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【日本史7】鎌倉史備忘録40

鎌倉時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①尊氏の裏切りに対して幕府は六波羅探題の北条仲時と
北条時益を中心に対処を行った。尊氏軍と交戦したが
抗えず六波羅探題は陥落した。

②仲時と時益は持明院統の後伏見と花園上皇と光厳天皇を連れて鎌倉を目指した。しかし野伏の襲撃を受け時益は戦死した。

③仲時は近江国番場宿(滋賀県米原市)にある蓮華寺にて従者ら400人とともに自害する最期となった。これは番場宿の悲劇と云われ400人以上の墓石は蓮華寺に残されている。

④光厳天皇は京都に連れ戻されて後醍醐の手により廃位となった。この頃東国では新田義貞が進軍を開始した。義貞軍は主に東国の武士たちによって構成されていた。

⑤幕府に尽くしてきた御家人たちも幕府による恩恵を受けられなくなったので不満が強かった。訴訟は即にパンク状態であり兵糧米の徴収も厳しかった。

⑥義貞は小手指原(埼玉県所沢市)で幕府軍と戦い勝利した。逃走した幕府軍を追撃して分倍河原(東京都府中市)で再度激突した。幕府側は北条高時の弟である泰家を中心とした大軍を組織したが撃破された。

⑦新田義貞は進軍して鎌倉にたどり着いた。幕府軍は義貞軍が攻めようとする巨福呂坂(こぶくろざか)・化粧坂(けわいざか)・極楽坂の三方に軍勢を配備し決戦に臨む態勢を整えた。

⑧巨福呂坂では鎌倉方の大将である赤崎(北条)守時(16代目・最終執権)が敗死したがその後金沢(北条)貞将(15代目執権)が中心となって持ちこたえた。化粧坂で抵抗を続けたが海側の極楽寺坂を突破され戦況が悪化した。

⑨幕府方は東勝寺へ逃げ込んで北条高時(14代目執権)など280人以上の北条氏一門が自害した。こうして鎌倉は陥落した。しかし幕府勢力はすべてが敗れたわけではなかった。

⑩九州の鎮西探題は不利な状況でも戦い一時的に倒幕勢力に勝利した。しかし六波羅探題陥落、鎌倉劣勢が伝えられると形勢が逆転した。九州御家人の総攻撃で滅亡した。

⑪鎌倉将軍源頼朝が開き1185年~1192年から続いた鎌倉幕府は1333年(正慶2年)に滅亡した。

■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社

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