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現代美術の「わからなさ」について

2019年の年末に、現代アートチーム目[mé]による「非常にはっきりとわからない」展が千葉市美術館にて開催された[1,2]。

https://www.ccma-net.jp/exhibitions/special/19-11-2-12-28/

この展覧会は私にとって文字通り、非常にはっきりとわからない体験であった。何がわかったのか、何がわからないのかさえモヤモヤとしたまま、会場を後にした。

アートと呼ばれている(少なくとも美術館で個展を開催できる)目[mé]の作品を体感し、結果として私は「わからなかった」。しかしながら、ここで書き留めておきたいのは、私はわからなかったにも関わらず何かを持ち帰ったということだ。その何かが今でも私の奥底で響き、私を突き動かしているようにさえ思わされる。


わからないという感情からスタートすることは当たり前である

現代美術がわからない理由への答えとして、身も蓋もないことを言ってしまえば、そもそも現代美術とはわからなくさせるものだからだ、ということになる。これは決して鑑賞者を煙に巻いてだますのが目的だ、と言いたいわけではない。現代美術、ひいては前衛の美術という概念そのものが持つ性質なのだ。

驚く」という言葉について考えてみる。人が驚くのは、予期していない事態に直面したときだ。わかりきっているものに遭遇しても、驚くことはない。ここで強調したいのは、「驚く」のは「わからないものに遭遇した時」であるということである。

近代以降のマスターピースとなる作品は、すべからく驚きのある作品であったと言えるだろう。マネの「草上の昼食」は、当時の常識にとって驚きにあふれた作品であった。驚きと言っても、女神ではない一般人の裸婦を見て頭に血がのぼった知識人の怒りという形で現れていたのだが。

マネ『草上の昼食』

ほかにも驚きを与えたものとしては、セザンヌの静物画やモネの「印象・日の出」、マティスの色彩、ピカソの「アビニヨンの娘たち」、デュシャンの「泉」、ポロックのドリッピングなど、数え上げればキリがない。

彼らのもたらす驚きは、平凡な驚きとは一線を画す。彼らによる驚きは、持続する驚きなのだ。平凡な驚きとは、その場限りの反応にとどまる一過性のものである。持続する驚きとは、それを一度知ってしまえばもはやそれを知らなかった自分ではいられないような体験をもたらすものだ。なぜ自分は今までそれを知らなかったのかさえ、わからなくなってしまう。このブログで上記のひとつひとつを取り上げて説明することはしないが、彼らはそれだけ普遍的な、それでいて衝撃的なものを打ち出したのだ。

私たちが、現代美術をみて「わからない」と思う時、それは「驚かされている」のではないか。もしくは、「わからない」状態に晒された宙吊りな自分を意識させられているのではないだろうか。

驚かされた人間のとれる選択肢はふたつある。拒絶か受容である。拒絶を選べば、「わからない」美術に惑わされることはなくなる。需要を選んだ人間は、「わからない」美術をわかるように努める。


具体的なわからなさの要素

現代美術にはわからなくさせる性質があることを述べたところで、具体的なわからなさの構成要素について手短に説明していく。芸術作品をみて、わからないと思った時には以下の観点と照らし合わせて考えてみるといいだろう。

1. 表現形式の新しさ

絵画によって表現されるその表現のされ方が、従来のものとは違うために、新奇なものとして感じさせられる。
例:セザンヌ
セザンヌは従来の遠近法に従った絵画ではなく、複数の視点から見た構図を、一枚の絵画に取り入れた。

2. 哲学的

作品の理論的支柱が難解な哲学的議論を基盤としており、作品を十分に理解するには参照される哲学的知識が必要となる。
例:李禹煥
日本発の芸術動向「もの派」の中心的人物。哲学的な理論によって作品が構成され、根拠づけられている。

3. 美術史の文脈

現代美術史ないしは美術の歴史のなかから、特定の文脈が抽出された作品である場合。
例①:会田誠「ランチボックス・ペインティング」シリーズ
会田誠本人が、作品の説明において参照した美術家や作品を取り上げている。
例②:ブルース・ナウマン「Self Portrait as a Fountain」
デュシャンの「泉」を意識した作品であろう。

4. 社会問題への言及

現代社会が抱える問題に言及するも、背景を知らないと作品をみてもわからないもの。
例:リュック・タイマンス「The Heritage, VI, 1996」
一見すると、一般人の肖像画に見えるが、とある白人至上主義者をモチーフにして描いており、知らない人には判読できない。リュック・タイマンスはモチーフの暴力性を意図的に隠すように柔らかな線使いで対象を描く。

5. 抽象的

抽象には様々あるが、単に作者の内面がキャンバスに描き出されているだけのものでなければ、実はそのわからなさは抽象性にあるのではなく、技法や理論、美術史の文脈等々の鑑賞者自身の知識の欠落に原因があると思われる。

6. キリスト教的な感性が必要なもの

我々日本人にとっては残念なことだが、現代美術とは本来、西洋人のものなのである。海外の人に日本人の初詣の感覚が伝わりきらないのと同じように、キリスト教的な価値観を日本人が芯から理解することは到底難しい。単に聖書の知識が必要な場合もある。
例①:カジミール・マレーヴィチによるシュプレマティスム絵画
マレーヴィチは絵画において絶対的な崇高性を表現しようとした。
例②:バーネット・ニューマン
ニューマンはユダヤ教にちなんだタイトルを絵画に付けている。

バーネット・ニューマン https://www.tokyoartbeat.com/events/-/2010%2F46EC

7. 言葉遊び

日本語のダジャレのように、英語やその他外国語流のシャレが効いた作品がある。そのような作品は日本語だけで考えても何もわからない。
例1:ダダイストのオブジェ
オブジェとよばれる特異な作品群は、身の回りにあるものが単にくっ付けられているように見えるが、実はトンチが効いていたりするのだ。
例2:デュシャン「L.H.O.O.Q.」
モナリザの複製写真に髭が付け足されたある種ジョーク的な作品で、下にL.H.O.O.Q.と書かれている。題名をフランス語で読むと、「彼女はお尻が熱い」という意味になる。


権威を盲信するところから、学問は始まる

あなたが美術館に来て現代美術なるものを目の当たりにし、わからないと感じる。そのような作品の作者、さらに言えばそれを展示する美術館に対して悶々とした気持ちを抱くかもしれない。しかし考えてみてほしいのだが、美術館が、ただただよくわからないだけのものを展示するだろうか?

美術館の展示の内容を決める学芸員は、倍率の高い職務である。学芸員となるために美術館の空いたポストを長年待つ人が大勢いる。採用されるにも、それなりの美術史についての教育を受けていたりや研究の経験を持っていたりしなければならない。彼らは国家単位の責任で、文化の保存と運用を任されるのだ。

そのような彼らが企画し運営する、現在我々に開かれるような展示は、文化的に価値があり今この時代に鑑賞するべきである、と彼らが訴えていると考えるのが当然であろう。不勉強なのは常に我々一般市民なのだ。

これはいささか大袈裟な話に聞こえるかもしれないが、文化とは権威によって上から価値付けられるものなのだ。美術館や博文館などの権威は保証されていなければならない。無知な我々には分からないものを「価値のあるもの」として提供する義務がある。市民は一旦はそれを受け入れ、個人として探究し主体的な批評家になる。それが文化というものの本来の姿であるはずなのだ。権威を盲信するところから、学問は始まる。

現代の消費社会では、文化を主体的に鍛え上げる頑健な批評者としての一般市民はいなくなった。権威から卸されるものを咀嚼し、自分なりに解釈する顎の力を失ってしまったのだ。その結果、文化自体の成長も滞り、権威は大衆に媚び、大衆はさらに文化的な底辺を彷徨う。


ネガティブ・ケイパビリティという言葉がある。これは「詩人ジョン・キーツが不確実なものや未解決のものを受容する能力を記述した言葉[3]」とされている。そもそも我々は、この世に生を受けた瞬間から答えのない船出をしているのであり、答えが与えられない世界を生きている。答えのない世界を彷徨うのは常に不安が付き纏う。そのような不安をその場しのぎの対処法で解消することに慣れすぎたあまり、「わからない」ことに耐えきれなくなってしまっているのではないか。「わからない」というワードは、ネガティブ・ケイパビリティの失われつつある現代を特徴づけるような言葉であるのかもしれない。


[1] 千葉市美術館HP https://www.ccma-net.jp/exhibitions/special/19-11-2-12-28/
[2] 椹木野衣による批評 https://bijutsutecho.com/magazine/review/21501
[3]
Wikipedia 「ネガティブケイパビリティ」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%AC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%83%91%E3%83%93%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3

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