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昭和39年のてるてる坊主【てるてるmemo#14】


1、60年前のてるてる坊主たち

 『万延元年のフットボール』は小説家・大江健三郎(1935-2023)の名作です。それになぞらえて、本稿は題して「昭和39年のてるてる坊主」。
 昭和39年(1964)というと、いまから60年前。初めての東京オリンピックが開催された年です。文献資料をひも解きながら、当時のてるてる坊主のありようを探ってみましょう。
 本稿でまず検討したいのは、てるてる坊主が登場する絵や写真。目下のところ、てるてる坊主研究所では昭和39年のてるてる坊主について10点の資料を蒐集して紹介済みです(★詳しくは「昭和39年(1964年)のてるてる坊主(てるてる坊主図録Ver.3.1)」参照)。

 加えて本稿では、絵や写真を伴わない文字資料にも目を配ります。手がかりとするのは国立国会図書館のデジタルコレクション。気になる語をキーワードとして入力して、年代別に検索できるのでとても便利です。
 ただし厄介なのは、てるてる坊主と一口に言っても、文献資料における表記はさまざまである点。「てるてる坊主」だけでなく、前半の「てるてる」の部分をカタカナや漢字に代えたり、あるいは、後半の「坊主」の部分もひらがなやカタカナに代えたりしながら、検索を繰り返しました。
 なお、国立国会図書館デジタルコレクションのなかには、同館(東京都千代田区)へ出向かなければ閲覧できない「国立国会図書館内限定」の資料があります。昭和39年のてるてる坊主についても、94点ほどがそうした館内限定資料に該当します。それらについては、本稿ではいったん考慮の外において検討を進めましょう。インターネットを活用して自宅で閲覧可能な資料について、ジャンルを問わず検討対象とします。
 それでは、いまからちょうど60年さかのぼった、てるてる坊主のある光景へ。

2、絵や写真のある10点

 絵や写真のある資料は先述のように10点。昭和39年当時のてるてる坊主の様子が視覚的によくわかります。「姿かたち」「目鼻の有無」「設置場所」の3点を切り口として検討してみましょう(★表1参照)。

 第一に姿かたちをめぐって。10点いずれも、見た目は昨今と大きく変わりません。ただ、注目しておきたいのは資料⑧。てるてる坊主は色とりどりの衣を上から着せられています(★図1参照)。

 たとえば、左側の女の子はてるてる坊主に緑色の衣を着せています。窓の外に見える木の枝に吊るされたてるてる坊主は赤い衣を着ています。また、テーブルの上には黄色い色紙が用意されていますが、これもてるてる坊主に着せる衣に使われるのかもしれません。
 多彩な色のてるてる坊主はほかにも見られます。資料⑥では白のほか赤・黄・緑、資料⑦では白のほか赤・青のものが作られています(★後掲の図2参照)。ここに挙げた、色とりどりのてるてる坊主が見られる資料3点(⑥⑦⑧)はいずれも、童謡「てるてる坊主」の挿絵として描かれたものです。

 第二に目鼻の有無をめぐって。眉や目・鼻・口など、顔のパーツのいずれかがあるものが10点のうち7点(①④⑤⑦⑧⑨⑩)を占めます。それらがない、のっぺらぼうのものが4点(③④⑥⑦)見られます(④と⑦は混在しているため重複)。資料②は顔が戸にほぼ隠れているため不明です。
 目や鼻など顔のパーツのあるもののほうが、のっぺらぼうのものよりも、数の上では優勢です。もとより、のっぺらぼうのように見えるてるてる坊主でも、実は向こうを向いていて、こちらには後頭部しか見えていないという可能性も捨てきれません。

 第三に設置場所をめぐって。軒(①②⑥)や木(⑧⑨⑩)が目立ち、ともに3点ずつ見られます。そのほかには、格子(③)や窓辺(⑦)に1点ずつ見られます。軒・格子・窓辺をまとめて建物の周辺部と捉えると、建物の周辺部に5点が見られ、木の3点よりも少しだけ優勢です。

 このように、絵や写真から読み取れる情報をもとに、昭和39年のてるてる坊主について大づかみにしたところで、続いては絵や写真のない文字資料にも目を向けて、もう少し詳しく検討を進めてみましょう(★後掲の表2参照)。なお、文字資料においては「目鼻の有無」に触れたものは見られません。そこで、「姿かたち」と「設置場所」のふたつを切り口とします。

3、かつての着物姿の名残

 まずは姿かたちをめぐって。先述のように、資料⑧では色とりどりの衣を着た姿のものが見られます。実は、かつてのてるてる坊主はこのような衣を着た姿が主流でした。わたしの管見が及んだ限りでも、江戸時代から明治・大正期を経て昭和30年(1955)ごろまで、てるてる坊主は着物を着て、ときには帯を締めているのが一般的でした(★詳しくは「【てるてる坊主動画#2】忘れられたてるてる坊主 ―かつて見られた着物姿をめぐって―」参照)。

 なお、資料⑲では信州松本(長野県松本市)あたりで七夕行事の際に作られる七夕人形について、当地の郷土史家・田中磐(1920-)が紹介しています。松本あたりの七夕人形にはいくつかの型があり、そのなかのひとつが、著者がいうところの「流しびな型」。その「流しびな型」の七夕人形について説明したなかで、てるてる坊主がたとえとして次のように登場しています(傍点引用者)[田中1964:145頁]。

北安曇郡陸郷村地方では色紙いろがみか、七夕紙と呼ばれる特別な紙を使って、人がたに裁ち、てるてる坊主●●●●●●式の紙の芯の人形を作って、子供達が川へ流している。

 北安曇きたあづみ陸郷りくごう村は、現在の池田町(北安曇郡)・安曇野市・生坂村(東筑摩郡)にまたがる地域です。色紙などを「人がた」すなわち人のかたちに切り、それを「紙の芯」に被せることで「てるてる坊主式」の人形は作られているようです。田中は当時より10年前に著した別の論考においても、同じく「流しびな型」の七夕人形に触れて次のように述べています[田中1954:440頁]。

全長一〇糎、頭は日本紙で作り、色紙いろがみか、七夕紙と称する特別な用紙を着物形に裁ち着せる。使用地の北安曇郡陸郷村地方では自家製である。

 前掲した一文と重ね合わせてみると、「流しびな型」の七夕人形の作りかたを想像できます。人形の全長は10センチ。芯となるからだと頭の部分は日本紙、すなわち和紙を丸めたりねじったりして作るのでしょう。そこに、色紙を切って作った着物を着せます。着物には七夕紙という特別な紙を用いることもあったようです。
 そうしてできあがった七夕人形は、資料⑧の衣を着たてるてる坊主に似た姿だったのではないかと推測されます(★前掲の図1参照)。信州松本の郷土史家・田中磐が「流しびな型」の七夕人形の説明として、先述のように、思わず「てるてる坊主式」という形容を用いているのも合点がいきます。
 もとより、昭和30年代に入るころから、着物姿のてるてる坊主は急速に姿を消していきます。取って代わって、昨今のように裾をひらひらとさせた、いわばスカート姿のものが目立つようになります。そして、本稿で焦点としている昭和39年には、すでにほぼすべてがスカート姿です。資料⑧に見られる、上から衣を着たような姿は、当時より10年ほどさかのぼった昭和30年ごろまでは優勢だった、着物姿の名残ともいえそうです。

4、建物の周辺部・木・その他

 次に設置場所をめぐって(★後掲の表3参照)。先述のように絵や写真資料では、軒・格子・窓辺といった建物の周辺部が多く、5点見られました。あるいは、木という事例も3点見られました。
 絵や写真のない文字資料に目を向けてみると、設置場所が明らかな資料は17点ほど数えられます。多いのはやはり建物の周辺部で、軒に6点と窓辺に4点で、合わせて10点にのぼります。
 いっぽう、木も4点を数えます。槻(⑯)、柿(㉖)、南天(㉚)といった具体的な樹種が明記されている例も目立ちます。南天(ナンテン)は音が「難が転じる」に通じるため、縁起がよい木として魔除けにはしばしば用いられます。

 このほか、てるてる坊主の設置場所として、既出の軒・格子・窓辺・木などではない場所が択ばれている例を3点確認できます。
 1点めの資料⑪は童話、すなわちフィクションです。ある雪の日、子ギツネの兄弟が家のなかでてるてる坊主を作ることを思い立ちます。お兄さんキツネは「てるてるぼうずを作って、入口のところにぶらさげておきました」[『学級づくりアイディア事典』1964:378頁]。家の「入口のところ」ということなので、ともあれ、建物の周辺部であることには変わりありません。
 2点めの資料⑯は短歌。てるてる坊主の登場する歌が、次のように2首掲載されています[『ポトナム』1964:31、35頁]。

・かすかなるあかね空なり幼ならのてるてる坊主槻の枝にゆるる (島津仲)
・武蔵野の田にてるてる坊主の案山子立ち稲穂豊かに波うちており (東京 竹倉明沙子)

 前者の歌では、先述した槻の木の枝に吊るされています。槻とは欅(ケヤキ)の別名です。
 注目したいのは後者のほう。てるてる坊主が設置されているのは、なんと田んぼです。豊かに稔った稲穂が秋風に吹かれて波打つなかに「てるてる坊主の案山子」が立っています。「てるてる坊主の案山子」とは何者か、詳しいことはわかりません。厳密に区分するならば、てるてる坊主ではなく、あくまでも案山子かかしなのかもしれません。
 想像するに、よく見られる案山子とは違って、麦藁帽子をかぶっておらず、てるてる坊主のように坊主頭を丸出しなのでしょう。そして、両手もないのでしょう。ひょっとすると、衣の裾をスカートのようにひらひらと秋風になびかせていたかもしれません。わざとてるてる坊主のように作ったのは、稲刈り作業が晴天に恵まれるようにという願いからでしょうか。
 設置方法も注目されます。「案山子立ち」とあるので、「てるてる坊主の案山子」は普通のてるてる坊主のように吊るされるのではなく立っています。田んぼの真ん中で案山子のようにすっくと立つ姿が目に浮かびます。
 3点めの資料⑭は俳句。7月に開かれた句会で詠まれた一句です[『番傘』1964:79頁]。

巻ずしへてるてる坊主吊って寝る (飛鳥)

 巻き寿司を作ったのは、翌日の行楽に持っていくためでしょう。お出掛けが好天に恵まれるようにとてるてる坊主も作り、あろうことか、それを巻き寿司の一端に吊るしたようです。行楽前夜、ウキウキした気分で床に就いた様子が伝わってきます。

5、「テルテル坊主の元祖」

 昭和39年に発刊された民俗調査の報告書のなかに、てるてる坊主に触れた興味深い記述が見られます。晴天を祈願して屋根の上に立てたり川に流したりする人形が紹介されており、それを土地の人は「テルテル坊主の元祖」と位置づけているというのです。なお、てるてる坊主が直接に登場しているわけではないので、前掲した表2には未記載です。
 その報告書とは『羽後桧木内川流域の民俗』。民俗学者・大間知篤三(1900-70)を団長とする東京女子大学史学科郷土調査団が調査した、当時の秋田県仙北郡西木にしき村(現在の仙北市西木町)の風習について報告されています。年中行事の章に次のような記述が見られます(傍点は引用者)[東京女子大学文学部史学科1964:50-51頁]。

五月二十七日、鹿島まつり。紙で人形を作り、柳の枝で舟を作って、人形にヤキモチを一つしょわせてかやぼで飾り、川へ流す。この人形は鹿島人形といい、テルテル坊主の元祖●●●●●●●●●といわれている。日乞いのためにするのである。

六月二十四日 地蔵様の日。……(中略)……この日は作の神様のオタメシビで、この日天気がよければ作が良く、三粒でも雨が降れば作が悪いといわれている。
鎌足ではこの日ヒヨリマツリといって藁人形を屋根の上に立て、空が晴れると川に流した。

 5月27日は鹿島祭り。紙人形に焼いた餅を背負わせ、柳の枝で作った小舟にのせて川に流します。日乞いの祭りであり、この鹿島人形とは「テルテル坊主の元祖」なのだといいます。
 あるいは、6月24日の日和祭り。鎌足地区では藁人形を屋根の上に立てます。やはり日乞いの祭りであり、願いがかなうと人形を川に流します。この日が好天だとその年は豊作に恵まれると伝えられているそうです。

 当地の人が「テルテル坊主の元祖」と位置づけた西木村の鹿島人形。これとよく似た人形が、江戸時代後期の記録にもスケッチとともにのこされています(★図3参照)[内田・宮本1973]。

 記録をのこしたのは、日本列島各地を旅して歩いた菅江真澄(1754-1829)。天明5年(1785)の初夏、菅江は角館に滞在しました。角館と西木村はほど近く、ともに現在は仙北市(秋田県)に属しています。
 雨が何日間も降り続くとき、日照を祈願して「雨人アマヒト」という人形を屋根の上に立てることがあり、この風習を「鹿嶋祭リ」というそうです。人形は旗を手にしており、旗には「鹿嶋大明神」と墨書されています(★詳しくは「日を乞う「雨人」【てるてるmemo#2】」参照)。

6、童謡とわらべうた

 「てるてる坊主てる坊主 あした天気にしておくれ」というフレーズで有名な童謡「てるてる坊主」は浅原鏡村(1895-1977)の作詞、中山晋平(1887-1952)の作曲で大正10年(1921)に発表されました。資料⑳はその作詞者・浅原(本名は六朗)による短文。この年に亡くなった友人の小説家・尾崎士郎(1898-1964)を偲びつつ、かつて二人で「てるてる坊主」を合唱した思い出が綴られています[『高志人』1964:55頁]。
 この前年(昭和38年=1963)の秋、浅原の故郷である池田町(長野県北安曇郡)に童謡「てるてる坊主」の石碑が建てられました。その童謡碑の除幕に際して、浅原の甥・長谷部級雄(生没年不詳)が詠んだ短歌2首が資料⑮[『沃野』1964:6頁]。

・定まらぬ秋空今日は晴れにけりてるてる坊主の碑父祖の地に建つ(叔父の童謡碑池田町に建つ)
・赤彦真弓麓の碑建つ神域にてるてる坊主の碑今日ぞ加はる (長谷部級雄)

 「てるてる坊主」の童謡碑は池田八幡神社の境内に建っています。同じ境内には池田町にゆかりのある歌人・島木赤彦(1876-1926)の歌碑があり、また、近隣の川会かわあい神社には江戸時代後期の国学者・内山真弓(1786-1852)の歌碑が建っているといいます。

 あるいは、てるてる坊主の登場するわらべうたを紹介した資料が2点(㉑㉖)見られます[相葉1964:57頁、波多1964:459頁]。

・てるてる坊主 てる坊主 あした天気に なーれ
・てるてる坊主、てる坊主、明日天気になーれ。(または「天気にしておくれ」)

 前者(㉑)は群馬県邑楽郡板倉町の事例、後者(㉖)は山口県阿武郡川上村(現在は萩市の一部)の事例。童謡「てるてる坊主」の歌詞では「あした天気にしておくれ●●●●●」という部分を、巷間では「あした天気になーれ●●●」と唄うことも多かったようです。
 このほか、資料⑲の短歌にも、唄いながらてるてる坊主を吊るす光景が詠まれています[『原始林』1964:30頁]。

てるてる坊主窓にさげつつ唄ふ児の声吸はれゆく驟雨の中に (安彦桂子)

 にわか雨のなかで子どもが唄っているのが、「あした天気にしておくれ●●●●●」なのか「あした天気になーれ●●●」なのかは不明です。

7、タイミングと不気味さ

 このほかの気になる点をいくつか挙げておきます。第一にてるてる坊主を作るタイミングをめぐって。目立つのはやはり子どもの学校行事で、遠足が4点(②㉕㉖㉘)と運動会が2点(⑬㉗)。あるいは、次のような短歌や俳句も見られます[『覇王樹』1964:32頁、『暖流』1964:28頁]。

・早寝して旅行待つ子が吊したるてるてる坊主ゆれおり月の窓辺に (群馬 峯岸利夫)
・テルテル坊主さげて星なき星祭り (浦和 小山永寿華)

 前者の歌(⑰)は旅行前夜の光景。また、後者の句(㉗)に詠まれた「星祭り」とは秋の季語で、七夕を指します。

 第二にてるてる坊主のもつマジカルな雰囲気をめぐって。資料⑫の俳句では次のように詠われています[『獺祭』1964:表紙裏]。

遠足や呪詛の坊主がいつまで樹に

 俳人・吉田冬葉とうようの妻・吉田ひで女(生没年不詳)による、「てるてる坊主」と題した連作のなかの一句です。「呪詛」というおどろおどろしい表現が印象的。たしかに、先述したような顔がのっぺらぼうのもの(③④⑥⑦)、あるいは「へのへのもへじ」のもの(④⑦)などからは、どこか不気味な気配が漂います(★図4参照)。

 本稿で注目した昭和39年のてるてる坊主を含め、もっと長い目で見た昭和30年代全般のてるてる坊主の動向については、また稿をあらためて検討できればと思います。

参考文献

【表1と表2に関わるもの】(発行年はいずれも昭和39年(1964)。⑨と⑩の教科書は検定年度が昭和39年。丸数字は表の左端の№に対応。うしろのカッコ内は詳しい掲載箇所や作者等。)
①岡田要ほか〔監修〕『学習のひろば』6、山田書院(「てんき」)
②岡本良雄『岡本良雄童話文学全集』3、講談社(「あしたは天気だ」)
③『三つの坊や』、朝日新聞社(「雨に歌おう」)
④木暮正夫〔著〕福田庄助〔絵〕『赤とんぼの歌』(日本少年文学選集9)、三十書房(「屋根」)
⑤『婦人生活』18(9)、婦人生活社(永井清彦「カスミさん」)
⑥宮沢章二ほか〔編〕『童謡画集』1(主婦の友ゴールデンブック)、主婦の友社(柿本幸造絵「てるてるぼうず」)
⑦『小学館の幼稚園』17(3)、小学館(松沢のぼる〔絵〕「てるてるぼうず」)
⑧『めばえ』7(3)、小学館(岸田はるみ〔絵〕「てるてるぼうず」)
⑨『三年生のおんがく』、教育芸術社
⑩『新編あたらしいおんがく』3、東京書籍
⑪『学級づくりアイディア事典』[第1] 低学年編、黎明書房(村上孝雄「こぎつねの作ったてるてるぼうず」)
⑫『獺祭』38(6)、獺祭発行所(吉田ひで女「てるてる坊主」)
⑬『原始林 : 短歌雑誌』19(8)、原始林社(佐相貴美・植野利英子・加藤一枝)
⑭『番傘』53(9)、番傘川柳本社
⑮『沃野』203、沃野社(長谷部級雄)
⑯『ポトナム』41(1)、ポトナム短歌会(島津仲・竹倉明沙子)
⑰『覇王樹』44(11)、覇王樹社(峯岸利夫)
⑱『新墾 : 短歌雑誌』34(9)、歌誌新墾発行所(中川なか)
⑲『原始林 : 短歌雑誌』19(4)、原始林社(安彦桂子「夜の彩」)
⑳『高志人』29(4)、高志人社(浅原六朗「同時代の友だち」)
㉑相葉伸ほか〔編〕『故郷のうた』、みやま文庫
㉒高野一夫『数学的な見方考え方』、河出書房新社
㉓警視庁警務部教養課〔編〕『自警』46(5)、自警会(鈴木光哉「あまだれ坊や」)
㉔田中磐『信濃・松本平の民俗と信仰』、安筑郷土誌料刊行会
㉕生方たつゑほか〔監修〕『現代女流歌人総合集』、文芸新聞社(河西清子)
㉖波多放彩『川上村誌』、川上村公民館(「九 村の童唄」)
㉗『暖流』19(9)、暖流俳句会(小山永寿華)
㉘『橄欖』43(7)、橄欖社(大塚たけ子)
㉙『報徳』62(7)、大日本報徳社
㉚品川不二郎・松村康平〔共編〕『幼児・児童教育講座』第4 (学習の指導)、福村書店(阪本一郎「読書指導」)
㉛『作家』(186)、作家社(横井幸雄「初めは卵」)

【そのほかの参考文献】(編著者名の五十音順)
・内田武志・宮本常一〔編〕『菅江真澄全集』第9巻、未来社、1973年
・田中磐「信州松本地方の七夕人形の系統」(『地方研究論叢』、一志茂樹先生還暦記念会、1954年)
・東京女子大学文学部史学科〔編〕『羽後桧木内川流域の民俗 : 秋田県仙北郡西木村(鎌足、八津、堀ノ内)』、東京女子大学史学科郷土調査団、1964年


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