見出し画像

政治(経済・金融)講座ⅴ1484「民営化の結果と是非」

 政策の弊害はそれが一度実施されても、廃止や変更しようとしたときに「既得権」というものを主張する輩により、その既得権を断ち切ることに最大の労力を要することになる抵抗勢力(弊害)が起きるのである。
 国鉄と郵政の事業を費用対効果で考えたら非常に非効率で採算にあわない事業であった。
あれも必要だ!これも必要だ!と選挙の票集めで不採算の要求を受け入れて政治介入を許してきた「親方日の丸」で、「おんぶにだっこ」してきたのが、国鉄と郵政であろう。
 民営化による経営効率で事業の採算ベースに乗るようにできてきたのである。ただ、まだ、過去の過剰な負債の清算には至っていないのである。
 税金を費用対効果で考えなければいけないのであるが、福祉事業は採算ベースではなく、国民の最低の文化的生活を行えるように、税金の負担は止むをえない。
 その福祉事業にしても、事業化して効率化で税金の無駄は廃止する体制は必要であろう。 
 近年、ロシアのウクライナ侵攻で驚いたことに、民間軍事会社に戦闘の委託をしていることである。傭兵を使って戦闘をしているのである。
 歴史を振り返ると、旧ソ連が崩壊したのも軍事費に膨大な国家予算を使い、その結果、経済破綻を招いたことは記憶に新しい。ソ連崩壊は1991年である。
 止めどもなく国家予算を湯水のように使うことは、最悪の結果としてスタグフレーションを招くのである。
国は必要な事業には国債発行で極度のインフレになるまでは金を供給すればよいのだ」と田母神氏は主張するが、アルゼンチンの経済破綻、ベネズエラのハイパーインフレションの例があり、ある程度の財政規律が必要である。
 国債発行と安易に言うが、誰がその国債を買うのか、誰に購入してもらうのか。国民が信用して買うか、銀行が預金で集めた資金を運用として国債を購入するのであるが、金利相場で国債の売買価格は変動する。
次の戦時貯蓄債券は銀行発行の割引債券である。
割引売出価格5円⇒償還の際7円50銭を支払う
割引売出価格10円⇒償還の際15円を支払う
最終的にはこの債券は紙屑同然となったようなものである。

そして、金貨と交換できた兌換紙幣も実質紙屑となったようなものである。これが、歴史が証明するインフレによる通貨(貨幣)の価値の毀損の現象である。
経済は心理学である。
不安心理は、信用不審へと伝播して、信用で成り立つ経済を一瞬で破壊する。
それが後述する「狂乱物価」と言われるもので、吾輩も経験した。二度と貨幣価値の毀損を崩壊する政策は願い下げである。インフレは全国民から貨幣の財産価値を一瞬にして奪う泥棒のようなものである。

兌換紙幣と不換紙幣


1871年5月10日 日本で初めての統一通貨「円」が発行
1ドル = 1円
1945年 日本敗戦 戦後の混乱期が始まる。
1ドル = 15円
1947年 食料エネルギー問題などで、インフレが止まらず
1ドル = 50円
1948年
1ドル = 150円 → 270円
1949年 インフレを抑えるためGHQはドル円相場を360円に固定する。
1ドル = 360円
戦後このようにインフレを経験しているのである。
1970年代半ば特に1974年(昭和49年)の日本の物価の異常な物価高騰が発生した。それを「狂乱物価」という。名付け親は政治家の福田赳夫である。

 インフレを容認することには、所得の少ない者や年休受給者や貯蓄型よりの生活者に通貨(貨幣)価値の下落を強いて、生活を苦しめることになる政策であり、極めて慎重にするべき政策であると吾輩は主張する。
日本を「失われた30年」と揶揄する輩がいるが、通貨(貨幣)価値が安定した生活しやすい日本であると吾輩は評価する。安易に、インフレ政策を主張する政治家を支持できないのである。生活困窮者を逆に増やす政策がインフレ政策である。
なお、現代貨幣理論で国債の発行を主張しているならば、見当違いである、何故ならば、最終的にインフレの被害で国民が阿鼻叫喚に陥るのである。
蛇足:現代貨幣理論を要約すると、通貨発行権のある国が自国内で消化できる範囲で国債を発行できるなら可能であるとの理論。それもインフレが起こらないことを条件に国債発行が可能であるとの主張である。そして、デフレ経済だからできる手法である。翻って、世界的にインフレ傾向にあり、日本の物価も上昇し、インフレ傾向にあるので、無制限な国債発行は危険水準になりつつあると吾輩は考えるのである。

     皇紀2683年11月12日
     さいたま市桜区
     政治研究者 田村 司

田母神俊雄さん、国鉄と郵政の民営化は「大失敗だった」と私見 フォロワーも「地方が壊死する。水道も危ない」

12 時間

田母神俊雄さん© 中日スポーツ 提供

 元航空幕僚長で軍事評論家の田母神俊雄さんが9日、自身のX(旧ツイッター)を更新。国鉄と郵政の民営化について、「大失敗だったと思う」と私見をつづった。

 田母神さんは「国鉄や郵便局は国民生活のインフラである。民営化は大失敗だったと思う」ときっぱり。「地方のローカル線が民で維持できるわけがない全国一律の郵便料金が民で出来る訳がない」と国鉄は1987年、郵政は2007年にそれぞれ民営化した後はサービスの縮小が地方で進んでいる状況を指摘し、「国がやってこそ事業が出来る」と主張した。

 さらに、「こう言うと税が財源であると騙されている人はそんな金がどこにあると言うだろう。しかし国は必要な事業には国債発行で極度のインフレになるまでは金を供給すればよいのだ」と持論を展開した。

 フォロワーらからは「地方への公共サービスが行き届かなくなるから地方が壊死します。社会インフラの民営化は絶対ダメ。水道も危ない」「まさかこの先、警察や消防、自衛隊まで株式会社化するんですか?」などの声が上がっている。

竹中平蔵氏 自身が大臣就任時は「日本が良い感じになった」胸張る「失われた30年」否定「まだら。良い時もひどい時も」

デイリースポーツ によるストーリー • 1 時間


 元経済政策担当大臣の竹中平蔵慶大名誉教授が5日、読売テレビ「そこまで言って委員会」に出演。自身が大臣を務めていた時期は「日本が良い感じになっていた」と胸を張った。

 この日の番組では、司会の黒木千晶アナウンサーが「日本の失われた30年と言われるが、岸田(文雄)さんの政策で変わるんですか?」と聞くと、パネリストの竹中氏は「もっとひどくなるでしょうね」と斬った。

 続けて「そもそも『失われた30年』という言い方が間違っている」と指摘。「『まだらな30年』で、すごくよくなって、ある時期は日本の方がアメリカよりも成長率が高くて、株価の成長率が高い時期もあるし、まったくダメだった時期もあるし」と話した。

 作家の竹田恒泰氏が「竹中さんが大臣をなさっていた時期に、日本は良い感じになっていたと、そういうこと?」と聞くと「うん。そういうこと」と何度もうなずいた。スタジオでは、笑いが起こっていた。

 竹中氏は、2001年の第1次小泉純一郎内閣で経済政策担当相に。その後、郵政民営化担当相、総務相、などを歴任した。

国鉄の民営化の経緯を要約する

巨額債務の解消と政治介入の排除

モータリゼーションの進展による地方での「国鉄離れ」が進んだことに加え、国が戦争引揚者の雇用対策として、国鉄で大量に採用させた職員の人件費が上昇したことより、1964年(昭和39年)日本国有鉄道として赤字に転落した。
同年は東海道新幹線の開業した年でもある。
昭和40年代後半には、生産性改善運動である『マル生運動』の失敗などもあり、労使関係が悪化して順法闘争スト権ストが発生した。

1949年(昭和24年)に、国鉄は鉄道省から分離され、独立採算制の公共企業体として発足した。これにより政府は国鉄収支についての経営責任を負わなくなったが一方で、運賃や予算、新線建設、人事など、経営の根幹ともいえる「重要な決定事項」については、国会の承認が必要だったために、政治の介入を強く受けた。

例えば、選挙対策やインフレーションの防止などを狙って、政府が運賃の値上げを中止させたこともある。
また、民業を圧迫するという理由で、運輸業以外の他業種への参入が認められなかった
ほかにも、田中角栄首相が掲げた日本列島改造論や、政治家の選挙区に鉄道を誘致させる見返りに票を得るいわゆる「我田引鉄」と言われた利益誘導のために、地方のローカル線の建設要求は強く当初から採算の見込めない赤字ローカル線の建設も続けられていた。新規建設が凍結されたのは1980年(昭和55年)になってからだった。

また政府は建前上、国鉄は独立採算であることから、国鉄が赤字転落しても補助金の交付を避け、国鉄自身に鉄道債券などの借金をさせた。大都市部(特に首都圏)では急激な人口集中によって鉄道通勤事情が極度に悪化しており、対策を求められた国鉄では「通勤五方面作戦」を展開するなどして輸送力の増強に努めた。
だが、これに要する費用には国からの補助金はほとんどなく、国鉄の自己負担となっていた。新幹線の建設にも巨額の費用が投じられ、建設費はそのまま国鉄の債務として積み上がっていった。それに加えて、大蔵省(現:財務省)は日本国政府が責任を持つ財政投融資を制限し、政府保証の無い特別鉄道債券を発行させたので、国鉄はより高利の負担が必要になった。有利子の借金で資金調達を行う仕組みを続けた結果、国鉄の赤字を急速に拡大させた要因となった。
1969年から工事費に政府の補助金交付が開始され、1976年からローカル線維持費である「地方交通線特別交付金」などが追加された。
だが、既に「焼け石に水」の状態であった。

日本鉄道建設公団の発足以降は、こうしたローカル線の建設費用は国が負担するようになったが、営業開始後の赤字は国鉄の負担であった。昭和50年代からは、それまでの運賃抑制分を取り戻すように50%の運賃値上げが行われ、その後も毎年運賃値上げが行われた。
だが、首都圏の路線や新幹線においても利用者が減少を招いたため、収支改善にはつながらなかった。

政府は1980年(昭和55年)に、「最後の自主再建プラン」と評された日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)を成立させた。
この中で人員の削減地方の新規路線の建設凍結、輸送密度による路線の区分(幹線・地方交通線・特定地方交通線)と、それに基づく措置として特定地方交通線の国鉄からの分離・バス転換、地方交通線への割増運賃の導入といった施策を盛り込んだ。

その一方で、1981年(昭和56年)、鈴木善幸内閣は諮問機関として第二次臨時行政調査会(第二次臨調、土光敏夫会長)を設け、国鉄改革など財政再建に向けた審議を行わせた。7月10日に出された「行政改革に関する第1次答申」では、政府の「増税なき財政再建」を志向し、国鉄への補助金も削減されるようになった。さらに1982年(昭和57年)2月5日、自民党は「国鉄再建小委員会」(三塚博会長)を発足させた。

第二臨調では、第四部会(加藤寛部会長)で国鉄改革の実質的な審議が行われた。審議するだけでなく、加藤部会長は「国鉄解体すべし」(『現代』1982年4月号)、屋山太郎参与は「国鉄労使国賊論」(『文藝春秋』1982年4月号)を発表するなど、分割民営化を前提にマスメディアを利用して活発に情報発信を行った。

1982年(昭和57年)7月30日、第二次臨調は基本答申で「国鉄は5年以内に分割民営化すべき」と正式表明し、国鉄そのものの消滅へと大きく舵を切った。鈴木内閣は9月24日、答申に従って分割民営化を進めることを閣議決定した。

自民党内での分割民営化に反対する者も、運輸族の加藤六月、田村元などがいて少数派ではなかったが、同年11月27日に発足した中曽根内閣は、行政改革を掲げて積極的に分割民営化を進めていくことになる。
11月30日、国鉄再建監理委員会の設置を決め、1983年5月13日、国鉄再建監理委員会設置法が参議院で成立し、6月10日、正式に発足した(亀井正夫委員長)。国鉄内部では、松田昌士、葛西敬之、井手正敬らが分割民営化を推進し、松田らは「国鉄改革三人組」と称された。一方、分割民営化に反対する守旧派の国鉄経営陣などは「国体護持派」と呼ばれた。

しかし、首相の中曽根康弘はなおも慎重であった。実質的に自民党のキングメーカーになっていた田中角栄は、民営化は容認したが、分割には反対していたからである。国鉄経営陣や国労は、田中を頼り、非分割民営化を落としどころにしようとした。
1985年(昭和60年)1月10日、国鉄が国鉄再建監理委員会に提出した「経営改革のための基本方策」はそうした内容だった。
しかし、内容は事前に分割民営化派に漏れており、メディアからは厳しい批判を受けた。経営側は秋山光文資材局長に命じて、非分割民営化を主張する極秘資料を作らせ、国会議員やメディアなどに配布した。また、「改革派」の井手を1984年9月21日に東京西鉄道管理局に、松田を1985年3月15日に北海道に左遷し、分割民営化派を抑え込もうとした

2月6日、中曽根首相は塚本三郎(民社党)の質問に対し、国鉄案を「親方日の丸」と答弁し、「けじめをつけなければならない」と処分を匂わせた。田中角栄の権力は、竹下登の造反で動揺しており(創政会)、自身が2月27日に脳梗塞に倒れたことも、分割民営化論を勢いづかせた
1985年12月に発足した第2次中曽根改造内閣では、分割民営化推進派で前記の自民党国鉄再建小委員会会長だった三塚博を運輸大臣として入閣させている(1986年の衆参同日選挙に伴い退任)。
1986年5月27日、国鉄の太田知行常務理事は、朝日新聞記者に「オフレコ」だとして、「国鉄改革三人組」や亀井正夫を非難し、非分割民営化の根回しはしてあると述べた。
この発言は葛西に漏れ、さらに屋山太郎を通じて中曽根に通報された。中曽根はこれを見て、仁杉巌総裁以下、分割民営化に反対する国鉄首脳陣8人の更迭を言い渡した。
6月21日、表向きは自発的に仁杉らを辞職させ、後任の国鉄総裁に杉浦喬也を据えた。「国鉄改革三人組」など左遷された者は本社に呼び戻され、国鉄経営陣は分割民営化推進派が勝利を収めた。

それまでに累積した債務に掛かる利子がさらに雪玉式に債務を増やしていく悪循環に陥ってしまったことから、1982年8月2日、運輸省の1983年度概算要求の中で、債務補填の見返りとして職員の新規採用停止などが確認された。なお、1985年(昭和60年)のみ「民営化後の幹部候補生」として大卒者のみ採用が行われた。翌年は再び大卒を含め採用中止した。

巨額の累積債務を、民営化して経営改善したJR各社の負担国鉄資産の売却、これに日本国政府からの税金投入などで処理することは、国鉄分割民営化の大きな目的であった。ただし、中曽根はその後、国鉄分割民営化の真の目的は、労働組合の解体(に加えて日本社会党をはじめとする左派勢力の弱体化)にあったと述べている。

当時、国鉄の累積債務は37兆円にまで達していた。なお、この数値は意図的な虚報であるという主張も分割民営化に反対した労働組合側からなされているが、利払いだけでも年1兆円を超えるなど、実際にはバブル景気で急激に土地価格が上昇した時期に、保有資産を売却しても到底債務を解消できる額ではなかった。

国鉄の輸送シェアは1960年には約50%を占めていたが、長年に渡り全国で画一的な輸送による地域ニーズとのミスマッチや技術革新の遅れ、さらに相次ぐ値上げ道路網整備による自家用車の普及、航空・高速バスの発達などにより、1985年には約23%と半分以下にまで低下した。

当時の国労は、1985年4月1日現在で、187,592人の組合員を抱える日本最大の労働組合であり、野党の日本社会党(現社会民主党)の主要な支持母体である総評の中心的な存在でもあった。その一方、中核派や革マル派などの過激派セクトが組織に入り込み、一部セクトは公然と社会主義革命を主張していた。しかも国労は彼らを自力で排除できなかった

さらに、雇用安定協約を破棄した国労は雇用不安から組合員の脱退が相次いだ。1986年4月13日、「真国鉄労働組合」(古川哲郎委員長)が分裂し、動労、鉄労の協力の下、結成大会を開いた(真国労は革マル派系組合員だったとされる)。

国鉄はさらに「第二次労使共同宣言」を持ちかけた。従来の宣言に加えて、民営化後も「健全な経営が定着するまで」の争議の自粛、労組側が経営側を相手取った訴訟を取り下げる代わりに、経営側は国労、動労を相手取ったスト権スト損害賠償請求の取り下げを提案した。総評は第二次労使共同宣言受諾に従う方針を出したが、国労の反主流派は激しく反発した。10月10日、国労は修善寺で開いた臨時大会で、労使共同宣言に従う「緊急対処方針」案を賛成101、反対183、保留14で否決した。山崎俊一委員長は辞任し、反主流派は六本木敏を委員長に選出した。そして、山崎ら従来の主流派は国労から脱退した。分割民営化時には、国労組合員は6万2000人にまで減っていた。

国鉄とJRは別会社とし、JRに国鉄職員の採用義務はないとされた。法律上、旧国鉄と新会社は無関係であり、旧国鉄を退社して新会社に応募した者とされた。

左翼陣営が結束して反対。1985年(昭和60年)11月29日には中核派が国電同時多発ゲリラ事件を起こして首都圏と京阪神の国電を1日麻痺状態に置いたが、中曽根内閣の決意は変わらなかったばかりか、逆に国民世論は国鉄の分割・民営化を強く支持する結果となった(分割民営化そのものには反対だった日本共産党などもこのようなテロまがいによる運行妨害は批判した)。公明党・民社党は自民党案に賛成し、社会党は分割に反対(民営化は容認)、日本共産党は分割・民営化そのものに反対した。1986年7月6日に実施された第38回衆議院議員総選挙で、国鉄などの三公社五現業の民営化を公約に掲げた自由民主党が圧勝し、日本社会党をはじめとする野党が惨敗したことで、分割民営化が事実上決まった。

労働組合では、元から労使協調路線であった鉄労が早々に民営化を容認したが、それ以外の組合では意見が割れる事になる。動労は当初は民営化に反対していたが、スト権スト以降の国労との亀裂や、衆参同日選挙で分割民営化が事実上決まったことから松崎明委員長の「協力して組合員の雇用を守る」という方針の下で、民営化賛成に転じることになる。その中で国労は民営化賛成派と反対派が対立し、意見が一致しなかった。

赤字路線の廃止などで余剰職員を多く抱え、なおかつ地域経済の衰退で雇用の機会に乏しい北海道・九州では職員配置の適正化を目的に余剰職員を本州三大都市圏の電車区、駅、工場などに異動させる広域異動(後に東北・中国・四国も対象)が1986年(昭和61年)5月 - 12月に行われ、さらに新会社発足前後には本州3社による広域採用が行われた。特に北海道の場合は、家族を含めて6000人以上が鉄道従業員としての雇用を維持していくために異動した。また、多数の余剰人員が当時人手不足が深刻化していた私鉄、民営バス、民間企業などに受け入れられている。他にも実家に戻り家業を継ぐという選択をしたり、国家資格などを取得して専門的な職に就いたり、国鉄職員時代に培った知識や技能などを生かして独立開業する者もいた。

国鉄分割民営化の時点で、累積赤字は37兆1,000億円に達していた。このうち、25兆5,000億円を日本国有鉄道清算事業団が返済し、残る11兆6,000億円を、JR東日本・JR東海・JR西日本・JR貨物・新幹線鉄道保有機構(1991年解散)が返済することになった。経営難の予想された、JR北海道・JR四国・JR九州は、返済を免除された。

国鉄改革最大の目的といわれた巨額債務の解消であるが、結果は失敗ともいえる。一つには、国鉄時代からの累積赤字は利子が複利を生み、雪だるま式に膨れあがって行き、利払いだけで年1兆円を超えるなど、手の施しようがない巨額に達していたという事情がある。これについては、赤字額が小さいうちに、日本国政府が介入をしていれば防げた事態である。しかし前述の通り、政府は独立採算の建前から、補助金の交付は最小限にして、国鉄自身に借金させる仕組みを続けさせていた。単年度に限って言えば、国鉄末期の1984年度に旅客部門は黒字に転換したが、累積赤字を返済するには焼け石に水どころか、利子の返済すら全く足りなくなっていた。

民営化により市場原理を活用したことにより、本業である鉄道での収益は好転した。また、JRにとっては返済可能な程度に負担額が抑えられたこともあって、有利子負債の返済は順調に進んだ。

土交通省は広報文書の中で、「国鉄末期には、国が多額の補助金(1985年で6000億円)を投入しても、なお1兆円を超える赤字を計上していたが、JR7社で2005年度には約5000億円の経常黒字となり、国及び地方自治体に対し、法人税等として約2400億円(2005年度)を納めるまでになった」と評価している。

一方で、国鉄清算事業団による返済は進まなかった
清算事業団による土地売却は、資産価値は14兆7,300億円といわれていたが、ほぼ半額の7兆7,000億円で売る見積もりを立てているなど、その計画は非常に不自然であった(詳細は日本国有鉄道清算事業団の項目を参照)。実際には、その後のバブル景気による地価高騰により、さらに資産価値は上がっており、1988年3月時点で実勢価格は、一時期30兆円を下らないと主張する評論家もいた。

しかし、土地売却による都市再開発が、さらに地価高騰を悪化させるとする主張がなされた結果「その地域の地価の異常な高騰が沈静化するまでこれを見合わせる」とする中曾根内閣の閣議決定など政治介入があり 、資産売却は予定通り進まなかった。

その後のバブル崩壊によって、土地の時価総額が急減し、土地が塩漬けにされている期間に有利子負債が嵩み、かえって債務総額は増えた。1998年(平成10年)10月22日の清算事業団解散時には、国鉄から引き継いだ時に比べて、2兆8,000億円増の28兆3,000億円に達していた。結局、借金返済は独立行政法人・鉄道建設・運輸施設整備支援機構の「国鉄清算事業本部」が清算事業団を承継して行っている。

清算事業団解散時にあった28兆3,000億円の借金のうち、16兆1,000億円の有利子債務は、国の一般会計(たばこ特別税)に承継、つまり日本国政府の借金となった。残る債務のうち、年金等将来費用3兆4,000億円厚生年金移換金約5,900億円を国鉄清算事業本部が、厚生年金移換金約1,800億円をJRが、これまでの負担分とは別に返済することになり、その残りは債務免除となった。

当初から苦境が予想された三島会社(JR北海道・四国・九州)のうち、JR九州は改革が功を奏したものの、北海道と四国は株式上場の目途さえ立たないなど深刻な経営難に陥っている。

ヨーロッパ諸国では、日本の教訓に学び、日本とは異なった形で民営化がなされている。イギリスのように分割民営化を行った国もあるが、ドイツのように1社による民営化を行った国がほとんどである。日本の手法と異なるのは、「上下分離方式」(経営主体を、インフラストラクチャー列車運行に分離し、前者を国家(あるいはそれに準ずる組織)が保有し、列車運行は会社組織が線路使用料を払って行う)と「オープンアクセス」(列車運行への参入を自由化すること)を採用している点であり、欧州連合 (EU) の指令として実施されているものである。

もともと、国際寝台車会社(ワゴン・リ社)やプルマン社、ミトローパ社のような、自前の寝台車や食堂車を持ち、列車運行を行う民間会社が存在した歴史もあって、この様な方式を取り入れやすい地盤があったのである。またこの手法により、鉄道経営を活性化する効果が見られた場合もあり、特に貨物輸送では、多くの事業者が新規参入するなど、その傾向が比較的強いとされている。

ただし、ローカル輸送などの不採算部門の切り捨ては深度化していることや、輸送密度の低い既存在来線の高速化の遅れ、組織の細分化による技術力の低下(このことが結果的に、鉄道車両工業の寡占化を進めたとされる)など、これら諸国も日本と同様の問題に直面している。

ヨーロッパ諸国のうち、イギリスの場合は、非常に複雑な民営化手法を取り入れたが、株主配当に余裕資金をすべて回して経営者が高額配当を受け取り設備投資を削減した結果(「レールトラック」の記事を参照)、後に事故が頻発するなど、設備の劣化が深刻な状態になり、その結果、最近では民営化政策を一部見直して、国家が介入するようになっている。

参考文献・参考資料

田母神俊雄さん、国鉄と郵政の民営化は「大失敗だった」と私見 フォロワーも「地方が壊死する。水道も危ない」 (msn.com)

スタグフレーション - Wikipedia

政治(経済・金融)講座ⅴ1479「日本は『失われた30年』と酷評されるが、貨幣(通貨)価値安定の時代である」|tsukasa_tamura (note.com)

竹中平蔵氏 自身が大臣就任時は「日本が良い感じになった」胸張る「失われた30年」否定「まだら。良い時もひどい時も」 (msn.com)

政治(経済)講座ⅴ1462「デフレとインフレのどちらが好き?日本の経済の考察」|tsukasa_tamura (note.com)

現代貨幣理論 - Wikipedia

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?