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【日本史7】鎌倉史備忘録37

鎌倉時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①承久の乱(=後鳥羽上皇の乱)以降は朝廷と幕府の関係は
表面的には融和的であった。幕府は天皇の
皇位継承など口を出したが朝廷側は受け入れた。

②幕府は朝廷の刺激をせずに後嵯峨上皇の息子である宗尊親王(6代目将軍)を親王将軍として迎えて朝廷の財政を幕府が支援した。

③朝廷内では皇位継承をめぐる対立が見られた。後嵯峨(88代目)は息子の後深草天皇に皇位を譲って後深草(89代目)は弟の亀山天皇(90代目)に皇位を譲る事で院政を開始した。

④ただ後嵯峨は後深草と亀山どちらの系統を正統とするかを明確にしないまま亡くなった。どちらも上皇となり院政を行う事について対立が生じた。

⑤天皇家は後深草の系譜である持明院統と亀山の系譜である
大覚寺統に分裂して皇位と天皇家の荘園をめぐって対立した。
皇位継承の決定には幕府の意向の影響があった。

⑥両統は幕府が自分の系統の皇子を次期天皇に指名するように働きかけた。亀山の後継者は皇子の後宇多天皇(91代目/大覚寺統)、後宇多の後継者には後深草の皇子である伏見天皇(92代目/持明院統)が立てられた。

⑦鎌倉幕府はここに介入した。伏見の即位には幕府が設けた朝廷連絡の役職である関東申次の座にあった西園寺実兼の意向を踏まえて幕府が伏見天皇の即位を決定した。

⑧亀山上皇は院政を展開するが、霜月騒動で失脚した安達泰盛と親しかったために倒幕の意向を疑われた。ゆえに院政の担い手が後深草に変更された。

⑨伏見の後継者に後伏見天皇(93代目/持明院統)となった後に大覚寺統による働きかけを受けた幕府の意向で後伏見は退位した。そして後二条天皇(94代目/大覚寺統)が即位した。

⑩後二条は亡くなって次に花園天皇(95代目/持明院統)が即位するなど天皇や上皇は次々に変わっていった。

⑪幕府は両統に対して交互に天皇の座に就く両統迭立を提案した。1317年(文保元年)に両統は文保の和談によって花園天皇の後継者は後醍醐天皇(96代目/大覚寺統)に決まった。

⑫大覚寺統のなかで権力者であった後宇多は息子の後醍醐を天皇としたが孫の邦良親王を後継者にしたかった。後醍醐は「邦良親王が成長するまでのつなぎの天皇」だったと云われている。

⑬両統迭立は幕府が解決策を提案しただけで両者合意には至っていないという説や内容の一部にとどまるといった説もある。鎌倉幕府は以後皇位継承への干渉はしなくなった。

⑭1316年(正和5年)に北条高時は14代目執権となった。政治実権は連署の金沢貞顕(さだあき)や得宗家執事の長崎高綱や安達時顕(ときあき)が握っていた。得宗専制政治は崩壊しつつあったため高時は権力を行使できなかった。

⑮北条高時は鎌倉幕府の滅亡を招いたとされているが、御家人制の崩壊や飢饉が蔓延しており政治の主導権はなかったので致し方ない部分が多い。こういった文献は南朝の人々の記録であり中立性は乏しい。

■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社

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