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みんなちがってみんないい!〜コテンラジオ#298を聴いて〜メモと感想〜



「社会で障害者が差別排除されていることがデフォルトな社会が形成されて行く。」1回目のその後、

2回目は、「障害」が宗教の中でどのように扱われていったのかのお話でした。こちらでは、「歴史の中で障害者の人たちは社会の中で生きてる 完全排除ではない。」とのこと。

しかし、宗教によって強固に「差別」ロジックが作られ、一方で「救済」ロジックもある。と続き、古代メソポタミア、シュメール神話、古代中国の差別。救済としての社会参与の例がヤンヤンさんによって語られていきます。

この3つのの文明の場合、神事や占い、手仕事や音楽に裁判所の職員として活躍する場を与えられたこともあり。また、あえて神事についてもらうためにわざと目を傷付けるなどして目に見えないものを見る仕事に従事してもらう場合もあったそうです。

また、お話の途中、深井さんから注釈が入ります。障害の定義が広すぎてあいまいだということです。障害のあり方はそれぞれ違うので、一概には言えない。これは、耳や目の聞こえない人と、欠損のある人、病気の場合など、各々の障害にも幅があり、救済例も限定され、歩けない人はこの例には入らないとのこと。

こういった丁寧に調べられていることに対しても、発表の時点で練り上げながらのやりとりがある。真実をできる限りきちんと提示しておきたい、という株式会社cotenの配慮に丁寧さと信頼を感じます。

その後も、キリスト教、イスラム教、儒教、日本仏教についてがヤンヤンさんによって語られていきました。

宗教の救済ロジックがあることはやはり「障害」の助けになるということ。

キリスト教においての寄付などは、社会問題の解決としてではなく、自分たちが救われるために救うという行為が位置づけられている、寄付はどちらも救われるための行為にあたるのだな。と改めて感じました。

そして、聖書のレビ記には隣人として、障害のある人の悪口や意地悪をしてはいけないと明記されているそう。差別排除が基本だった社会を経ているので、こういったことが明記されるようになるのはとても重要なことだと思いました。

また、キリスト教の差別と排除のロジックには、汚れたものとして、重い皮膚病。不浄、隔離。身体障害のある人は祭壇での奉仕は許されず。加えて障害が脅しの手段や罰として社会的に伝えられていたことへの言及もありました。

イスラム教の場合では、クルアーンに、「目の見えない、口が聞こえない、耳が聞こえない、もしくは足が不自由」などの障害があるのは、人間なら当然、人間はそもそも不完全。といった記載や考え方があるとのこと。

一方、差別と排除のロジックでは社会的な義務が免除され、戦争参加不要→条件付き。アッラーへの忠誠やイスラムの教えを受けること。とされているそうで、これまで聞いてきた宗教の中でも寛容と話されていました。
             
儒教(古代中国)の孔子が障害のある人を敬っていたというエピソードについては、後世に作られた建前としてのエピソードで、本当はそうではなかったのではないかという考えが話題になっていました。

日本の仏教についても語られていましたが、その後の総括が、お話しされているご本人たちの中でめちゃくちゃ盛り上がっていて、聞いている側としても、とても面白いところでした。


1つ、富の傾斜配分、一部の障害者が社会参加していたという事実。
宗教が基盤OSになって行く中で
「障害」というカテゴリー作られて、
どうして「障害」になったのか?という理由が考えられて、
その救済もしたほうがいいため、救済の理由も作られて…


エピソード2回目にしてクライマックスが…!とお話しされていましたが、メタ認知がメタ認知を呼んで、深井さんが入子式に「サピエンスのストーリー化」、を連呼されているところが「そんなにもサピエンスのストーリー化」はメタ認知を覆い隠す問題を発生させる「原因」として認知されているところなんだな感を発散させていました。←ここの盛り上がりめちゃ面白く「聴きどころ」だと思います♪


*(以下メモそのまま)
ストーリー化。ホモサピエンス、 
障害がネガティブに組み込まれている。
全てを我々は絶対視している。

生の歴史、同性愛者や女性への差別、絶対性がない。
認知と認識のなかでかなり適当に作られている。あいまい。

社会という言葉さえも実態のないもの。ふわっとした合意形成の中で
みんなが納得するからそうしている。

障害者を差別、殺したりしたりする中で。
ぜんぶがそうやってできているな。

これをいうのも危険、すごく論理性、合理性のない動物。
最初に感情で全て後付けで決めててそれで説明した気になりつづけてる。ホモサピエンス。

優生学。そこでもすごく思う。この感覚が繰り返され続けてる。
ストーリーがないのにストーリーつけてて。
人間てなんなんだろうな。

想像した現実の中で。社会の中で自分が縛られて行く。
おかげでコーポレーションもできるが。

人間のストーリー理解特性。
偶然の産物をとにかく理解できない。
全てに理由つける。

ほんとホモサピエンス

なんでストーリー理解しかできないんだろう。と理由を見つけようとしている。

ストーリー理解できないと。
頭いいから。想像するし絶対神作るし。宗教OS.

差別ロジック救済ロジック。
ストーリー理解の仕方。科学にすり替わる。

ストーリー理解。

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個人的に2回目は、日本の琵琶法師の話もとても興味深かったです。
目の見えない楽士が組織的に活動しており、音楽、語り物、占い、宗教儀礼など内容に共通するものが演じられたとのこと。

琵琶法師はここ何年かのアニメーション作品にも、高頻度で登場します。

まずは2019年の手塚治虫原作の『どろろ』。こちらで活躍した盲(めしい)の琵琶丸は、盲老人として保護されておらず、自立して人助けも戦うこともできる個としての存在感の強い琵琶法師でした。

また、昨年2022年の映画『犬王』も、生まれた時から異形の身体であったため、まさに猿楽師の家系をめぐる偏見や差別がおこり、その渦中で芸を極め、新しい能の舞台を創作していく主人公が描かれています。映画の中では犬王の友人として出会ったもう一人の目の見えない主人公が、犬王と共に琵琶を奏でてゆきます。

特に「当道座(とうどうざ)」について話されていたところは、『犬王』にそういった組織があった!と思い浮かべながらお話を聞きました。
これは琵琶法師から発生した組織として、男性の目の見えいない人たちを統括する組織で「あんま、鍼灸」の派遣の元締めのような仕事を担っていたとのこと。『犬王』では史実が踏まえられた創作がなされていたのだな。と、改めて見識を深めることができました。

また、「障害」があると言えるかと問われれば難しいですが、同じく2022年アニメーションの『平家物語』の主人公びわ。こちらも他人には見えない幽霊や未来が見えてしまうという女性の琵琶法師です。

目が見えないのではなく、「普通では見えないものが見えてしまう。」能力は、こちらで話されるような社会的な「障害」として描かれてはいませんでしたが、物語の視聴者である私たちに語りかける存在である彼女の個人的な疎外感は、「障害」を持つ人も持たない人も透過する歴史の流れにおいて、感受性である「もののあわれ」を発生させる重要な役割を果たしていたと思います。

こうして琵琶法師をめぐる作品を見ていくと、「障害」と作品は、真珠貝と真珠のような関係にも見え、創作とはそういった成分を含むものも多いと感じます。また、創作による「ストーリー化」は人類の慰めであり、パンドラの希望でもあるのだろうか、などと考えたり、これも振り返るとストーリー化なのだろうか、と考え続けてしまいます。

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このメモは、あくまで私、椿りつがコテンラジオの番組を聴きながら個人的な感想と記録のために残したものです。聴きまちがえ、書きまちがえなどが発生している可能性があります。ご留意くだされば幸いです。

また、こんなに長いメモを最後までご覧いただいて恐縮ですが、ぜひ原点の配信にも当たられてください。めちゃくちゃ面白いです!

なお、いうまでもなく私はいちリスナー(こてんくるー)であり、コテンラジオの関係者ではありません。

https://youtu.be/W7-cLR4y9kE

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