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絶望か希望かを決めるのは、いつだってウチら

思っていたよりも、涙はでなくて「これから先どうしよう」とただ思った。

わたしは一年にニ回ほどしか生理がこない体質だ。昔から悩んでいたけれど、どこの婦人科に行っても「思春期ですね」という言葉で済んでいたから、気にせずにいた。今回の生理は、ほぼ一年ぶり。3週間も続くから、さすがに病院へ行った。

多嚢胞性卵巣症候群です」と言われたとき、まったく字面が頭に浮かばなくて、?が並んだ。

「自然妊娠はおそらく無理です」

続けてそう言われたときは、ああそうなんですね、とすぐに口から言葉が出た。子どもを真剣に考えるなら早めに不妊治療してくださいね、と続く言葉も上の空。平静を装うのと反対に心臓はバクバク鳴る。そのあとのことはあまり覚えていない。会計をして、処方箋をもらい、外へ出た。

わたしが自然妊娠できないとわかっても、夕方の空は目に染みるほど綺麗だ。世界はなにも変わらない、でも、わたしは。

夫にすぐに電話をかけた。コール音をCHEHONの「韻波句徒」にしている夫。「what you gonna do ♪」とか歌われても、と腹が立ってくる。CHEHONは悪くないのに、何度かけても出ないコールに段々殺意を覚える。

結局、言えないまま、永遠になにかを話していた。止まってしまったら、せきとめられたダムのように涙があふれてしまう気がして。

「わたしって愛されてるよ、人生じゃなくて、物書きの神様にね」そんなことをふざけて言った。ネタになるよね、なんて笑うしかない自分が寂しくて。

怒ったように早歩き。信号無視で横断歩道を渡ってしまって「今日は許せ、世界!」と心の中で怒鳴りつける。車なんて通らない田舎の赤信号なのに、それを気にするなんてこんな時もわたしらしい。

帰ってきて、とりあえずタバコを吸う。妊娠するかもだからもうやめる!なんて何度言っても禁煙できずにいたけど、もうその心配はないなあと思う。ふと薬指を見たら結婚指輪がなくて、昨日外したことを思い出す。置いていたはずの場所にはなくなっていて、こんなバッドデイある?

ねえ、神様さ、今も見てるんでしょ?なんなのこの人生。

つぶやいても降りてこない神は、きっとわたしを見捨ててる。



"多嚢胞性卵巣症候群とは、女性の排卵が阻害されて卵巣内に多数の卵胞がたまり、月経異常や不妊が生じた病態"

症状としては、ホルモンバランスにより声が低くなったり、肥満になったり、髭が生えてくることもあるらしい。わたしは実際、ここ数年で急激に太ったし、高い声も出なくなった。口周りも毛が濃くなって、毎日剃っても夜には生えてくる。夫に指摘されて恥ずかしい思いをしたのも一度や二度ではない。

女性の5〜8%に見られ、不妊の原因としては割と一般的らしい。

調べたことを噛み砕いてみても、受け入れられないまま。「好きな人の子どもを産めないのかもしれない」その事実だけが目の前に大きく立ち塞がっていて、わたしは部屋の隅で膝を抱えたまま夜を迎えた。



「自分が当たり前に持っていると思っていたものが無かったと知った時は、やっぱりつらいですよね」

電話口で後輩が優しく言葉をかけてくれる。夜に約束していた電話で話した今日の出来事。その言葉を聞いて、ほんとうにそうだなあと思う。

握りしめていたと思っていたものが、手を開けたら砂のようにこぼれていく。拾っても拾っても、それはもう手に入らない。まるで一握の砂。当たり前のように結婚して、子どもが産まれてゆく友人たちを思い出しては、"友がみなわれよりえらく見ゆる日よ"。

別に子どもが欲しいと、強烈に思ってはいなかった。子どもが生まれたらいいなあと妄想するぐらいで、絶対欲しい!なんて思ってなかった。はずなのに、わたしはこんなに動揺している。

それはきっと、小さな頃から刷り込まれた「お母さん像」だ。当たり前のように産まれた赤ちゃんを腕に抱いて、手をつないで歩き、ご飯を食べて笑い合う。そんな勝手な"当たり前"が、わたしの中にあったことに気づかされて、なんだか悲しくなる。

今の時代、不妊治療なんて当たり前だ。結婚しないひともいるし、3組にひとりは離婚する。養子や同性愛含め、多様性が認められるべきだとわたしは常に思っている。

なのに、わたしは"自然妊娠"という言葉を、当たり前だと思っていた。馬鹿みたいだとおもうのに、簡単には受け入れられない夜。



だいすきな人生の先輩に夜中、思わずヘルプ!と連絡をした。彼女はお子さんを育てながら、バリバリ仕事をするスーパーウーマンだ。オレンジの髪をなびかせて、いくつになっても少女のような、美しいひと。

わたしが半泣きで散々話をする。うんうんとずっと聞いてくれ、彼女が調べてくれた内容をたくさん話してくれる。人生の先輩は、不妊治療にも詳しくて、周りも不妊治療してるひと多いから大丈夫だよ!と言ってくれる。そして、彼女は言った。

「絶望か希望か決めるのはウチらじゃん?」

彼女は続ける。

「絶望するのは簡単だよ。いつだって、絶望するのは遅くない。あなたは、きっと自分で考えて向き合って、一生懸命明日への答えを出せるひと。だから、絶対、大丈夫だよ」

そう聞いて、安堵の涙がぽろりとこぼれ落ちた。そうだ、絶望するのはいつでもいい。わたしは、わたしのために、わたしの人生を生きなきゃ。そう思えて勇気が出た。

自然かどうかなんて、普通かどうかと同じだよ。普通ってなに?普通に縛られる必要なんてなくない?なんて夜更けに話しこむわたしたち。自然という言葉にこだわる必要なんてないんだよ。わたしたちの目の前に広がる可能性は、無限大。

不妊治療なんて現代では当たり前だし、妊娠がすべてじゃない。大好きな友人の子どもを可愛がることもできるし、地域で子どもたちに関わることもできる。いつだって"自分次第"。自分なりの関わり方で、自分のやりたいことを。



わたしたちは、つい他人を羨んでしまう。それは当たり前だし、否定することはない。SNSが普及したことで、みんな自分の綺麗な部分だけを切り取って見せられるようになった。それがわたしたちの嫉妬を加速させる。

でもね、ほんとうはきっと、あの子にも泣く夜がある。暗闇にひとりぼっちにされた気分で絶望している夜が、あの子にもあるんだよ、絶対。

勝手に作り上げた物語じゃなくて、あの子を自分の瞳で知りたい。そして、わたしも傷をあの子に見せよう。そしたらきっと、わたしたちは愛とほんとうの理解でつながれる。

わたしたちだけは、ひとを決めつけたり、自分の可能性を狭めたりしないでいようよ。どんな選択も、どんな道も。"わたしが"選んだこと、"あなたが"選んだこと。そして、それを尊重しあおう。

おじいちゃんやおばあちゃんの顔が浮かんで、子どもを産めないかもしれないと絶望した。でも、わたしが幸せになることが、おじいちゃんたちを幸せにすることだと、ほんとうは知っている。だから、わたしは曇った瞳じゃなくて、澄んだ眼差しで、世界の"真実"に目をこらそう。

わたしのために、わたしが進む。この人生は短い映画だ。あっという間に時間が過ぎ去るショートフィルムの主人公はわたしだから、自由に脚本を書こう。明日も明後日も、スポットライトを浴びるのはわたし。ハッピーエンドに向かって、ただ進み続ける。

悲しいことも苦しいことも、迷うこともあっていい。だって、ずっとハッピーな映画なんてつまんないでしょ?山あり谷あり、涙あり。笑って泣いて、最期には「いい映画だった」と言って幕を閉じよう。

チャップリンは言った。

「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」

子どもが産めなくても、結婚しなくても。恋人がいなくても、病気でも。どんなわたしたちも尊い存在で、素敵だ。悲劇のような喜劇を生き続けよう。夜明けとともに浴びる朝日という名のスポットライト、待ってろよ神様、わたし絶対幸せになるからね!

みんな、同じだよ。一緒に生きていこうね。

また明日。

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