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私が自衛隊を辞めた理由(第4章(最終章))

震災があった2011年の9月、私には長男が誕生しました。私に似て賢く、なかなかいい男ですw。

もちろん自分の子が可愛くない親などいないと思いますが、私も例に漏れず、息子がかわいくて仕方がありません。

自称イクメンとして一人息子とは相棒(バディ)のように接し、子ども目線で共に楽しんでまいりましたが、その一方で息子をあまり子ども扱いはしてきませんでした。

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子育てで特に意識をしてきたのは、頭ごなしに私の考えは押しつけず、「なぜパパはそうしたいのか?」あるいは「なぜ(息子に)やらないで欲しいのか?」を大人相手に説明するようにきちんと伝えてきました。
また、「パパはどう感じているか」、「友達はどう感じると思うか」、「息子自身は何を感じるか」など人の【感情】にもフォーカスして対話してきました。

もちろん私だっていつも決めたとおりに、100点満点の接し方が出来ていたわけではありません。大人気ないふるまいをしたこともたくさんあるでしょう。しかし、そうした意識を持って約10年間子どもと向き合ってきたおかげもあってか、今は親が何を促さずとも自分で考えて行動してくれるようになり、また、自分の感情を大事にしつつ、相手の立場や気持ちを汲んで行動してくれる子に育ってくれたと思います。私たち夫婦の気持ちを理解し、支えてくれる息子にはいつも感謝しています。

最近は逆にこんなことも言われたりしました。
ある日私は休日の過ごし方について、少し迷っていました。
(私は参加したいオンラインの勉強会がある。でもせっかくの休日、息子とも遊びたいし、息子もどこかで遊んで欲しいと思っているのでは?)と考えていました。判断材料が欲しくなった私は息子に「どうしたい?」とたずねました。すると息子は、

「パパはどうしたいの?パパがしたいことをしていいよ。俺は俺でそうしてるし、俺のことを理由にして決めなくてもいいよ。」

と、返しました。大人びた回答に思わず少し驚きましたが、息子の成長を感じることが出来、とても嬉しかったです。(その一方で何か我慢しているようなことはないかな…?という気持ちにもなるんですけどね。)

私は子どもの事を想うことがあっても「子どものために」という理由が好きではありません。特に苦労を伴うような選択をする理由として使う場合はなおさらです。

子どもは自分の親が自分のために何かを決めていると知ったときに、その行為に感謝することはあっても、そうして欲しい、と望むことはないのではないでしょうか。私が子どもの立場なら、親には親自身のために喜ぶことをして欲しいと願います。

子どもは親を選んで生まれてくると聞いたことがあります。

子どもは親を幸せにするために、あるいは親と一緒に成長し、幸せになるために生まれてきたとするならば、ぜひ親となった皆さんにも自分の幸せや夢について考える機会を持って欲しい、そして出来れば家族とその夢や幸福論をシェアして欲しいと思います。子育てが一段落してから…ではなく今すぐにでも。

子を持つ親として、我が子には自分の夢を見つけて欲しい、そしてその夢を叶えて欲しいと思うのならば、親としてその姿勢を子どもに示してあげて欲しいと思います。それが私にとっての「子は親の鏡、親は子の鑑」ということです。皆さんは親になった時点で自分の人生に向き合う事を忘れてはいませんか? ”将来の夢”は子どもだけに求めるものではないのです。

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そんな私たちの家庭は共働きであったため、子どもは1才の頃から保育園に通っていました。二人とも仕事で帰りが遅かったため保育園のお迎えに行くのはいつも最後の方。遅くなってお友達が誰もいない、電気が半分消えている保育園に迎えに行くときは申し訳無い気持ちもありましたし、迎えに行った私に飛びついてくる息子を見ては、「さびしい想いもさせてしまっているよな…」と、時折感じていました。そんな保育園生活を支えてくださった当時の職員の皆さんにはとても感謝しています。アットホームな保育園で皆さん、素敵な保育士さんばかりでした。

息子が保育園に通っていた時期に、住宅を購入し現在住むまちへ越してきました。ご近所さんとのお付き合いがはじまり、町内会の活動があり、私たち家族のコミュニティは徐々に拡大していきました。それと共に入ってくる景色や情報も変わり、また新たな興味関心が次々に増えていきました。

まちに落ちているゴミ、街路樹や道の状況、地域の役割や協力体制、保護者の声やPTAの活動、学校や学童保育の方針や対応、高齢者や障害者にとっても暮らしやすい環境になっているかなど、今まではあまり目を向けてこなかったものに意識が向き始めました。

親の在り方、考え方や家庭内の環境は一番大事だと思いますが、保育園や学校、地域における日々の生活環境やそれぞれのコミュニティ、つまりそこに属する人の発言や行動は子どもたちの成長にも大きな影響を与えます。

私は自衛隊に入隊し、特に英語を活かした仕事に巡り合ってからというもの、自分を磨き、仕事におけるパフォーマンスを高め、さらにやりがいや成長を感じられる仕事、より広い世界を見ることが出来るような職務に就くために自分の時間とエネルギーを投資してきました。異動するなら次は東北を離れ、中央の、国のレベルに近いところで修行をしようと考えていました。

しかし、ある時期を境に、「それが一体何になるのだろうか。」と考えるようになってしまいました。「私が知識や能力を高めて、質の高い仕事が出来たところで、私たち家族の暮らす社会にはどんな影響があるのだろうか。」と考えるようになっていきました。私がやってきたことに意味がなかったとは言いません。周囲への影響も大なり小なりあったと思いますし、組織の任務達成に寄与することも出来たし、誰かに感謝されることもあったでしょう。ただ当時の私には自分たちの住む地域に目を向けられず、子どもの生活や学びの環境に対して何のコミットも出来ていない自分は嫌でした。私の価値観は変化し、関心の対象は完全にシフトしました。結果として、私がこれまで生きてきた自衛隊世界の出来事は、私がこれから生きていこうとしている世界と別世界の出来事になってしまったのです。

そこから私は自分達が暮らす地域や子どもたちの成長に影響を及ぼす家庭、学校、学童保育などの親と、子どもたちを共に育てる組織の活動に公私を問わず直接関わりたいと強く思うようになりました。

退職を決断した私はまず妻に相談しました。その時の妻は、

「やっと決めたんだね。私はいつになったら動くのかなと思ってずっと待ってたよ。あなたがやりたいことを見つけて生き生きと働いてくれることが何より嬉しい。」と嬉し涙を流し賛同してくれました。妻はまるで私の未来やミッションをずっと前から見透かしていて、(あなたのいるべき場所はここではないよ。)というような表情をして話をしていました。

住宅ローンもあり、子育てもまだまだこれから、という中で、公務員としての安定を手放すことには当時全く反対せず、今も私を信じ、私の考えや選択を優しく、また力強く支えてくれる妻にはいつも感謝しています。

有り難いことに私の想いに対する上司や職場の理解も得られ、無事に円満退職を実現することが出来た私は、退職した翌日から仙台を拠点に東北の行政(市町村)と地域課題の解決に事業創造で挑むベンチャー企業の一員として働き始めました。私が関わりたかった地域に向き合う仕事に就くことができたのです。

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会社のHPを見て、直感的にここで働きたいと思った私は代表に直接メールし、採用面接を受けさせていただくことになりました。履歴書に書けるような特別な資格やスキルなど大して持ち合わせてはいませんでしたが、代表にはこれまでの経験や私の想いを汲んで頂き、また、グループ面接でご一緒した先輩社員の皆さまからのお気持ちの後押しも頂き、無事に入社することが出来ました。ここで得たものや感じたことはまた別の機会に発信させていただきたいと思います。

さて、ここまで全4章に渡って自衛官時代を振り返りつつ、私がこれまで得たことや感じたこと、そして退職までの思考過程の一部お話させていただきました。改めて現職時代お世話になった皆さまへの感謝の気持ちをお伝えし結言とさせていただきます。

【私が自衛隊を辞めた理由】ざっくりまとめ;

・自己の変化による階級社会や人事制度など組織文化とのミスマッチ
・自分の価値観(大事にしたいもの)の優先順位が変わった
・もっと自由に価値観にしたがって行動できる環境に身を置きたくなった
・公私を問わず地域や子育てにもっと直接関わっていきたくなった

不慣れな執筆作業で読み取りにくい内容もあったかと思いますが、ここまでお読みいただいた皆さま、どうもありがとうございました。
(”スキ♡”や”コメント”もいただきありがとうございました!)

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今後もnoteでは自由に幅広いテーマで想いや学びを発信していきたいと考えています。
引き続きフォローいただき、皆さんが何かを考えるきっかけやヒントになれたら嬉しく思います。ありがとうございました。

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