿う在り方

ついつい忘れがちですが、私たちは、絶妙な自然のバランスの中に生きています。
自然はあまりにも大きな流れなので、人間がコントロールするのは非効率的でとても難しいものです。

私の祖父母の時代を聞くと、自分たちのやりたい事を先に立てるのではなく、その土地の特徴や、移り変わる季節に沿って、自分たちの在り方を自在に変えていたようです。自と他の間に立ち、互いを感じて、流れに沿う在り方だと感じます。

これは自然や自分の身体に対してだけではなく、人間関係や組織構造でも同じことが言えると思います。

でもまずは自分の身体の中にある「身体と思考」。この両者の存在の認識して、その間に立つこと。そして今をどう感じ、何を選択し、さらにその選択をどう感じるか。これを俯瞰してみる。

そうすると、答えは外側ではなく、自分の中の、感じる力のすぐ側にある事をもう一度信頼でき、物理的な環境を大きく変えずとも、目の前の世界が、次々と変わっていくことを実感できる気がします。

次回は信頼についてです。

豊田玲子(遊びたい、身体大好き)
理学療法士 パーソナルトレーナー
2012 IFBB World Chanpionship Body Fitness 日本代表

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