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税理士になろうと思った理由①病名確定

こんにちは。
丘咲 つぐみです。

16回目の記事になります。
すっかり久しぶりの投稿になってしまいました。

続きをつづっていきたいと思います。

27歳を迎えたころ、病名が判明しました。
痛みで顔を歪める生活が始まってから、11年も経った頃のことです。
知人の紹介で訪れた大学病院で、脊髄の希少難病との診断を受けました。
後から分かったことですが、この病気は当時、まだまだ研究の途中であり、認知度の低い病気だったようです。病名判明から20年がたった今でさえも、初めて訪れる整形外科で病名を告げると、お医者様でさえ「初めて聞きました。勉強しておきます。」とおっしゃられるほどです。

とても珍しい病気で、その診断のできるお医者様もほとんどいらっしゃらない。
30か所以上の病院を訪ね歩いても、病気が発見してもらえなかったことも、納得です。
寧ろ、31か所目にして診断できるお医者様と出会えたことの方が、奇跡だったのかも知れません。
初めて病名を告げられたその日、笑顔を止めることができませんでした。
口角を下げよう、下げようと、どんなに頑張っても、まるで糸で釣り上げられているかのようでした。私の口角は上がりっぱなしです。病名は、私のとってはまるで高価なプレゼントを頂いたよう気持ちでした。

誰も認めてくれなかった私の痛みを、理解してくれる人がいた。
私の痛みに名前が付いた。
痛みの理由が分かったのだから、いよいよ治療が始まる。

病名が付いただけでは、まだ何も状態は変わってないはずなのに、もう半分以上、治った気持ちになっていました。痛みに耐える呻き声の合間を縫って、鼻歌がこぼれてきます。

病名が判明すると、すぐに決断を迫られました。
「手術をしますか?」

11年も痛みに耐え、痛みに支配される毎日が続いていたのですから、返事は決まっています。
しかし、お医者様の言葉には、続きがありました。
「手術しても、治るかどうか、分かりません。
 もし、効果があったとしても、どこまで回復できるか、いつ効果が表れるか、何とも言えません。」
と。
お医者様の歯切れの悪さには、理由がありました。
発症から手術に辿り着くまで、時間が掛かり過ぎたというのです。
簡単に言ってしまえば、「手遅れ」ということです。
症状が出始めてから、1年以内に手術ができていれば、完治できる可能性が高かった。
しかし、11年も経っている私の身体では、どこまで回復できるのか、未知だというのです。

やっと手に入れた病名。
これで、痛みと共存する生活とはさよならできるはずでした。お医者様の言葉は、私にとって余りにも残酷です。
しかし、それでも、即答しました。
「はい、もちろん、手術をお願いします!」

改善する保証が何もない手術を受けても、ただ身体に傷を残してしまうだけになるかも知れない。むしろ、手術の後遺症を残し、今の痛みだけでなく、更に苦痛が上乗せになるだけかも知れない。
それでも、私の答えは、「はい」の選択肢しかありませんでした。
なぜなら、症状が出始めてから11年間、痛みによって失ったものがあまりにも多かったからです。
自分さえ努力を続ければ、行きたい大学なんて当たり前に行けると思っていました。
親の元から逃げられるのであれば、奨学金の負担くらい、何ともありません。
大学へ行ったら、楽しいキャンパスライフというものが、待っていると信じていました。
ところが、現実はどうでしょう。
高校さえも真面に通うこともできず、たった一人の友人さえも作ることができませんでした。それどころか、人との交流も途絶えることになったことで、高校以前の友人や知り合いもいなくなりました。
高校に通うどころか、どんどん体中が痛みに包まれていく恐怖との日々です。
日を追うごとに、年齢を重ねる毎に、自分のできることがどんどん少なくなっていきます。
まだ10代~20代だっというのに。
そして、この痛みを理解してくれる、分かろうとしてくれる人も、誰もいない恐ろしさ。
私はこのまま、痛みに支配されるだけで生きていかなければならないのか、何の望みもないと、絶望が広がっていたのです。
複雑性PTSDも摂食障害も治らなかったとしても、この耐え難い痛みだけでも消えてくれたら。。。
だから、例え改善する可能性が0.000001%しかないような手術であったとしても、私の答えは、「はい」しかなかったのです。

(つづく...)

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