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【日本史7】鎌倉史備忘録38

鎌倉時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①後醍醐は1321年(元亨元年)に自ら執政を行う
天皇親政を開始した。平安時代の朝廷のあり方を利用として
訴訟関連の業務を扱う記録所を再興させた。

②日野資朝・俊基などの人物を要職に登用し
政治の刷新を図った。1324年(元亨4年)に後醍醐が倒幕計画を
練っているとの密告があって幕府による調査が行われた。

③後醍醐は使者を鎌倉に派遣して弁明した。後醍醐は陰謀に関与していないと裁定され無罪となったが資朝や俊基は処罰された。これが正中の変である。

④後醍醐による初の倒幕計画だとされていたが後醍醐を退位に追い込もうとした勢力の謀略事件だったという新説がある。

ただ正中の変が皇位継承を巡り争いを引き起こしたものは確かであった。

⑤皇位を狙う持明院統で後伏見天皇の息子である量仁親王や
大覚寺統の邦良親王、亀山天皇の息子である恒明親王などが
幕府へ後醍醐の退位を求める使者を派遣した。

⑥後醍醐側も幕府に使者を送った。幕府中枢で内紛が起こった。1326年(嘉暦元年)に高時が病で執権の座を辞めて出家した。高時の弟である北条泰家は自分が執権になれると考えていた。

⑦しかし新たに執権になったのは北条氏一門の金沢(北条)貞顕(15代目執権)で泰家は不満を持った。貞顕は泰家の報復を恐れて1ヶ月で執権を辞めた。続いて赤橋(北条)守時(16代目執権)が就任した。

⑧1331年(元徳3年)には引退した高時が率先して長崎高資(たかすけ)を討伐する計画が疑われるなど幕府内部は混乱していた。1326年に邦良親王が亡くなると皇室内で皇太子の地位を巡り争いが起こった。

⑨後醍醐は息子の尊良(たかよし)親王・世良(よよし)親王を邦良の遺臣は彼の弟の邦省(くにみ)親王を、持明院統は量仁(かずひと)親王を推奨した。

⑩幕府は両統迭立原則に従い持明院統の量仁親王を皇太子にすべきと表明した。大覚寺統の後継者は邦良の子である康仁と決められた。

⑪後醍醐はここで幕府と持明院統が自分の意向を阻むものと痛感した。後醍醐は各地の悪党を集めて倒幕準備を進めた。

今回の計画は事前に幕府に露呈した。後醍醐側近の吉田定房が幕府に密告した。

⑫今回は幕府は正中の変にも関わっていた日野俊基らが六波羅探題の手で捕縛された。後醍醐は都を脱出して笠置山(京都府)にこもり抵抗を試みた。兵力を集めたが抵抗しきれず笠置山は陥落し後醍醐は捕まった。

⑬幕府は後醍醐に退位を迫った。三種の神器は量仁親王に渡った。

1331年(元弘元年)に後醍醐は天皇の座を退き光厳天皇(量仁親王)が即位した。

⑭こうして日野資朝・俊基らは処刑されて後醍醐は承久の乱の時と同じく隠岐国(島根県)へ流された。これが元弘の変である。

⑮後醍醐の巻き返しはここから始まる。承久の乱の時と違いこのとき幕府への不満を持った武士たちが日本各地に多数いたのである。

■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社

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