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【日本史8】平安史備忘録3(長岡京から平安京)

平安時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①794年(延暦13年)に桓武天皇は遷都した。新たな都が置かれた山背国が山城国へと改称されて平安京という都の名が詔(みことのり)によって発表された。

②長岡京での数々の不幸を忘れて「平和で安らかな都であってほしい」という思いがこもっている。

③平安京は京都三山(東山、北山、西山)に囲まれた京都盆地の北部に位置する。水陸の交通の便の良い地だったから選ばれた。

古代中国の思想を起源とした四神相応の土地だった事が理由として挙げられる。

④四神とは東西南北をそれぞれ守護する青龍、白虎、朱雀、玄武という霊獣を示して平安京の周辺に位置する鴨川を青龍、山陰道を白虎、巨椋池を朱雀、船岡山を玄武と見立てた思想である。しかし明白な史料は残っていない。

⑤平安京は東西約4.5km、南北約5.2Kmありその範囲は現在の京都市の中心街に相当した。モデルの長安と異なり東西より南北が長いのは日本独自の構造であった。

⑥宮城(きゅうじょう)が北部中央に位置する点は長安と同様であった。東西約1.1Km、南北1.4Kmの宮城には天皇一家が居住する内裏や国の祭祀が行われる大極殿などが存在した。現在の京都市上京区千本丸太町交差点付近にある。

⑦朱雀大路を軸に都は東側の左京と西側の右京に大きく分かれていた。

朱雀大路と並行して南北に走る9本の大路とこれらと交差して東西に走る11本の大路によって平安京は碁盤目状に区画された。

⑧東西のメインの大路を条、南北列の大路に挟まれたエリアを坊と呼ぶため東西南北の大路で地域が区画されたこのシステムを条坊制という。

⑨桓武天皇が建立を許可した国営寺院である東寺と西寺が羅城門を挟むように配置された。左京と右京それぞれに東市に西市という官営の市場があって食料や日用品が売られていた。

⑩800年頃の平安京の人口は10万から20万くらいと推定されている。この時代のアッバース朝のバグダッド(イラクの首都)、唐の長安などと並び世界有数の大都市であった。

■参考文献 『1冊でわかる平安時代』 大石学 河出書房新社

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