見出し画像

【日本史6】室町史備忘録13

室町時代の学習を深めていきます。

本日の学習は
①足利義昭(覚慶)は将軍にならなかった将軍後継者は僧侶になるという足利将軍の慣例で奈良の興福寺で僧侶をしていた。

②将軍を倒した三好家は家長の義継を支える三好三人衆(長逸・政康・友通)と松永久秀・久通親子の間で家中の主導権をめぐって内紛が起こっていた。

③織田信長は尾張を統一し桶狭間の戦いで今川義元を倒した。
織田は義昭をサポートする側にまわった。

④しかし信長は斎藤氏との戦いで苦戦し、三好三人衆が松永久秀を圧倒したので義昭は北陸へ逃げた。1566年(永禄9年)に義昭は越前国(福井県)の戦国大名朝倉義景を頼り敦賀に至った。

⑤この状況を鑑みて足利義維の子である足利義栄(よしひで)が
1568年(永禄11年)に第14代将軍に就任した。

⑥協力関係にあった義継と三好三人衆は内紛をし義継は久秀と組んだ。義昭は信長の本拠地となっていた美濃へ行き信長と協力し上洛を目指した。1568年(永禄11年)に信長は協力を拒んだ六角氏を攻め勝利を収めた。

⑦混乱する三好三人衆は京都郊外の要衝である勝龍寺城(京都府長岡京市)に籠ったが信長に撃破された。久秀や義継は降参をし、1568年10月に義昭と信長は上洛を果たす。

義栄は姿を消し、直後に病死したと見られている。その後義昭は第15代将軍に就任した。

⑧信長が京都から岐阜へ一旦帰国した隙に三好三人衆が襲撃してきた。三人衆と対立する三好義継ら畿内の軍勢の力を借りて反撃した。義昭は三好三人衆に勝利し三人衆は四国へと落ち延びた。

⑨義昭は信長と協力し政権運営を始めた。近臣たちが将軍御所で守るべき規則を定めた殿中掟を制定した。これを諸大名や有力寺社に伝達し新政権の方針をアピールした。

⑩義昭は信長の持つ軍事力を利用し、信長は義昭の将軍としての
権威やコネクションを利用した。

■参考文献 『1冊でわかる室町時代』 大石学 河出書房新社

この記事が参加している募集

日本史がすき

学習教材(数百円)に使います。