見出し画像

【歴史概要69】後漢・三国時代・五胡・高句麗・邪馬台国

①王莽(新の創始者)によって滅亡した漢は25年に劉秀(光武帝)によって復活した。前漢の体制は継承しながらほぼ安定していた。

②しかし官僚になった豪族に対して宦官や外戚などの反目が激しかった。農民への収奪も多く不満が高まっていった。

③2世紀中頃の党錮の禁に続く黄巾の乱(太平道の張角が指導した農民反乱)により大きく動揺した。曹操・劉備・孫権による覇権争いは208年に行われた赤壁の戦い(劉備・孫権の連合が勝利)の結果、三国鼎立が決定した。

④220年に曹操の息子である曹丕が魏を建国し、劉備が蜀、孫権が呉を建国し三国時代が始まった。諸葛亮(孔明)や司馬懿(仲達)、関羽、張飛などが活躍した。

⑤3世紀後半に魏が蜀を滅ぼした後に、司馬懿の孫の司馬炎が西晋を建国した。南方の呉を滅ぼして一時的に中国の統一が成功した。

⑥すぐに八王の乱が勃発し、五胡(遊牧民)とよばれる匈奴・羯・鮮卑・氐・羌が侵入を開始した。4世紀の初めには匈奴の劉淵による首都陥落によって滅亡して華北は五胡が小国家を群立させる五胡十六国時代となった。

⑦朝鮮半島では楽浪郡に対抗して高句麗が台頭した。楽浪郡には遼東地域の有力者、公孫氏が出て楽浪郡を二分した。南に帯方郡を置いた。

⑧3世紀中ごろに魏の武将の毌丘倹(かんきゅうけん)は高句麗を圧迫し楽浪郡・帯方郡を魏の支配下に編入した。

⑨後漢時代に倭国が後漢に朝貢した記録が『後漢書』の「東夷伝」に残されている。光武帝から漢委奴国王を刻んだ金印が授けられている。2世紀の初めには倭の国王の師升が生口(奴隷)160人を献上した記録もある。

⑪当時の日本はまとめて倭と云われていた。

小国が群立してそれぞれ覇を競いはじめていた。『後漢書』にも混乱があった事が書かれている。

⑫3世紀になるとその混乱を収拾し邪馬台国を中心にした30国あまりの連合国家が成立した。卑弥呼が牽引をしていた。卑弥呼は魏に朝貢して親魏倭王の称号や銅鏡が授けられた。

⑬卑弥呼が亡くなってから邪馬台国は混乱していた。壱与が位につき安定したという記録がある。

266年に魏に代わった西晋に使節を送ったが、それ以後150年は中国の史料に倭の記録はでてこない。

⑭この時代の日本では巨大墳墓が作られるようになった。巨大な権力者が出てきた事を示している。箸墓古墳(奈良県)を卑弥呼の墓所とする説も出てきている。巨大古墳は大和地方に多くここを中核としたヤマト政権の権力は4世紀には東北地方中部に及んだ。

■参考文献
『30の戦いからよむ世界史 上』 関 眞興 日本経済新聞出版社

この記事が参加している募集

世界史がすき

日本史がすき

学習教材(数百円)に使います。