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【日本史7】鎌倉史備忘録23

鎌倉時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①北条時宗(8代目執権)は外と内の脅威で追い詰められていた。
1266年(文永3年)には宗尊親王(6代目将軍)を鎌倉から追っている。将軍としての自覚を強めた宗尊親王が得宗家の権力を脅かそうとした謀反の疑いをかけられて追放されたと云われている。

②1272年(文永9年)には評定衆の名越時章と弟の教時が時宗の家人によって殺害された。六波羅探題南方だった時宗の異母弟の北条時輔が討伐された。後に時章の断罪は誤りだったと裁定され逆に討ち手が処罰された。

③殺害理由は北条時宗の地位を脅かす可能性があったからだと推測される。一連の事件は二月騒動といわれる。幕府は挙国一致で元と戦う体制を整えた。元もまた高麗藩来軍の三別抄や南宋の脅威を退け日本侵略の準備を完了した。

④外交交渉を諦めた元は1274年(文永11年)10月3日に高麗軍と合わせて約3万ともいわれる混成軍を編成して日本に派遣した。まずは守護・少弐氏が治めていた対馬国(長崎県)を攻撃した。

⑤守護代の宗資国が迎撃したが敗れた。壱岐(長崎県)も攻撃されて制圧された。

⑥元は朝鮮半島を出発してから17日後の10月20日に博多湾の沿岸各地に上陸して攻撃を開始した。幕府側は少弐資能や大友頼泰など九州北部の守護らを中心に防衛態勢を整えて両軍は激突した。文永の役が勃発した。

⑧騎馬武者による一騎打ちを主とする幕府軍の戦法に対して元軍は集団戦法を採用した。矢じりに毒を塗った毒矢やてつはうと呼ばれた火薬兵器に幕府軍は苦戦した。この戦闘模様は鎌倉後期の絵巻物『蒙古襲来絵詞』に描写されている。

⑨幕府軍は戦闘開始から1日で大宰府(福岡県)への後退を余儀なくされた。博多(福岡県)はモンゴル軍に占拠された。幕府軍は迎撃の用意をしたが元軍は一夜にして撤退してしまった。

⑩前夜に発生した大風により元軍が撤退したものとされる。後の人々はこれを日本の神々が吹かせた神風と考えた。しかし近年ではこの神風説や文永の役に関する従来の考えは批判されている。

⑪文永の役が発生した10月末は現在の暦では11月末である。この時期に暴風雨が九州を襲う可能性はきわめて低いというものだ。元軍が暴風雨によって一定のダメージを負ったとしてもそれは撤退途中の海上の出来事であり撤退原因ではないという説もある。

⑫そもそも文永の役は侵略ではなく威力偵察が目的だったとする説や幕府からの予想外の抵抗に遭い、多国籍軍(元・高麗・南宋など)となった元軍内部での意見の相違から士気が低下し撤退を余儀なくされたという説がある。

⑬元軍の撤退理由は不明だがひとまず元が日本から撤退したのは確かだ。幕府は元が再侵攻してくる可能性が高かったため安堵はできなかった。

■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社

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