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最近読んだ本5冊(「大震災'95」、「変身」など)

今週も、最近読んだ本について書いていきたいと思う。
ここ最近はかなりたくさんの本を読んでいるが、これは私にはよくある一瞬の流行りのようなものなので、この読書ペースを今後維持し続けることは難しいと思う。


大震災'95(小松左京著:河出文庫)

日本沈没」で知られるSF作家、小松左京による阪神淡路大震災に関する本書は、この震災を直接経験したことがない自分にとっては非常に新鮮な内容の本であった。

まず、初めに筆者は震災の「当事者」が記録をすることの重要性について指摘している。その当事者は地震の被災者だけでなく、テレビなどで震災の様子を見聞きした無数の人々も含まれている。
筆者によれば、直接的であれ間接的であれ、震災を同じ時代に同じ国の中で経験した人々による膨大な記録が結集することによって、それが未来の災害対策に役立つ共同財産になり得るという。
確かに、未曾有の大災害であった阪神淡路大震災はもちろんのこと、人的被害の大きさで見ればそれほど大きな被害をもたらさなかった災害であったとしても、個々の事象の公式記録だけでなく、人々による個人的な記録が如何に重要になるかということは、考えるまでもないことだ。

日本は災害列島であり、私が小学生になってからの約20年間だけでも、新潟県中越地震や中越沖地震、能登半島沖地震、東日本大震災、熊本地震、北海道胆振東部地震、そして今回の能登半島地震など、災害は極めて高頻度で発生している。
また地震以外で言っても、2018年の西日本豪雨や2019年の東日本台風、2014年の御嶽山噴火など、大雨や火山噴火による被害も見過ごせないものがある。

そして、2020年から始まった新型コロナウイルス(COVID-19)の流行も、一種の災害と言って良いだろう。

私が後悔しているのは、COVID-19が猛威を振るい、緊急事態宣言が出されていた時のことを、全く記録していなかったことである。
当時は確かに未知の感染症に恐れおののいていたが、コロナ前から「三密」を避け、人と会うことも少なかった私としては、はっきり言って「自粛」をするまでもなかった。
そのためか、いざコロナ禍が始まっても、大学の授業がリモートになった以外はそれほど大きな変化がなかったので、記録に留めるという意識が働かなかった。

しかしながら、「私」自身の変化は少なくとも、一般大衆を含む「周り」の変化は非常に大きかったはずである。
例えば、マスクが品薄になったり、根拠のないデマでトイレットペーパーが買占めにあったり、挙句の果てには県外ナンバーパチンコ屋、飲食店、繁華街を叩く流れまでできていた。

このような異様な状況を文字としてまとめておくことは、たとえメディアが充実している現代であっても、意義のあることであっただろう。
だからこそ、あのコロナ禍を斜め上の視点から見つめて、記録しておくべきだったと思っている。

さて、本書の中で特に目を見張ったのは、阪神淡路大震災以降で改善されたことももちろん多かったのだが、今現在でもほとんど変わっていない点が見られたこと、そして「地震予知」に言及がされていたことである。

改善された点については枚挙に暇がないため割愛するが、変わっていない点としてはやはり災害対応が地方自治体に任せきりにされている点だろう。
筆者は「地震庁」が必要だと仰っているが、本当にその通りだと思う。
今回の能登半島地震でも、災害対応が完全に県や市町村に丸投げされていてる。これでは力のない自治体ではどうにもならないのは明らかだ。

地震予知については、綿密なデータによって将来起こる地震を予測し、実際に的中したとされる中国の例を挙げ、地震予知の将来を期待するような論調となっている。
阪神淡路大震災から30年近くが経った現在であっても、地震予知技術は実用化に至っていないのが現状であるが、災害大国日本だからこそ、地震予知により多くの国費をつぎ込んで、研究を奨励してもらいたいと思う。

この国は(特に最近は顕著であるが)、カネにならないことには消極的になるという悲しい現実があるが、地震予測は直接カネにならないとしても、予測が当たれば経済被害を大きく軽減することができるわけだから、経済界にとってもメリットは大きいはずである。

なのに一向に国が重い腰をあげないのは、(今回の能登半島地震の被災地に対する対応からでも薄々分かることだが)政府が「田舎はどうでもいい」と思っているのではないかと疑わざるを得ない。

変身(フランツ・カフカ著、中井正文訳:角川文庫)

今回は久しぶりに小説を読んだ。
この本は「変身」というタイトルになっているが、実際には「変身」の他に「ある戦いの記録」という作品も収録されている。

「変身」は文学に疎い自分でも名前だけは知っているくらい有名な作品であるから、とりあえず読んでみようということになった。

読んでみた感想としては、朝起きたら突然「毒虫」になっていた主人公の姿は、何らかの理由で突然社会からドロップアウトしてしまった人の境遇とよく似ているのではないかと思った。

突然見るも無残な姿になってしまった主人公に対して、家族は各々のやり方で対処しようとするが、最終的には「あいつは家族じゃない」という共通の認識が生まれる。
そしてとうとう「毒虫」が命を落とすと、家族はまるで肩の荷が下りたかのように感じ、久しぶりに列車でどこかに出かけに行くのだ。

これは言ってしまえば、毒虫と化したことで仕事もできなくなり、家族にさまざまな形で負担を背負わせた、いわば穀潰しになった主人公が消え去ったことを、家族たちが嬉しく思っていたことを指し示しているだろう。

さて、「ある戦いの記録」については、「変身」と比べると非常に難解で、一体何を描こうとしているのか付いていこうとするので精一杯だったというのが正直なところだ。

これは私の中の文学的センスが欠落しているせいなのかよく分からないが、「ある戦いの記録 カフカ」で検索をして出てきた論文(慶應義塾大学藝文学会の論文)を読んでみたら、少しだけ内容理解が深まったような気がした。

忘れられた日本人(宮本常一著:岩波文庫)

図書館の文庫コーナーを眺めていたら、突然目に入ってきた本だ。
「忘れられた日本人」とある。
一体どんな内容だろうと興味本位で読み始めた。

明治から昭和にかけての、日本の集落にまつわる話が書かれている。
平成生まれの私にとっては、当然遠い昔の出来事である。
おそらく私の曾祖父やその父親くらいの時代の話じゃないだろうか。

インターネットはもちろん、携帯電話やテレビもなければ、電気もない時代である。
現代に生き、高度な技術を享受している自分にとっては、そんな時代に行くなんてまっぴらごめんだと思うのが今までの私の素直な感想だった。

しかし、この本を読んでから考えが180度変わった。
昔も案外良かったのかもなあと思うようになった。

なぜそう思うようになったかと言うと、人々の間で、共同体というものがしっかり生きていることを感じさせたからだ。

1990年代後半生まれで、一応「Z世代」にも含まれる私は、「共同体」というものをまるで知らない。
強いて言えば、私の田舎(といっても実際に住んでいたところとは若干異なる)は結構な山間の集落で、そこではまだ(構成員のほとんどが高齢者になってはいるが)共同体のようなものが一応生きてはいるから、全く知らないというわけではない。

とはいえ、基本的には地方都市の借家、集合住宅暮らしがメインで、大学進学以降は隣が誰かすら知らないという状況に生きる自分の周りには、もはや共同体はないであろう。

「忘れられた日本人」を読むと、自分の隣に誰が住んでいるかすら知らないという現代人が、如何に精神的に不健康な環境に生きているのかということがよく分かる。

特に、昔の人々は今の人と比べて、性に「開放的」であったことについて、詳細に書かれているのが本書の特徴でもある。
例えば、昔は村の男性が夜な夜な近所の家に忍び込み、意中の女性と「寝る」という、「夜這い」と呼ばれる習慣があったようだが、
何と自分の家から遠く離れた女性の家まで、夜通し歩き続けて「夜這い」に向かったという男もいたようである。

街灯もライトもない中、女性の家へとひた走る男のことを考えると、それはもう名状しがたいような興奮と高揚感でいっぱいだったことだろう。
さて物質的には何も不自由することのない現代において、似たような興奮を覚えることはできるのだろうか?
お札を握しめ、歓楽街に繰り出せば、当時と似たような感覚を得られるのだろうか…どうも違うような気がする。

日本は「右傾化」したのか(小熊英二/樋口直人編:慶應義塾大学出版会)

日本、あるいは日本人は「右傾化」したと言われる昨今。
その「右傾化」は果たして本当なのだろうか、本当なのだとしたら誰がどのように右傾化しているのか?という疑問に答える一冊となっている。

この手の本は、正直言って名前も知らないような出版社だったら手に取るか悩むところではあるのだが、慶應義塾大学出版会が出している本なので、まあ悪い本ではないだろうということで読むことにした。

本書において特に右傾化が顕著だと語られているのは、インターネット空間における排外主義的言説を語る人たち、そして与党の自民党である。

前者については、X(旧Twitter)を筆頭に、インターネットの至る所で見かける人たちであって、彼らは数でこそ少ない(ネット利用者全体のうち、数%程度)ものの、声が大きいため目立ちやすい。
後者については、2009年に与党の座を民主党に奪われた自民党が、民主党との差別化を図るために右傾化したことが詳しく論じられている。

また、政治家や一部の排外主義者のように、右傾化を如実に表すような主体が出てきているとはいえ、世論全体としては右傾化は見られず、むしろジェンダー分野などでは逆に「左傾化」が起きていることが研究により裏付けられている。

ただ、マスメディアが与党の影響を強く受けやすいことや、野党勢力が未だ強くなっていないことを考えると、世論が右傾化してないから安心だというわけにはいかないはずだ。

このほかにも、島根県による「竹島の日」の制定が小泉改革以降の国政に対するある種の「クーデター」だと論じる文章などもあり、非常に面白い内容になっているので、現代の日本政治に興味がある人はぜひ読んでみてほしいと思う。

金日成(徐大粛著、林茂訳:講談社学術文庫)

北朝鮮を建国し、初代の最高指導者として数十年間にわたって国を統治した人物として知られる、金日成に関する一冊。

満州における抗日パルチザン活動から、国の建国、朝鮮戦争、国内における権力闘争、中ソ対立、第三世界への進出など、金日成が直面してきたあらゆる出来事が、詳しくまとめられている。
北朝鮮という国柄、偏った情報が多くなりやすい中で、著者の徐大粛氏は北朝鮮の情報にも韓国の情報にも偏らないというスタンスで本書を執筆されており、フラットな視点で読みたい読者にとって大変適した本となっている。

著者の徐大粛氏がこの本をまとめられたのは1990年代以前のことであるため、金日成死去以降の北朝鮮情勢については論じられてはいないが、
巻末に北朝鮮研究者として知られる和田春樹東大名誉教授による簡単な解説が載っていて、そこでは比較的最近の北朝鮮事情についても論じられている。

さて、この本はページ数が非常に多いため、全部読み切るのは難しいだろうなと思ってはいたのだが、気が付くと数日で読み切ってしまった。
金日成という人物の生涯が、一つのストーリーのように描かれているばかりでなく、朝鮮戦争や中ソ対立などを経て、北朝鮮という国家がどう変化していったかということがはっきり分かるようになっているからである。

特に、北朝鮮国内における権力闘争中ソ対立についての記述は、非常に読み応えのあるものであった。
北朝鮮政府内の人物については、漢字で名前が書かれてはいるが、朝鮮語でどう読むかについてはフリガナが振られていないので、読み方が分からない人物が続出したということはあったが(一人一人ネットで調べれば分かると思う)、綿密な調査と研究の末に書かれた本だということがよく分かった。

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